第77話 幻燈の凶報
地下施設『ハビタ・ゼロ』の無機質な金属の廊下を、カイとソフィアは足早に駆け抜けていた。
つい先ほどまで、医務室で敗北の苦い味を噛み締めていた二人だが、歩みを止めている暇はなかった。シエロの切羽詰まった声が告げた「緊急の通信」。それは、ルタムの街で彼らを蹂躙した教会の処刑部隊『エクリプス』、そして彼らを急遽呼び戻した『聖帝』の次なる一手に関する凶報に他ならない。
重厚な鉄扉を押し開け、作戦会議室へと飛び込む。そこには、銀縁眼鏡を押し上げる指揮官のゲルハルト、そして満身創痍の実働部隊の姿があった。ジャンは、泥の巨漢ギデオンに抉られた左腕と脇腹に分厚い包帯を巻き、痛みに顔をしかめながらパイプ椅子に腰掛けている。ヴァレリーもまた、自らの神経を焼き切るほどの雷撃を放った代償で、顔の半分を覆うような火傷の痕を残し、魔導ライフルを杖代わりに辛うじて立っていた。二人とも本来ならベッドから動くべきではないほどの重傷だ。だが、非常事態と聞いて、這ってでも集まってきたのだろう。
「来たな、カイ。……体は大丈夫なのか?」
ジャンが痛みをこらえながら、カイの右肩――ぐるぐる巻きにされた布の下にある喪失の痕を見て、気遣うように声をかけてきた。
「俺の心配より、自分の心配をしてくれよ。……シエロ、通信は?」
カイが部屋の隅に視線を向けると、通信卓に座るシエロがヘッドフォンを押さえながら、コンソールのダイヤルを必死に操作していた。部屋の奥には、プロメテウスの職人たちが古代の遺物を改造して作り上げた巨大なアンテナが鎮座し、ヴゥゥゥンという低い唸り声を上げている。空間のエーテルそのものを媒質とする、絶対に傍受されない暗号通信だ。
「……波長、同調しました。繋ぎます!」
シエロがスイッチを弾くと、テーブルの中央に置かれたガラス玉のような魔導具が青白く明滅し、ノイズ混じりの、しかし飄々とした青年の声が室内に響き渡った。
『――やあ、地下のモグラ諸君。息をしているかな』
教会の研究機関『聖譜監獄』に潜入しているレジスタンスのスパイ、ルカ。コードネーム『幻燈』だ。
「生きてはいるさ。ボロ雑巾みたいにな」
と、ジャンが吐き捨てるように返す。
『手ひどくやられたみたいだね。だが、あのエクリプスを相手に生還しただけでも、十分すぎる戦果だよ』
ルカの言葉にはいつもの皮肉めいた余裕があったが、声の奥には張り詰めた緊張感が潜んでいた。彼がいるのは敵の中枢だ。いつ見つかるか分からない薄氷の上から、命がけでこの情報を送ってきている。
『本題に入ろう。エクリプスがルタムの街から急遽撤退した理由についてだ。……君たちも逃げ際に聞いたかもしれないが、聖帝が直々に絶対の勅命を下した』
「ええ。大規模召喚の聖儀が想定よりも早く臨界に達した、と言っていたわね」
ソフィアが、首元の観測鏡を指で弄りながら応じる。
『その通り。……彼らは今、首都近郊の外縁部にある『星見の祭壇』にて、外の虚無の世界から大量の人間を引きずり込む儀式を執り行っている』
「外の虚無って……。それじゃあ」
カイの心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。
『ああ。君と同じ、エーテルの存在しない向こう側の世界から「漂流者」たちを、無差別に数十人規模で引っ張り込むつもりだ』
「何のためにそんな真似を……!」
カイが身を乗り出して叫ぶと、ゲルハルトが冷徹な声で引き取った。
「……結界を維持するための、『新たな動力源』の補充だ。そうだろう、幻燈?」
『ご名答。この大陸を外の虚無から隔離している結界は、常に莫大なエネルギーを消費している。だが、そのシステムも経年劣化で限界が近づき、結界の綻びが隠しきれなくなってきた。だから、新しい「電池」が必要になったんだ』
ルカの説明が、残酷な真実を暴いていく。
『この世界の住人の魂は、高濃度のエーテルに馴染みすぎていて、結界の強大な圧力を受け止める「器」にはならない。必要なのは、エーテルの存在しない真空のような現実世界で育ち、自己を保つために極限まで硬く圧縮された「高密度の魂」だ。……カイ君、君のようにね』
