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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
偽りの福音

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第84話 時空の共振破壊

 ギリリリリッ……!


 凍りついた空間の底で、カイの魂が限界を超えてきしむ音がした。肉体は一ミリも動かない。だが、カイの内側にある「絶縁体」の殻の中では、途方もない圧力でエネルギーが圧縮され、極限まで細く鋭い『拒絶の振動』が生み出されようとしていた。


 狙うのは、マリアンヌの頭上数メートルに浮かぶ、空間を縫い止めている見えない画鋲――『特異点』。直接触れられないのなら、この空間全体に張り巡らされた彼女の術式の『糸』を導線にし、こちらから逆位相の波を流し込んで、特異点を内部から共振破壊する。


『……探します! あの赤い点……特異点が発している、固有の「音」を!』


 不完全なリンク越しに、遥か地下にいるシエロの声が響いた。彼の極限まで研ぎ澄まされた聴覚が、完全に停止した空間のきしみの中から、マリアンヌの術式が発する微細な周波数を拾い上げる。


『……見えました。赤い点の中に、何重にも折り重なった、複雑な波形があります……!』


 エリスの共感覚が、その音を視覚的な波形としてカイの脳内に投影する。それは、単一の波ではなかった。マリアンヌの最高位の禁忌、『刻限の譜(アイオン)』。それは複数の聖譜が複雑に編み込まれた、重厚な和音だった。


『……解析するわ。この和音のベースになっている基本周波数……出たわ! カイ、これが特異点を形作っている固有振動数よ!』


 ソフィアの観測鏡が導き出した数値が、カイの視界に複雑なギザギザの波線として浮かび上がる。


(これに、合わせる……!)


 カイは、動かない肉体の奥底で、自身の「絶縁体」の魂を激しく震わせた。これまでは、相手の聖譜を弾き返すために、ただ硬く閉ざすか、大雑把に逆位相の波をぶつけて打ち消すだけだった。だが今回は違う。相手の複雑な波と「完全に同じ形」を作り出し、そこに俺の「拒絶」の性質を乗せて流し込むのだ。


ギリリリリッ……!


 魂を特定の波長に無理やり変形させる。その瞬間、カイの全身を、内側からバーナーで焼かれるような激痛が襲った。


「……ッ、……!」


 声は出ない。だが、脳の芯が沸騰し、視界が真っ赤に明滅する。左手にはめた耐熱グローブが、限界を超えた熱を逃がそうと、シュゥゥゥッと白い蒸気を吹き出し始めた。だが、到底追いつかない。グローブの表面にコーティングされた聖銀の粉末が、過剰なエーテルの摩擦によって青白く発光し、ビリビリと焦げるような匂いを放ち始める。


「……? 貴方、何を……」


 マリアンヌが、その微かな蒸気の音に気づき、カイの方へ視線を向けた。彼女の顔に浮かんでいるのは、驚きではなく、慈悲深い哀れみだった。


「……痛いですか? 苦しいですか?」


 彼女は、空中で静止しているカイの頬に、そっと手を伸ばそうとした。


「だから、抗うのはやめなさいと言ったのです。貴方がその荒れ狂う心を鎮めれば、痛みはすべて消え去るのに」


 彼女の言葉は、完璧な善意で構成されている。人間を剥製のように固定することが、悲しみから救う唯一の道だと本気で信じている。


(……ふざけるな)


 カイの意識が、熱と痛みの濁流の中で、冷たく鋭く研ぎ澄まされていく。痛みがない世界がいい? 変化のない永遠の静寂が救いだって? 冗談じゃない。俺たちは、痛い思いをして、転んで、傷ついて、それでも明日へ向かって歩いていくために生きてるんだ。


 退屈な授業。面倒な人間関係。将来の不安。そのすべてをひっくるめて、「生きている」ということなんだ。俺たちの当たり前の日常を、泥臭い人生を、勝手にショーケースの中に閉じ込めるな。


(……合わせろ。波長を、同調させろ……!)


