第80話 不変の防壁
鼓膜を破らんばかりの轟音が、すり鉢状になった谷底に響き渡った。
地を蹴って先陣を切ったのは、巨漢のジャンと、魔導ライフルを構えたヴァレリーだった。ジャンの腕に装着された分厚い鋼鉄の大盾と、ヴァレリーの銃口から放たれた青白い紫電の銃弾が、祭壇の外縁部を護衛する五十名もの重装聖騎士たちの陣形に真っ向から激突したのだ。
土煙が舞い上がり、すさまじい衝撃波が周囲の空気を震わせる。カイは、二人がこじ開けたわずかな隙間へ弾かれたように滑り込もうと、低く姿勢を保ったまま疾走した。
だが、土煙が晴れた向こう側にあったのは、崩れた陣形ではなかった。白銀の重装甲に身を包み、身の丈ほどもある分厚い大盾を構えた五十名の騎士たちは、ただの一歩も退くことなく、微動だにしていなかったのだ。
「……不変の理を示す大地の恵みよ!」
土煙の中で、五十名の騎士たちが一糸乱れぬ声で『豊穣の譜』を唱和していた。彼らの足元――岩肌がむき出しになった大地から、重苦しい土色の光が立ち昇り、彼らの構える分厚い大盾を覆い尽くしている。それは単なる光の壁ではない。大地の魔力が盾の金属成分と結合し、五十枚の盾をまるで一つの途切れることのない巨大な岩盤のように変質させていたのだ。
ジャンの全質量と突進の勢いを受け止めた盾の表面には、亀裂一つ、傷一つ入っていない。ヴァレリーが放った必殺の雷撃も、盾を覆う土色の魔力によって瞬時に大地へとアースされ、ただの無害な火花となって散ってしまった。
「くそっ、なんて硬さだ……!」
ジャンが苦痛に顔をしかめ、盾を敵の岩盤に押し付けたまま後ずさる。彼の巨体をもってしても、大地そのものと結合した五十人分の質量を押し返すことはできない。それどころか、ルタムの激戦で処刑部隊のギデオンに抉られた左腕と脇腹の傷が、激しい衝撃によって無惨に開きかけていた。新しい真っ白な包帯に、じわりと、しかし確実に、生々しい赤い血が滲み出している。
「出力が足りないわ……。あの分厚い岩の壁、今のあたしの雷じゃ貫ききれない!」
顔の半分を覆う火傷の痕を痛みに歪めながら、ヴァレリーも忌々しげに魔導ライフルを構え直す。彼女の『導電路』は、対象との間に電気の通り道を強制的に作る強力なものだ。だが、大地と完全に結合し、分厚い岩石の絶縁層でコーティングされた防壁の前では、放った電気がすべて地中へと逃げてしまい、決定打にならない。
「陣形を維持せよ。ネズミ一匹、祭壇へ通すな」
指揮官らしき騎士の冷徹な声が響く。彼らは攻撃に転じる様子はなかった。彼らの任務は敵を殲滅することではなく、背後で行われている『大規模召喚』の儀式が完了するまで、この絶対的な防壁を維持し続けることなのだ。
堅牢な盾の壁の向こう側には、地脈に向かって次元の底を焼き切る、巨大な『空間の穴』がぽっかりと口を開けている。急がなければならない。あの底知れない光の穴の向こうから、同郷の人間たちが引きずり出され、使い捨ての部品として消費されてしまう。
焦燥感に駆られたカイは、左手にはめた『耐熱グローブ』をギリッと強く握り込み、自ら盾の壁に触れて「解体」しようと前に出た。
「待ちなさい、カイ!」
だが、その背中をソフィアの鋭い声が引き止めた。
「左手を使わないで! 貴方のその手は、この壁を崩すためじゃなく、儀式の中枢を止めるための最後の一撃よ!」
正論だった。これまでは、過剰な熱を逃がすための排熱機構を備えた右腕の義手があった。だが、今のカイの右肩にあるのは、白い布で巻かれた喪失の痕だけだ。生身に近い左手――ただの耐熱グローブをはめただけの状態で、この五十人がかりの巨大な防壁の解体に手を出せばどうなるか。強引な干渉によって生じる凄まじい摩擦熱、魂が削られる『魂蝕』によって、本命に辿り着く前にカイ自身の魂が完全に焼き切れてしまう。道中の露払いでただ一度の命綱を使い果たせば、肝心の儀式を止める手段がなくなるのだ。
「でも、このままじゃあいつらが押し潰される! ジャンもヴァレリーも、限界だ!」
カイが叫ぶ。目の前では、傷口から血を流しながらも盾を押し込み続けるジャンと、神経を焼くような痛みに耐えながら次の雷撃を準備するヴァレリーの姿があった。
「力任せに壊す必要はないわ。どんなに強固な壁に見えても、人間が組み上げている以上、必ず『継ぎ目』がある」
ソフィアは首元に下げた『共振盤』を強く握りしめ、片目に装着した『観測鏡』のレンズをカチャリと回転させた。カイの右腕がない今、感覚を直接カイの脳に繋ぐ『戦術連携』は使えない。だが、情報の中継と指揮はソフィアの口頭で十分に可能だ。彼女の黒い瞳が、冷徹な分析者の光を帯びる。
『シエロ、エリス! 敵陣形の波形データを送って!』
通信機越しに、遠く離れた地下本部に残る二人の緊迫した声が響く。
『はい! ……音を拾います。敵の詠唱の震源……五十人の声が重なっていますが、完全に一つではありません』
