第78話 不完全な左手
地下施設『ハビタ・ゼロ』のさらに下層。中立地帯に位置する鉄血職人ギルド『プロメテウス』の工房へ近づくにつれ、むき出しの岩肌から伝わってくる熱気が肌を刺した。
いつ訪れてもすさまじい騒音と熱に満ちている場所だが、今日ばかりはその活気すらも焦燥感に煽られているように感じられた。
「……親父さん!」
重厚な鋼鉄の扉を押し開け、カイは息を切らしながら工房へ飛び込んだ。背後にはソフィアも続いている。
天井まで届く巨大な溶鉱炉の赤い光に照らされた空間で、ギルドマスターのヴォルグは、作業台の上に広げた図面と何かの金属部品を睨みつけていた。背中から伸びる二本の機械腕が、苛立たしげに蒸気を吹いている。
「……遅えぞ、坊主。ゲルハルトから話は聞いてる」
ヴォルグは、油と煤にまみれた顔を上げ、カイの右肩――ぐるぐる巻きにされた白い包帯へと鋭い視線を向けた。
「……ルタムの街で、俺の最高傑作をドロドロに溶かしてきやがったそうだな。排熱の限界を超えるなと、あれほど言っておいたはずだが?」
「……悪かった。あのイカれた修道女の火力が、俺たちの想定をはるかに超えていたんだ。義手がなけりゃ、俺はとっくに灰になってた」
カイが素直に頭を下げると、ヴォルグは「ふん」と鼻を鳴らし、手元の工具を作業台に投げ出した。
「言い訳はいい。だがな、カイ」
ヴォルグの表情が、職人としての険しいものに変わる。
「あの複雑な義手を、たった数時間で元通りに再建するのは不可能だ。絶対に無理だ」
その宣告に、カイは奥歯を噛み締めた。分かっていたことだ。あの義手は、ただ鉄を腕の形にしただけのものではない。カイの魂の波長に合わせて伸縮するソケット、過剰な熱を逃がすための微細な放熱フィン、そして何より、カイの「拒絶」の波動をロスなく伝導するための『聖銀』の回路。それらが奇跡的なバランスで組み合わさった、精密機械の結晶だったのだ。
「材料の聖銀なら、まだ予備があるわ。それでも駄目なの?」
ソフィアが食い下がるが、ヴォルグは首を横に振った。
「素材の問題じゃねえ。お前の魂と完全にリンクさせるための『調整』に時間がかかるんだよ。無理やり急ごしらえで作った義手なんぞ、実戦で高負荷をかければ一瞬で爆発する。そんなもんをお前に着けさせるわけにはいかねえ」
間に合わない。その事実が、重い鉛のようにカイの胃の腑に落ちた。義手がないということは、相手の聖譜に干渉した際に生じる凄まじい摩擦熱――『魂蝕』を、すべて自分の生身の体で受け止めなければならないということだ。ルタムの広場で見せたような、無理やりな干渉をあと数回でも行えば、今度こそ魂が完全に焼き切れて死ぬ。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「……だったら、素手でいくしかないな」
カイは、残された左手をゆっくりと握りしめた。
「ソフィアとも話して、次はどう戦うべきか結論は出てる。聖譜のエネルギーそのものを相殺するんじゃなくて、現象を成立させている中心……特異点だけを、針の穴を通すように突く。最小限の接触で済ませるなら、義手がなくても、俺の魂の出力だけでどうにかできるはずだ」
その言葉を聞いて、ヴォルグは大きくため息をつき、頭のゴーグルを乱暴にずり上げた。
「……お前なぁ、頭で考えるほど簡単なことじゃねえぞ。生身で直接干渉するってことは、お前の『絶縁体』の魂と、世界のエーテルが直接こすれ合うってことだ。どんなにピンポイントで突こうが、火傷じゃ済まねえ熱が体に逆流するんだぞ」
「カイ、ヴォルグの言う通りよ」
ソフィアも、青ざめた顔でカイの左手を見た。
「義手は、貴方の魂を保護するための『盾』でもあったのよ。生身に近い状態で干渉すれば、魂蝕のリスクは跳ね上がる。少しでも狙いが外れて、余分なエネルギーに触れれば……貴方の存在そのものが、今度こそ消滅してしまうかもしれないわ」
「分かってる」
カイは、ソフィアの言葉を遮った。
「でも、行くしかないんだ。……教会の連中は今、何も知らない向こうの世界の人間たちを、無差別に引きずり込んで、結界を維持するための燃料にしようとしてる」
カイの脳裏に、スラムで目覚めた時の絶望が蘇る。言葉も通じない、理屈も分からない。ただ息をしているだけで肺が焼け、水を飲めば魂がショートする。あの暗闇の中で、どれほど「帰りたい」と願ったか。昨日まで、当たり前のように学校へ通い、他愛のない日常を生きていた人間たちが、そんな地獄へ突然放り込まれ、使い捨ての電池として消費されようとしているのだ。
「俺が味わったあの絶望を、何十人もの人間が同時に味わわされる。……そんなの、見過ごせるわけがない。俺が直さなきゃ、引きずり込まれた連中は一生この狂った仕組みの部品にされる」