 カイは魂をさらに激しく擦り合わせる。熱が限界を突破する。鼻の粘膜が焼け、一筋の血がツーッと流れ落ちる。それすらも空中で静止しようとするが、カイの周囲だけ、彼自身の発する異常な熱量によって「事象の固定」が微かに揺らぎ始めていた。


『……カイ! 波形、近づいているわ! あと少し……!』


 ソフィアの声が、祈るように響く。


『もう少し波を高く! シエロ、エリス、支えて!』


『……はいッ! 僕の音で、カイさんの波長をガイドします!』


『……細いリンク越しですが……私の波で、カイさんの熱を少しでも包み込みます……!』


 グローブの表面に塗られたわずかな聖銀の粉末。その細いネットワークの糸を通じて、遠く離れた地下から、仲間たちの波長がカイの魂を支えようと寄り添ってくる。エリスの冷たく穏やかな波が、沸騰しそうなカイの脳をわずかに冷まし、シエロの音がピントの微調整を助ける。一人じゃない。俺の目、俺の耳、俺の防壁。仲間たちの力を借りて、カイの魂が放つ不協和音が、マリアンヌの術式が持つ固有振動数へと、ミリ単位でピントを合わせていく。


「……痛みを抱えたままでは、神の御許には行けませんよ」


 マリアンヌが、カイの抵抗を「無知ゆえの怯え」と解釈し、彼を完全に静止させるためにさらに指先へ力を込めようとした。


 だが、遅い。


(……捉えた)


 カイの脳内で、二つの波形が完全に重なり合った。マリアンヌの『特異点』の波長と、カイの『拒絶』の波長。それが完全に一致した瞬間、カイの左手は、空間に張り巡らされた見えない「ガラスの糸」の一本に、確かに触れていた。


(……響け)


 カイは、物理的に指を動かすことはできない。ただ、その接触点を通じて、極限まで圧縮された『共振』の波動を、静かに、しかし爆発的な勢いで流し込んだ。


キィィィィィィィン……!!


 音のない世界に、耳を突き破るような甲高い金属音が響き渡った。カイの左手から放たれた波動が、空間の糸を伝わり、マリアンヌの頭上にある赤い点――特異点へと光速で到達する。


 ワイングラスに、それ自身の固有振動数と同じ音を当てた時。エネルギーはグラスの中で逃げ場を失い、無限に増幅を繰り返す。


ピキッ。


 マリアンヌの絶対的な術式――空間を縫い止めていた見えない重力の結び目の表面に、わずかな、しかし決定的な「ひび割れ」が走った。


「……な、に……?」


 マリアンヌの慈愛の仮面が初めて完全に剥がれ落ち、驚愕に見開かれた瞳が、ひび割れゆく自身の術式を見上げた。


(……一気に、崩すッ!!)


 カイは、さらに魂の出力を跳ね上げた。左手の耐熱グローブが限界を迎え、焦げた革の匂いを立てて破れ始める。だが、構うものか。


ピキ、パキパキパキパキッ……!!


 ひび割れが、特異点を中心にして空間全体へとクモの巣のように広がっていく。マリアンヌが慌ててエーテルを注ぎ込み、修復しようとするが、共振によるエネルギーの無限増幅は、もはや彼女自身の制御を完全に離れていた。


 そして、その限界を超えた時。


パリーンッッッ!!!!


 世界を覆っていた、目に見えない分厚い琥珀が、文字通り粉々に砕け散った。時空の固定が、完全に解除されたのだ。


「――――ッ!!」


 静止していた世界に、唐突に「時間」と「音」が暴力的なまでに戻ってきた。間延びしていた炎の爆ぜる音、風の唸り、そして、空中で静止していたジャンとヴァレリーの突進の運動エネルギーが、一時停止ボタンを解除された映像のように、一気に爆発する。


