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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
偽りの福音

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第81話 聖導師マリアンヌ

 外周で繰り広げられているはずの、鼓膜を破るような金属の激突音や、ヴァレリーが放つ雷撃の破裂音が、まるで分厚い水壁の向こう側の出来事のように遠く、くぐもって聞こえた。ジャンとヴァレリーが自らの血と痛みを代償にしてこじ開けてくれた道を駆け抜け、カイとソフィアはすり鉢状の遺跡――『星見の祭壇』の最深部へとついに足を踏み入れた。


 そこは、文字通り台風の目のような、異様な静寂に支配された空間だった。空気が恐ろしいほどに重い。一歩足を踏み出すだけで、冷たくて粘り気のある水の中に全身を沈められたような圧迫感が肌を包む。呼吸をするたびに、肺の奥で何かがきしむような錯覚を覚えた。祭壇の床面には、紫と黄金の光を放つ複雑な幾何学模様が、幾重にも折り重なるように描かれている。それらの光のラインはまるで生き物の血管のように脈動し、祭壇の中心へと向かって途切れることなくエネルギーを送り込み続けていた。


 そして、その中心部。そこには、大気中のエーテルだけでなく、地下深くを流れる地脈のエネルギーを根こそぎ一点に集束させ、次元の底を無理やり焼き切って開けられた巨大な『空間の穴』が存在していた。底知れない光の濁流が渦巻くその穴は、かつてカイがこの世界へ落ちてきた時に見たスラムの空の亀裂と同じ、世界と世界を隔てる境界線のほころびだ。


「……信じられない。なんて出力なの」


 隣に立つソフィアが、片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』を押さえながら戦慄の声を漏らした。


「地脈のエネルギーをただ吸い上げているだけじゃないわ。空間と時間の概念そのものを歪ませて、あの穴の底の地脈を……あちら側の世界に無理やり固定している」


 その言葉を裏付けるように、眩い光の穴の底から、ゆっくりと「何か」が引きずり上げられてくるのが見えた。


「……あいつら!」


 カイは息を呑み、思わず声を上げた。


 光の穴から浮かび上がってきたのは、眩い光の鎖に手足を縛り付けられ、空中に磔にされた七人の人間たちだった。服装も、容姿も、澱の街の住人や教会の騎士たちとは全く異なる。一目で分かった。彼らは、俺と同じ、あちら側の世界の人間だ。


 高級スーツを着て何事かを喚き散らしている初老の男や、自慢の筋力で鎖を引きちぎろうと暴れている屈強な男。自転車のヘルメットを被った若者に、圏外のスマホを必死に操作しようとしている女性。


 そして――油と泥にまみれた作業着を着た、中年の男性。彼はパニックに陥りながらも、縛り付けられている光の鎖や、足元の陣の模様を、どこか職人のような眼差しで必死に観察しようとしている。


 その隣には、青いナース服のようなものを着た若い女性。彼女は恐怖に顔を青ざめさせながらも、すぐ隣で泣き叫んでいる小さな少年を、自分の体で必死に庇おうと身をよじっていた。


 少年は、十代前半くらいだろうか。ボロボロのTシャツと短パン姿で、浅黒い肌をしている。彼は状況が全く理解できず、大粒の涙を流しながら、何かを懸命に叫んでいた。


「ソコロ! ポルファヴォール……ッ!」


 少年の口から紡がれるのは、日本語でも、この異世界の古聖語でもない。おそらく地球のどこか、俺とは違う国の言葉だ。だが、その声に込められた「助けて」という根源的な恐怖と絶望の色は、痛いほどに伝わってきた。


 彼らはつい先ほどまで、俺が知っているのと同じ、当たり前の物理法則が機能する地球のどこかで、当たり前の日常を生きていたはずだ。仕事の疲れにため息をついたり、貧しいながらも必死にその日を生き抜いたりしていた普通の人間たち。それが唐突に、この理不尽な光の底へと引きずり込まれ、言葉も通じない異形の者たちに囲まれ、理由も分からずに殺されようとしている。


