第85話 真実の星空
純白の法衣を赤黒い血と泥で汚したマリアンヌは、冷たい石畳の上に倒れ伏していた。
彼女の周囲を取り巻いていた神聖な光は失われ、空間を支配していた絶対的な重圧は、カイの左手によって完全に粉砕されている。だが、マリアンヌの顔に絶望や怒りは浮かんでいなかった。彼女は、口の端からごぼりと鮮血を吐き出しながらも、まるで無知な幼児を哀れむような、底知れない慈愛の眼差しでカイを見上げていた。
「……可哀想に。本当に、可哀想な迷子」
彼女は、震える白い指先を、空の彼方へ――紫色の霧に覆われた偽りの空へと向けた。
「貴方は、自分が何をしたのか、分かっていないのですね。……私から彼らを奪っただけではない。貴方がほどいたのは、この世界を『外の虚無』から守っていた、絶対の守護の糸だというのに」
「守護の糸だと?」
カイは、左手の耐熱グローブを握りしめ、冷ややかな視線を下ろした。結界のことだ。ルカからの報告で知っている。この世界を外側の宇宙から切り離し、エネルギーを内部に閉じ込めておくための巨大な鳥籠。
「……哀れな異端者よ。貴方は自分の理屈が正しいと信じている。ですが、その無知な暴力が招くのは、完全なる崩壊です」
マリアンヌの唇が、狂信的な、そしてどこか悲痛な笑みの形に歪んだ。
「神の御許で美しく静止することを拒み、痛みに満ちた明日を望むというのなら……その望み通り、貴方たちは絶望の中で朽ちるでしょう。……この綻びこそが、箱舟の終焉。貴方が、この世界を殺すのですよ」
不吉な予言。それは負け惜しみではなく、彼女が信じる真理に基づいた、冷徹な事実の宣告だった。結界が破れれば、この高濃度にエネルギーが充満した世界は、外側の「何もない空間」へと無秩序に中身を流出させ、内側から弾け飛ぶかもしれない。彼女はそれを知っているからこそ、時を止めてでも世界を「保存」しようとしていたのだ。
「……それでも」
カイは、恐怖に顔を引きつらせている同郷の人間たちを背に庇いながら、はっきりと答えた。
「生きたまま剥製にされるより、ずっとマシだ」
マリアンヌの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。彼女は何かを言い返そうとしたが、次の瞬間、激しく咳き込み、その意識は深い昏睡の底へと沈んでいった。
元凶が沈黙した。戦いは終わったのだ。だが、安堵の息を吐く暇は、一秒たりとも与えられなかった。
ゴゴゴゴゴォォォォォ……ッ!!
腹の底を直接揺さぶるような、不気味な地鳴りが祭壇の底から響き渡った。
「な、なんだ!?」
「カイ! 祭壇の様子がおかしいわ!」
ジャンの驚愕の声に重なるように、ソフィアが『観測鏡』を押さえながら悲鳴を上げた。
カイが振り返ると、祭壇の床面に描かれていた紫と黄金の幾何学模様が、狂ったように不規則な明滅を始めていた。儀式の中心であった『空間の穴』――地脈と繋がり、外の世界から人間を引きずり出そうとしていた次元の裂け目が、術者であるマリアンヌの制御を失ったことで、猛烈な逆流を起こし始めていたのだ。
ズォォォォォッ!!