「オラァァァァァッ!!」


「消し飛びなさいッ!!」


 凍結されていた慣性が復活し、ジャンの大盾がマリアンヌの無防備な横腹に文字通り激突した。


「が、ぁッ!?」


 物理的な大質量の衝突。それに遅れることコンマ数秒、ヴァレリーの放った青白い雷撃が、体勢を崩したマリアンヌの身体を容赦なく貫く。


「あ、あアァァァァッ!!」


 自身の術式を破られた反動と、二人の猛攻を同時に受けたマリアンヌは、白鳥のように空を舞い、祭壇の冷たい石畳の上を何度も転がった。


「ジャン! ヴァレリー! 奴を抑えろ!」


 自由を取り戻したカイは、マリアンヌに目もくれず、そのままの勢いで地を蹴った。向かう先は、祭壇の中心。七人の漂流者たちを引きずり込もうとしている、地脈と繋がった巨大な『空間の穴』だ。


「……ッ、ノー! ヘルプ、ヘルプ・ミー!!」


 拘束されている初老の男が、再び動き出した時間の中で絶叫する。光の鎖が、彼らを容赦なく穴の底へと引きずり下ろそうとギリギリと締め上げる。浅黒い肌の少年が、恐怖で顔を真っ青にして泣き叫び、隣のナース服の女性が彼を必死に庇う。


 あと数秒で、彼らは完全に穴の底へ飲み込まれる。


「……間に合えッ!!」


 カイは、残された生身の左手を、彼らを縛る光の鎖の『基部』――召喚陣の中枢へと一直線に突き出した。『時間と空間の固定』という強固な概念の檻さえ壊れたなら、あとはただのエネルギーの鎖だ。限界を迎えたこの左手でも、結び目さえ引きちぎれば解体できる。


事象解体(デコンストラクション)ッ!!」


 カイの左手が、召喚陣の核を物理的に鷲掴みにし、そこから伸びるエネルギーの供給線を力任せに引きちぎった。


バチィィィィィンッ!!


 強烈な閃光が弾け、彼らの手足を縛っていた光の鎖が、ガラス細工のようにパチンと音を立てて霧散した。空中に磔にされていた七人の身体が、重力に従ってドサリと祭壇の床に落下する。


「……アウチ……!」 「……オー、モン・デュー……」


 落下した漂流者たちが、それぞれ異なる国の言葉で呻き声を漏らしながら、信じられないという顔で自分の手足を見つめている。英語、フランス語、その他聞き取れない言語。言葉は通じないが、彼らが唐突な解放に混乱しつつも安堵していることだけは分かった。


「……怪我はないか」


 カイが、目の前に落ちてきた浅黒い肌の少年の前で膝をついた。言葉は通じない。だが、カイは泥と煤にまみれた左手を、少年の震える肩にそっと置いた。物理的な、人間の温もり。


「……ッ、あ、あああ……っ!」


 少年は、カイの真っ黒な瞳に宿る確かな「庇護」の意志を感じ取り、弾かれたようにカイの胸に飛び込んで号泣し始めた。言葉の通じない恐怖の底で、初めて触れた、自分を害さない存在。


 カイは、痛む左手で少年の背中を不器用に撫でた。守った。何も知らない、あちら側の日常を生きていた人間たちを。勝手に使い捨ての部品にされる運命から、強引に引き剥がしてやった。


「……私の、救済が……」


 背後で、血を吐くような声がした。ジャンとヴァレリーに囲まれ、純白の法衣を泥と血で汚したマリアンヌが、信じられないものを見る目でカイを見つめていた。


「永遠の安寧が……。貴方という異物は、なんて残酷なことを……ッ」


「残酷なのはお前らだ」


 カイは、少年を庇うように立ち上がり、冷酷な眼差しでマリアンヌを見下ろした。


「泥臭くて、痛くて、面倒くさくても。……俺たちは、自分の足で明日を歩きたいんだよ。勝手にショーケースに飾るな」


 カイの言葉が、祭壇の静寂に重く響いた。絶対の理不尽を強要する狂信の空間を、ただの学生の「意地」が、完全にねじ伏せた瞬間だった。

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