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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
偽りの福音

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第82話 刻限の牢獄

 空中で、カイの身体が完全に静止していた。


 比喩ではない。マリアンヌに向かって地を蹴り、左手を突き出したその姿勢のまま、まるで映像の『一時停止』ボタンを無慈悲に押されたかのように、空間に張り付けられていたのだ。


 何が起きたのか、脳が状況を処理するまでに数秒のラグがあった。熱はない。痛みもない。物理的な壁に衝突したような衝撃すら、一切なかった。ただ、唐突に「動けなくなった」のだ。


(……なんだ、これ?)


 カイは目を動かそうとした。だが、眼球を覆う薄い涙の膜すらも固まっているかのように、視線を巡らせることすらできない。呼吸をしようとしても、肺を膨らませるための横隔膜が、分厚いコンクリートに埋め込まれたようにピクリとも動かない。唯一動いているのは、自分自身の思考と、耳の奥でドォン……ドォン……と、異常に遅く、間延びして打つ心臓の鼓動だけだった。


 透明な、そして絶対に破壊できない分厚い琥珀の中に閉じ込められた虫。今のカイは、まさにその状態だった。


「カイ!」


 背後から、ソフィアの悲鳴に近い声が響いた。カイの数メートル後ろにいた彼女は、その異常な現象の範囲からギリギリ外れていたようだ。


「どういうこと……!? 熱量変化、ゼロ! 運動エネルギーの干渉もゼロ!」


 ソフィアが片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』のレンズを激しく回転させながら、戦慄の声を上げる。


「エーテルが、世界に干渉することを『拒絶』している……。大気も、現象の進行も、時間の流れさえも! これが、最高位のアクセス権を必要とする禁忌……『刻限の譜(アイオン)』!」


 ソフィアの叫びが、ひどく間延びして聞こえる。水中に深く潜っている時のように、音が歪んでいるのだ。


(……現象の、固定……?)


 カイの脳内で、必死に物理法則の検索が始まる。聖譜を物理現象として解釈するなら、これは一体なんだ。空気を固体に変えたわけではない。空間に存在するあらゆる分子の運動を、極限まで『停滞』させているのか。局所的な「事象の凍結」。重力で圧殺するような暴力的な力ではないが、それゆえに抗う隙間が全くない。


 どんな理屈を並べたところで、今のカイにはどうすることもできない。カイの最大の武器である『事象解体(デコンストラクション)』は、対象となるエネルギーの結び目に物理的に「触れる」ことで発動する。触れられなければ、ただの無力な人間だ。そして今、マリアンヌまでの残り数メートルの距離が、永遠に届かない無限の壁となって立ちはだかっていた。左手にはめた『耐熱グローブ』の中で、指を一本、一ミリ動かすことすら叶わない。


「……怖がらなくていいのですよ。可哀想な迷子さん」


 マリアンヌが、静止したカイの目の前へと、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼女は、純白の法衣の袖から白い手を伸ばし、空中に固定されているカイの頬にそっと触れた。ヒヤリとした、恐ろしいほどに穏やかで、柔らかな感触。


「貴方のその荒れ狂う心の波も、燃えるような怒りも、こうして事象の枠に縫い止めてしまえば、もう貴方を傷つけることはありません」


 彼女の指先が頬を撫でる。カイは心の中で絶叫した。この狂った女の腕を振り払い、そのふざけた術式をへし折ってやりたい。だが、筋肉の繊維一本すら、カイの意志に応えてくれない。


「さあ、貴方もここで、永遠の安らぎの中で見守っていてください。私たちが、あちら側の迷子たちを、本当の楽園へと導く儀式を」


 マリアンヌはカイの頬から手を離し、背後――祭壇の中心で眩い光を放つ巨大な『空間の穴』へと振り返った。


 その穴の縁には、光の鎖に手足を縛り付けられた七人の人間たちが宙に磔にされている。彼らもまた、カイと同じようにマリアンヌの『刻限の譜』の影響下に入りつつあるのか、その動きはひどくスローモーションになっていた。


「……ッ、ノー! ヘルプ、ヘルプ・ミー!!」


 高級スーツを着た初老の男が、真っ赤な顔をして英語で喚き散らしている。彼はしきりに手元の紙幣や時計のようなものをアピールし、何かを交渉しようと必死に口を動かしているが、その声も徐々に間延びし、虚空に溶けていく。


「……ガッデム! レット・ミー・ゴーッ!!」


 その隣では、屈強な体格の男が、自慢の筋肉を限界まで膨張させ、光の鎖を力ずくで引きちぎろうと咆哮を上げていた。だが、どんなに彼が物理的な力を行使しようとも、「事象の固定」という概念の檻の前では、赤子のように無力だった。彼の隆起した筋肉は、徐々にその動きを遅くしていく。