カイの瞳には、一切の迷いがなかった。それは正義感などという綺麗なものではない。自分の知っている当たり前の理屈を、こんな狂った世界の都合で踏みにじられることへの、強烈な拒絶と意地だった。
ヴォルグは、しばらくの間カイの顔を無言で睨みつけていた。やがて、彼は背中の機械腕を動かし、作業台の下から無造作に一つの小さな箱を引っ張り出した。
「……手ぶらで死地に送り出すとは言ってねえよ、馬鹿野郎」
ヴォルグが箱の蓋を開けると、そこには、くすんだ銀色と黒い皮革が複雑に編み込まれた、片手用の手袋のようなものが収められていた。
「なんだ、これは?」
カイが尋ねると、ヴォルグはその手袋を取り出し、カイの左手へと押し付けた。
「『耐熱グローブ』だ。義手みたいに複雑な回路や歯車は入ってねえ。ただの保護具だ。だが、生地には熱を外へ逃がすための冷却触媒――特殊な合金の繊維が編み込まれてる。そして手のひらと指先には、お前が拾ってきた『聖銀』の粉末を極限まで薄くコーティングしてある」
「……俺の左手用の、応急処置ってことか」
「応急処置じゃねえ、苦肉の策だ」
ヴォルグは鼻を鳴らした。
「義手のような精密な伝導はできねえ。熱を完全に逃がすことも不可能だ。気休め程度にしかならねえが……素手でやるよりは、魂が焼き切れるまでの時間を数秒だけ延ばせるはずだ」
カイは、渡されたグローブを左手にはめた。革の硬い感触と、金属繊維の冷たさが肌に伝わってくる。指を曲げてみる。義手のように歯車が噛み合う滑らかさはないが、自分の肉体の延長として動かす分には申し分ない。
「……ありがとう、親父さん。この数秒が、俺の命綱になる」
カイが左手で拳を作ると、ヴォルグは顔を背け、ふいごの火を弄り始めた。
「フン。壊したら修理代は高くつくぞ。……絶対に、生きて帰ってこい。お前のその『理屈』で、教会の狂ったお偉いさんたちの鼻っ柱をへし折ってやれ」
「ああ。約束する」
「カイ! 準備はできたか!」
工房の入り口から、ジャンの野太い声が響いた。振り返ると、巨大な新しい盾を背負ったジャンと、魔導ライフルの弾倉を確認しているヴァレリーの姿があった。二人とも、ルタムでの傷が完全に癒えたわけではない。包帯の下にはまだ痛々しい火傷の痕が残っているが、その目に宿る闘志は少しも陰っていなかった。
「作戦会議室で、ゲルハルトと合流するわよ。シエロとエリスも準備を整えているわ」
ソフィアが白衣の襟を正し、首元に下げた観測鏡を握りしめる。カイは、左手にはめた耐熱グローブの感触を確かめながら、力強く頷いた。
「行こう。あいつらが引きずり込まれる前に、そのふざけた儀式をぶっ壊す」
一行は、ヴォルグの工房を後にし、足早にハビタ・ゼロの中枢へと向かった。作戦会議室の円卓には、すでに首都近郊の地形を示す立体地図が青白く浮かび上がっている。ゲルハルトが、銀縁眼鏡を押し上げながらカイたちを迎えた。
「来たな。……装備の応急処置は済んだか、カイ」
「ああ。親父さんが最高のお守りをくれたよ」
カイが左手のグローブを見せると、ゲルハルトは短く頷き、立体地図の東側――険しい岩山が連なるエリアを指し示した。
「目標は、首都マレ・オリジンの外縁部。『星見の祭壇』と呼ばれる古代の遺跡だ。ルカの報告によれば、現在そこには大規模な召喚陣が展開され、外の世界との空間の繋がりが臨界に達しようとしている」
「問題は、どうやってそこまで近づくかだ。首都の近郊ともなれば、教会の警戒網はスラムの比ではないぞ」
ジャンが腕を組んで指摘する。
「通常の地下ルートを使えば、祭壇に到着するまでに数日はかかる。それでは儀式に間に合わない。そこで、我々は強行軍に出る」
ゲルハルトは、部屋の隅で静かに控えていた灰色のフードの男――ヴィクトルへ視線を向けた。
「ヴィクトルの『慣性制御』を最大限に活用する。彼が先導し、我々全員を牽引して地上を最短距離で駆け抜ける。シエロの妨害音波で教会のソナーを掻き乱せば、強行突破は可能だ」
「……了解した。振り落とされるなよ」
ヴィクトルが淡々と応じる。彼の機動力があれば、通常なら数日かかる距離を、わずか数時間で走破できる。だが、それは敵の防衛線を文字通り強行突破するという、極めて危険な賭けでもあった。
「シエロ、エリス。君たちは今回も本部からのバックアップだ。カイとソフィアの『戦術連携』を維持し、敵の予兆を確実に伝えてくれ」
「はいっ! 僕の耳で、必ず敵の動きを捉えます!」
「……カイさんの魂の音が乱れないよう、全力で支えます」
シエロとエリスが、力強く頷く。
「総員、配置につけ。これより、我々は『星見の祭壇』へと向かう」
ゲルハルトの号令が、冷たい金属の部屋に響き渡った。
カイは、左手のグローブを強く握り込んだ。右腕はない。万全とは程遠い、不完全な状態。だが、心の中にある炎は、これまでになく静かに、そして鋭く燃え上がっていた。