本部の通信卓でヘッドフォンを押さえるシエロが、自身の異常な聴覚を極限まで研ぎ澄ませる。五十人が寸分違わぬタイミングで発する合唱。だが、彼らは機械ではない。恐怖、疲労、あるいは個人の肺活量の違い。その数万分の一秒のズレを、シエロの耳は決して逃さなかった。
『中央から少し左、三列目の騎士。……彼の呼吸が、他の騎士たちよりもわずかに遅れています! おそらく、先ほどの跳躍の余波か、何かで消耗している!』
『大地の波形も、そこだけ少し薄くなっています……!』
シエロの報告に重なるように、エリスの切羽詰まった声が響く。彼女の『共感覚』は、大地と結合した岩盤の盾を、色のついた波形として捉えていた。
『盾と盾を繋いでいるエーテルの重さが、均等じゃありません。その遅れている騎士の周囲だけ、結合の力が弱く、岩盤が脆くなっています!』
シエロの聴覚と、エリスの共感覚が捉えた微細な予兆。ソフィアの観測眼は、本部から送られてきたその情報のピースを瞬時に統合し、眼前の強固な盾の壁に隠された「致命的な綻び」を、視覚的な座標として暴き出した。
「見えたわ。……ヴァレリー! 中央から左へ三番目、盾と盾の境目よ! 合わせ目がわずかに緩んでいる、そこに一番細い雷を撃ち込みなさい!」
「了解よ、ナビゲーターさん!」
ソフィアの指示を受け、ヴァレリーは痛む腕でライフルを構え直した。銃口にバチバチと青白いスパークを集束させる。今の彼女の体力では、面を制圧するような大出力の雷は出せない。だが、的が「一点」に絞られているなら話は別だ。針の穴を通すような精密射撃なら、今の彼女の研ぎ澄まされた集中力で十分に可能だった。
ヴァレリーは、火傷で引き攣る顔を歪めながら、大きく息を吸い込み、そして――呼吸を止めた。周囲の喧騒が消え、彼女の視界にはソフィアが指定した「盾と盾のわずかな境目」だけが映る。
「導電路……貫けッ!」
引き金が引かれる。極限まで細く、鋭く絞り込まれた紫電の矢が、空気を切り裂いて放たれた。それは岩盤のように硬い盾の表面を狙うのではなく、ソフィアの指示した盾の境目――エーテルの結合が最も薄く、不完全な部分へと正確に突き刺さった。
バチィィッ!!
「ぐ、ぁッ!?」
盾を突き抜けたわけではない。雷撃は、装甲のわずかな隙間、金属の継ぎ目を縫うようにして内部へ侵入し、呼吸が遅れていたあの一人の騎士の身体を激しく麻痺させたのだ。神経を直接焼かれた騎士が、苦悶の声を上げて膝を折る。彼が内側から支えていた盾の結合が崩れ、岩盤のように強固だった五十人の陣形に、ほんのわずかな、しかし致命的な「亀裂」が生じた。
「そこだ、ジャン!!」
カイが叫ぶ。その声よりも早く、血まみれの巨漢は動いていた。
「任せなァッ!!」
ジャンが、腹の底から血を吐くような咆哮を上げた。開いた傷口から鮮血を散らしながら、新しい大盾を前に突き出して猛然と突進する。
「ここで立ち止まれば明日はねえ! どきやがれ、教会の鉄屑どもォォッ!!」
ドゴォォォォォンッ!!
雷撃によって亀裂の入った箇所へ、ジャンの全質量と、彼自身の能力である『衝撃反射』の力が一点に叩き込まれる。完璧な均等を保っていた防壁が、その一点の崩壊を起点にして、ドミノ倒しのように瓦解し始めた。
「な、何事だ!?」
「陣形が崩れた! 立て直せ!」
指揮官らしき騎士が声を荒らげるが、遅い。支えを失った重装騎士たちが、次々とバランスを崩して吹き飛ばされていく。ヴァレリーが容赦ない追撃の雷を放ち、泥臭く暴れ回るジャンの盾が彼らの連携を完全に分断する。
満身創痍の仲間たちが、自らの血と痛みを代償にして、文字通り命懸けでこじ開けた道。鉄壁の防衛線に、ついに祭壇の最深部へと続く一本の道が開かれた。
「ここは俺たちが抑える! 行け、カイ!」
「振り返るな! 真っ直ぐ走れ!」
ヴァレリーの銃声とジャンの叫びを背に受け、カイは低く地を蹴った。
「……ああ。無駄にはしない!」
カイとソフィアは、崩れゆく聖騎士たちの壁をすり抜け、すり鉢状の祭壇の最深部へと足を踏み入れた。
そこは、外で繰り広げられている怒号や金属音が嘘のように静まり返った、異様な空間だった。空気が重い。呼吸をするたびに、肺の奥まで冷たくて粘り気のある水が流れ込んでくるような錯覚を覚える。祭壇の中心部には、地下深くを流れる地脈のエネルギーを根こそぎ吸い上げ、次元の底を無理やり焼き切っている巨大な『空間の穴』がぽっかりと開いていた。
あの穴の向こう側に、何も知らない同郷の人間たちがいる。
そして、その眩い光の穴の手前に、純白の法衣を纏った一人の女性が立っていた。周囲の喧騒など一切届いていないかのような、穏やかで深い母性を漂わせる後ろ姿。
彼女こそが、この狂った儀式を統括する存在。
カイは、左手にはめた耐熱グローブをギリッと強く握り込んだ。仲間たちが血を流して繋いでくれたこの場所で、俺がやるべきことは一つだ。どんな理不尽な狂信が立ち塞がろうとも、その中心にある特異点を見つけ出し、根底からへし折る。
光の奥で静かに佇む元凶へ向けて、カイは無言のまま、確かな殺意を持って足を踏み出した。