 その絶望の深さが、スラムで目覚めたばかりの頃の自分の記憶と重なり、カイの胸の奥で冷たい怒りの炎となって燃え上がった。


「……よく来てくれましたね、可哀想な迷子さんたち」


 その時、空間の穴の手前に立っていた人影が、ゆっくりとこちらを振り返った。周囲の重苦しい空気とは対照的な、柔らかく、透き通るような声。


 純白の法衣を纏った女性だった。年齢は三十代半ばほどだろうか。その首元や腕には、教会の高位聖職者であることを示す、意匠を凝らした黄金の装飾品が光っている。だが、何よりも異様だったのは、彼女の表情だ。


 教会の儀式を邪魔しに現れた侵入者であるカイたちを見ても、彼女の顔には「異端者」に対する怒りや警戒といった感情は一切浮かんでいなかった。あるのはただ、まるで我が子を慈しむ聖母のような、穏やかで、底知れないほどに深い「母性」だけだった。


「聖導師、マリアンヌ……」


 ソフィアが、忌々しげにその名を口にする。


「彼女が、この大規模召喚の儀式を取り仕切る責任者よ」


 マリアンヌは、カイの土埃にまみれた服と、失われた右腕の痕、そして左手にはめた無骨な耐熱グローブを優しく見つめ、ふわりと微笑んだ。


「貴方たちも、この美しい儀式を祝福しに来てくれたのですね。……ええ、分かります。貴方も、この可哀想な迷子たちと同じ、外の虚無の世界から来た魂」


 彼女は、光の鎖に縛り付けられたあちら側の世界からの漂流者たちへ向けて、愛おしそうに両手を広げた。


「怯えることはありません。痛いことも、苦しいことも、もうすぐ終わります。私が、貴方たちを本当の安寧へと導いてあげましょう」


「……安寧、だと?」


 カイは、地を這うような低い声で唸った。


「何も知らない人間を、自分たちの都合で勝手に引きずり込んでおいて、何が安寧だ。こいつらをどうするつもりか、分かってるんだぞ」


 カイは、左手のグローブをギリリと強く握り込んだ。


「お前らの言う『聖櫃(アーク)』……結界を維持するための、使い捨ての電池にするつもりだろうが。何が救済だ。ただの人身御供じゃないか」


 カイの鋭い糾弾を受けても、マリアンヌの微笑みは少しも崩れなかった。むしろ、聞き分けのない子供を諭すように、悲しげに目を伏せた。


「電池……。ああ、何という冷たく、悲しい言葉でしょう。貴方はまだ、何も分かっていないのですね」


 マリアンヌは、鎖にもがく少年の頬に、そっと触れようとした。少年はビクッと身をすくませ、さらに泣き叫ぶ。


「外の世界……アイテールという神の恵みを持たない、あの冷たくて痛みに満ちた虚無の中で生きるということは、それだけで魂を摩耗させる残酷な罰です」


 彼女の声には、一片の嘘も、悪意もなかった。それが逆に、彼女の言葉の異様さを際立たせていた。


「人は老い、病に苦しみ、互いに争い、やがて何の意味も残せずに死んでいく。そんな無価値な痛みの連鎖から、彼らを救い出してあげたのです」


「……無価値、だと」


「ええ。彼らのその不純物のない高密度の魂は、この『聖なる箱舟(アルカ・テスタメント)』の一部として、美しく組み込まれます。……そこで時間は止まり、もはや老いることも、飢えることも、何かを失う悲しみを味わうこともない。ただ静かに、完全な形のまま、永遠に神のそばで保存されるのです」


 マリアンヌは、恍惚とした表情で両手を胸の前で組んだ。


「外の虚無の世界で苦しんで死ぬくらいなら、永遠の機構の一部に組み込まれ、神の側で静かに保存されること。……これこそが、最も美しく、最も苦痛のない、完璧な救済なのです」