空間の穴から、致死量の熱風が竜巻のように噴き上がる。同時に、祭壇を構成していた巨大な石柱や床のブロックが、重力を失ったかのようにフワフワと宙に浮き上がり、次々と砕け散り始めた。聖譜の要であった制御が崩壊し、行き場を失ったエネルギーが自壊を始めているのだ。
「……くそッ、ここが崩れるぞ!」
カイは即座に状況を判断し、背後で固まっている漂流者たちに向かって叫んだ。
「走れ! ゴー! エスケープ!!」
言葉が通じない彼らに向かって、身振りと知っている限りの英単語で退避を促す。突然の足場の崩壊と爆音にパニックを起こしかけていた彼らだが、カイの必死な叫びと、彼が先ほど自分たちを縛る鎖を断ち切ってくれた恩人であるという事実が、彼らの足を辛うじて動かした。
「……オーマイガッ! ヒィィッ!」
「……カモン! ハリー・アップ!!」
高級スーツの男が悲鳴を上げながら這いずり、ナース服の女性が浅黒い肌の少年の手を引いて駆け出す。
「ソフィア、出口のナビゲートを頼む! ジャン、ヴァレリー、瓦礫を弾いてあいつらを守ってくれ!」
「言われなくてもやってるわよ! ほら、もたもた歩いてんじゃないわよアンタたち!」
ヴァレリーが魔導ライフルを乱暴に振り回し、漂流者たちの頭上に降り注ごうとした巨大な石の塊を、青白い雷撃で粉々に吹き飛ばす。
「オラァッ! 俺の背中を追い越しやがったら、置いてくぞ!」
ジャンは残された半分の盾を構え、落下してくる瓦礫を『衝撃反射』で弾き飛ばしながら、ブルドーザーのように退路を切り開いていく。
「ルート確定! 左斜め前方の階段が一番安定しているわ! 急いで!」
ソフィアの指示に従い、カイは最後尾に立ち、逃げ遅れた者がいないかを確認しながら走った。
地割れが走り、祭壇の床が次々と光の穴の底へと飲み込まれていく。すり鉢状の谷全体が、巨大なミキサーにかけられたように崩壊していく。
「ソコロ! あ、ああ……っ!」
前方を走っていた浅黒い肌の少年が、揺れる足場につまずき、無様に転倒した。すぐ後ろからは、崩落による巨大な地割れが、蛇のように彼に迫っている。
「……っ!」
カイは躊躇なく地を蹴り、少年の元へ滑り込んだ。生身の左手で少年の細い腕を掴み、強引に引き寄せる。直後、少年が倒れていた床が、轟音と共に奈落の底へと崩れ落ちた。
「……!?」
少年が、恐怖で見開かれた目をカイに向ける。カイは少年の腕を引いたまま、瓦礫の斜面を必死に駆け上がった。右腕がないためバランスが取りづらい。息が切れ、肺が焼けるように痛む。だが、繋いだ手だけは絶対に離さなかった。あちら側の世界から、理不尽に巻き込まれた命。これを守り抜くことが、俺の戦う理由だ。
「……もうすぐだ! 止まるな!」
崩れゆく石段を駆け上がり、ジャンが強引にこじ開けた防衛線の跡地――すり鉢の縁の外側へと、カイたちは文字通り転がり込むようにして飛び出した。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!
最後の一人が安全圏へ逃れ終えた直後。背後で、世界を叩き割るような爆音が轟いた。
カイが這いつくばったまま振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。彼らがつい数分前までいた『星見の祭壇』は完全に陥没し、その底から、直径数十メートルに及ぶ莫大な光の柱が、天に向かって一直線に吹き上がっていたのだ。
それは、地脈から吸い上げられた原初のエーテルの濁流。行き場を失ったエネルギーが、制御不能な間欠泉となって、スラムやこの世界を覆う「分厚い紫色の空」へと直接突き刺さっていた。
「……なんて熱量なの。これじゃ、結界の天井が……!」
ソフィアが、観測鏡のレンズ越しにその光景を見上げ、青ざめた顔で呟いた。
その言葉の通りだった。光の柱が突き刺さった上空の紫色の雲。世界の蓋であり、3000年もの間この大陸を外界から隔離してきた強固な結界。そこに、異常な物理的圧力がかかっていた。
ピシッ。
世界全体に、耳障りなノイズが響いた。分厚い氷にヒビが入るような、嫌な音。
「……おいおい、冗談だろ」
ジャンが、溶けかけた盾を下ろし、ポカンと口を開けて空を見上げた。
ピキッ、パキン、パキパキパキパキッ……!!
紫色の空に、まるで巨大なガラスに物をぶつけた時のような、蜘蛛の巣状の「亀裂」が走り始めたのだ。亀裂は光の柱を中心にして、四方八方へと猛烈な速度で広がっていく。空が割れる。その比喩ではない、物理的な現象が目の前で起きていた。
そして。
パリーンッッッ!!!!
世界を覆っていた殻の一部が、ついに耐えきれずに剥がれ落ちた。
砕け散った結界の破片が、輝きを失って消滅していく。そして、そのポッカリと空いた巨大な亀裂の向こう側に――ほんの一瞬だけ、「外の景色」が顔を覗かせた。
「……あれ、は……」
カイは、息を呑み、言葉を失った。
亀裂の向こう側に広がっていたのは、昼も夜もない紫色の不気味な霧ではない。深く、底知れないほどに澄み切った、漆黒の宇宙空間だった。かつてスラムでクレドの聖譜を解体した際、亀裂の奥に群青の空を垣間見たことはあった。だが、今回の規模はまるで違う。漆黒のキャンバスには、無数の小さな光がはっきりと散りばめられている。規則正しく並んだ、見覚えのある星座の形。そして、ゆっくりと点滅しながら等速で移動していく、人工衛星のかすかな光。
「……星空だ。俺たちの世界の、星空だ」
カイの口から、無意識のうちに日本語が漏れていた。科学と物理法則が支配し、無駄な装飾が存在しない、透明な宇宙。
ズゴォォォォォッ!!