 青いナース服の女性が、恐怖に震えながら、隣で泣き叫ぶ浅黒い肌の少年を必死に庇うように抱きしめている。


「ソコロ! ポルファヴォール……ッ!」


 少年が、涙でぐしゃぐしゃになった顔でこちらを見つめ、すがるように悲鳴を上げた。言葉は通じなくとも、あの黒い瞳の少年が自分たちを助けようとしてくれていたことは伝わっていたのだろう。


 彼らがどんなに足掻いても、光の鎖は容赦なく彼らの身体を拘束していく。そして、あの空間の穴の奥からは、さらに別の人間たちを引きずり上げようとする強烈な引力が渦巻いていた。ルカは「数十人規模」と言っていた。彼ら七人は、その最初の生贄に過ぎないのだ。


 『エクリプスは召喚された人間を仕分けるため、首都で待機している』ルカの通信が、カイの脳裏に蘇る。ここで彼らがマリアンヌの聖譜によって完全に「時間と空間を固定」されてしまえば、どうなるか。彼らは文字通り『生きたまま時間を止められた剥製』としてパッケージングされ、首都で待つエクリプスの元へと送られてしまう。そして最終的には、結界という巨大な機構を維持するための『聖櫃(アーク)』――使い捨ての燃料として、永遠に組み込まれてしまうのだ。


「……さあ、愛しき『聖なる箱舟(アルカ・テスタメント)』の一部へ。貴方たちの魂は、この結界の礎として、永遠に美しく保存されるのです」


 マリアンヌが両手を天に掲げた。祭壇の床面に描かれた紫と黄金の幾何学模様が、心臓の鼓動のように激しく脈打つ。巨大な魔法陣が回転し始め、地下深くから轟音のようなエーテルの奔流が巻き起こった。


「やめろォォォォッ!!」


 祭壇の外縁部から、防衛線を突破してきたジャンが咆哮を上げ、新しい大盾を構えて猛然と突進してきた。その背後からは、ヴァレリーが魔導ライフルを構え、紫電を纏いながら駆け込んでくる。


「あんたたちのようなイカれた連中に、もう好き勝手はさせないわよ!」


 だが、マリアンヌは振り返りもせず、ただ静かに言葉を紡いだ。


止まれ(システ)。ここは、神の御許です」


ビタァッ!!


 見えない分厚いゴムの壁に激突したように、ジャンとヴァレリーの動きが、祭壇の階段を数段下りたところで完全に停止した。


「……な、ッ!?」


「動か、ない……! 体が……!」


 突進の勢いそのままに、彼らもまた、空間を支配する不可視の琥珀の中に閉じ込められたのだ。ジャンの全質量を乗せた突進も、ヴァレリーが放とうとしていた雷のスパークも、すべてが物理的な運動を奪われて静止していく。


「無駄よ! 彼女の『刻限の譜』が支配する領域内では、運動エネルギーそのものが意味を持たない! 事象の進行が、完全に凍結されているのよ!」


 領域のギリギリ外側にいるソフィアが、絶望的な声で叫ぶ。


(……動け。動けよ、俺の体……!)


 カイは、歯を食いしばることもできないまま、己の魂を極限まで震わせようと試みていた。これまで、どんな強大な炎も、絶対零度の氷も、この「絶縁体」の魂で弾き返してきた。なら、この事象の凍結だって、同じエネルギーの現象に過ぎないはずだ。


 だが、ダメだ。魂の出力を上げようとしても、その指令を伝える神経伝達の速度すらも遅延させられている。脳から指先へ命令が届くまでに、何時間もかかるような途方もない泥沼。指一本動かせないまま、視界の端で、同郷の人間たちが美しい光に包まれながら、完全に動きを止めようとしているのが見える。


 少年の小さな手が、虚空を掴むように伸ばされている。


 助けたい。あいつらは、昨日まで俺と同じ、あの当たり前の日常を生きていた人間なんだ。退屈な授業を受け、満員電車に揺られ、それでも必死に生きていた、ただの人間だ。こんな理不尽な理由で、人生のシャッターを下ろされ、使い捨ての部品にされていいはずがない。


(……クソッ! クソッ! なんとかしろ! 考えるんだ、久澄 解!)


 マリアンヌの慈愛に満ちた歌声が、祭壇を包み込んでいく。


「……すべては、静寂の中へ。痛みも、悲しみもない、永遠の楽園へ……」


 カイの意識だけが、凍りついた肉体の中で激しく熱を帯び、もがき苦しむ。どうすればいい。どうすれば、この見えない牢獄を壊せる。触れられなければ、解体できない。だが、触れるための距離が、永遠に縮まらない。


 物理法則を武器にしてきたカイにとって、物理的な現象の進行そのものを停止させられることは、文字通りの『詰み』に等しかった。だが、カイの思考は諦めることを拒絶し、絶対的な静寂の中で、狂ったように反撃の糸口を探し求め続けていた。

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