 彼女の言葉が、祭壇の冷たい空気に溶けていく。カイは、背筋にぞわりとした悪寒が走るのを感じた。


 ルタムの広場で相対した処刑部隊のイザリアは、「痛みを伴うことこそが神の愛だ」と狂信し、自らも他者も焼き尽くそうとする戦闘狂だった。彼女の狂気は暴力的で、物理的な熱量を伴って襲いかかってきた。だが、目の前にいるこの女の狂気は、それとは全くベクトルが違う。


 痛みも苦しみも排除し、時間を止めて、美しいまま永遠に保存する。それは、生きている人間に対する扱いではない。ショーケースの中に飾る「剥製」や「標本」に対する扱いだ。


 彼女は本気で、それが彼らにとっての幸せであり、究極の善行だと信じ切っているのだ。だからこそ、罪悪感の欠片もなく、こんなにも穏やかに微笑んでいられる。


「……ふざけるなよ」


 カイの口から、抑えきれない怒りが漏れ出した。


「痛い思いをして、苦労して、たまに笑って……そうやって少しずつ歳をとっていくのが、人間だろうが。その面倒くさい時間を全部すっ飛ばして、ただの置物になることが救いだって?」


 カイの脳裏に、あちら側の世界で残してきた日常が浮かぶ。朝の満員電車。テスト前の焦り。休日の他愛ない約束。どれも退屈で、時には面倒で、逃げ出したくなるような時間だった。だが、それが「生きている」ということだった。その泥臭い積み重ねを、勝手に無価値だと決めつけ、永遠の静寂に閉じ込めようとする。


「勝手に、他人の人生のシャッターを下ろすな」


 カイの言葉が、鋭い刃となって祭壇の空気を切り裂いた。縛り付けられている漂流者たちが、カイの声に反応して顔を上げる。少年が、涙でぐしゃぐしゃになった顔でカイを見た。言葉は通じなくとも、この真っ黒な瞳を持った少年が、自分たちを助けようとしてくれていることだけは、本能で感じ取ったのだろう。すがるような、強い光が少年の瞳に灯る。


「……愚かな。貴方もまた、痛みに囚われたままの可哀想な子供なのですね」


 マリアンヌが、初めてその微笑みを消し、冷酷な憐憫の眼差しをカイに向けた。


「ならば、まずは貴方から救ってあげましょう。その荒れ狂う心の波を、永遠の静寂で満たしてあげます」


 マリアンヌが、純白の法衣の袖を翻し、両手をゆっくりと天に向かって掲げた。その瞬間、祭壇の中心を満たしていた空間の穴から、莫大なエネルギーが彼女の元へと逆流し始めた。


「カイ、気をつけて! 彼女はただの聖導師じゃないわ!」


 ソフィアが、観測鏡の数値を睨みながら叫ぶ。


「これほどの儀式を維持しながら、さらに別の術式を構築しようとしている……! 大気中のエーテルじゃない、世界の根幹に直接触れるような、異常な波形よ!」


「なんだろうと関係ない。あいつらが完全に引きずり込まれる前に、中枢をへし折る!」


 カイは、残された生身の左手――耐熱グローブをはめた拳を固く握りしめた。右腕の義手はない。失敗すれば、相手の聖譜の反動で生身の魂が焼き切れる。だが、躊躇している暇はない。


「いくぞ!」


 カイは低く重心を落とし、地を蹴った。足元の石畳が砕け、凄まじい推進力がカイの体をマリアンヌへと肉薄させる。狙うのは、彼女が両手を掲げたその中心。彼女の術式を成立させている、見えないエネルギーの結び目。


 距離、十メートル。五メートル。三メートル。カイの左手が、マリアンヌの法衣に届く、まさにその刹那。


 マリアンヌの薄い唇が、静かに、だが世界そのものを凍らせるような重みを持って動いた。


「神の御許()にて、()永遠の()安らぎ()を」


 その言葉が空間に落ちた瞬間、カイの身体は不可視の分厚い琥珀に閉じ込められたように、空中でピタリと静止した。

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