行き場を失った紫色の霧とエーテルの濁流が、まるで開いた傷口を強引に塞ぐかのように亀裂の周りに殺到し、分厚い雲となって再び外の景色を完全に覆い隠してしまったのだ。外の世界から見れば、おそらく人工衛星のカメラが一瞬だけ捉えた、ただの機械の誤作動か、異常な磁気嵐として処理される程度の、ごくわずかな時間。
それでも、そこにいた者たちの網膜には、確かな真実として焼き付いていた。
「……オー、マイガッ……」 「……ビューティフル……」
傍らで倒れ込んでいた漂流者たちが、消えてしまった空を見上げて次々と声を漏らした。彼らも気づいたのだ。あの星空が、自分たちの故郷の空であることに。
高級スーツの男が、泥だらけの顔をくしゃぐしゃにして泣き崩れた。屈強な格闘家が、天に向かって両手を広げ、言葉にならない雄叫びを上げた。ナース服の女性が、少年の肩を抱き寄せながら、安堵と郷愁の涙を流している。少年もまた、泣き腫らした目で、星空が消えた場所を指差して笑っていた。
「……これが、あんたのいた世界……」
ヴァレリーが、火傷の痛みを忘れたように、ぽつりと呟いた。
「おじい様の手記で……知識としては知っていたわ。でも……」
ソフィアもまた、観測鏡を外し、瞬きする間に消えてしまったその景色を脳裏に留めようとしていた。彼女たちこの世界の住人にとって、星空は本の中でしか知らない未知の光景なのだ。神の教えでは「死の世界」とされていた外側が、これほどまでに静かで、美しいものだったとは。
誰もが、絶望の底で差し込んだ一筋の希望の光に心を奪われていた。
だが、カイだけは違った。
星空が消えた紫色の雲を見上げるカイの胸の奥には、郷愁や感動を上回る、強烈な「焦燥感」と「恐怖」が渦を巻き始めていた。
(……結界が、壊れた)
それは、勝利の証であると同時に、取り返しのつかない事態の始まりを意味している。
マリアンヌの言葉が、脳裏に蘇る。『この綻びこそが、結界の終焉。貴方が、この世界を殺すのですよ』。
そうだ。この世界は、高濃度のエネルギーが充満した異常な高圧空間だ。対して、外側の世界は、エーテルが存在しない場所だ。もし、その二つの世界を隔てていた壁に穴が開いたら、どうなるか。
(……圧力差だ)
カイの思考が、最悪の予測を導き出す。
風船に針を刺したのと同じだ。この大陸に充満している莫大なエネルギーが、あの亀裂を通じて、一気に現実世界へと吹き出していく。それはこの大陸を急激なエネルギー不足による崩壊へと導き、同時に、向こう側の地球に未知の異常現象を撒き散らすことになる。
結界を壊すことが、元の世界へ帰るための条件だと思っていた。だが、こんな無秩序な形で壁を壊せば、二つの世界が混ざり合い、双方に壊滅的な被害をもたらす大惨事になりかねない。
(……俺の身勝手な行いが、世界の均衡を大きく崩してしまったのか?)
カイは、自分の左手を見つめた。人を救うために振るった手が、より巨大な破滅の引き金を引いてしまった。その事実の重さに、足がすくみそうになる。
「カイ……?」
ソフィアが、カイのただならぬ様子に気づき、心配そうに声をかけた。
カイは、顔を上げた。
再び紫色に覆われた空。しかし、その奥には確実に広がり続ける見えない綻びがある。そして、背後で喜びに泣き崩れる同郷の人々。絶望と希望が、マーブル模様のように入り混じった狂った光景。
「……後悔は、しない」
カイは、小さく、しかしはっきりと呟いた。
痛みを恐れて、誰かが犠牲になる機構を黙認したまま生きるなんて、ごめんだ。あのまま彼らが剥製にされていくのを見過ごすくらいなら、壁ごと叩き割ったこの結果を、俺は引き受ける。
「壊れたなら……直せばいいだけだ」
カイは、泥と血にまみれた左手の拳を固く握りしめた。右腕の喪失も、迫り来る世界の崩壊も、もはや彼を立ち止まらせる理由にはならない。
「……俺が、全部直す」
誰に向けたものでもない、彼自身に刻み込む冷たい決意。カイは、紫色の雲に覆われた空から視線を外し、泣き崩れる同郷の人間たちと、傷だらけの仲間たちが待つ祭壇の出口へと、静かに歩き出した。