教会は召喚した人間たちを『生きた聖遺物』や『聖櫃』と呼んで神聖視しているという。だが、その実態は、結界という名の巨大な機構を動かすための、使い捨ての「燃料」だ。
使い捨ての、燃料。その言葉が、カイの脳裏にルタムの広場で見た光景を呼び起こした。適性のない聖譜を強制され、命を削りながら炎を生み出していた若者たち。痛みを神への奉仕と思い込まされ、狂信という麻酔に浸って焼け焦げていった彼らの姿。今度はそれを、あちら側の世界の人間たちに強要しようというのか。
『エクリプスがルタムから撤退したのも、そのためだ』と、ルカが通信越しに続ける。
『彼らは今、首都の深部で待機している。召喚された人間の中から、「聖騎士として洗脳し、剣として使える者」と、「そうでない者」を仕分けるための、処刑と管理の準備を進めているんだ。だから、しばらくは君たちを追討する余裕はない』
「つまり、儀式が行われている『星見の祭壇』には、あのイカれた修道女はいないってことね」
ヴァレリーが忌々しげに顔をしかめた。
『ああ。だが、油断はしないでくれ。祭壇を取り仕切っているのは、高位聖職者である聖導師マリアンヌだ』
「マリアンヌ……」
ソフィアが眉をひそめる。
『彼女はエクリプスのように痛みを好む戦闘狂じゃない。だが、別のベクトルで狂っている。「外の虚無の世界で苦しんで死ぬくらいなら、時を止めて結界の一部に組み込み、永遠に神のそばに置いてあげることこそが救済だ」と本気で信じている。過保護で狂った、箱庭の管理人さ』
人間を傷つけず、苦しませず、美しいまま永遠に冷凍保存する。それが彼女の「善意」であり、「救済」なのだという。狂っている。痛みを歓喜とするイザリアとは違う、静かで、冷酷な狂気。
「……ふざけるな」
カイの口から、地を這うような低い声が漏れた。
「俺たちの世界から、無差別に人を拉致して、勝手に電池にする? 永遠に保存する? ……そんなバカげた話、誰が許すか」
昨日まで、仕事の疲れにため息をつきながら満員電車に揺られていた大人たち。画面の割れたスマホをいじりながら、友達との他愛ない約束を楽しみにしていた学生たち。そんなありふれた日常を生きていた普通の人間たちが。突然こんな理不尽な世界に放り込まれ、言葉も通じないまま「神への生贄」として消費される。俺が味わったあの孤独と絶望を、何十人もの人間が同時に味わわされるのだ。
「俺と同じように、何も知らない人間が、勝手にこの狂った世界の部品に押し込まれようとしてる。……そんな間違った理屈、絶対に直してやる」カイの黒い瞳に、暗く、冷たい怒りの火が静かに燃え上がった。
「……行くぞ」
カイは、残された生身の左手を強く握りしめ、前を見据えた。
「その『星見の祭壇』って場所に。今すぐだ」
「待て、カイ」
ゲルハルトが、冷徹な声で制止した。
「君の怒りは理解できる。だが、現実を見ろ。我々の戦力は事実上、壊滅しているのだぞ。彼らの傷を見れば分かるだろう」
ゲルハルトは、血のにじむ包帯を巻いたジャンとヴァレリー、そしてカイの右肩――失われた右腕の痕を指差した。
「何より、君自身が最大の武器である『義手』を失っている。素手で相手の聖譜に干渉すれば、次こそ君の魂は完全に焼き切れる。強行突入など、ただの自殺行為だ」
正論だった。指揮官としてのゲルハルトの判断は、一ミリの狂いもなく正しい。だが、カイは引かなかった。
「ここで見過ごしたら、俺は一生後悔する」
カイは、ゲルハルトの銀縁眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「あいつらは、俺と同じ世界から来た人間だ。言葉も通じない、理屈も分からない世界で、どれだけ絶望しているか……俺には痛いほど分かるんだよ」
カイの脳裏に、スラムで目覚めた時の泥水の不味さ、肺を焼く紫色の霧の苦しさが蘇る。
「……カイ」
ソフィアが、心配そうにカイの名を呼んだ。だがその時、パイプ椅子に座っていたジャンが、痛む腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
「へっ。……指揮官殿の言うことはもっともだがな。あいにく、俺たちは利口な優等生じゃないんでね」
ジャンは、ひしゃげた大盾の代わりに自らの太い腕を鳴らした。
「ここまで付き合って、新入り一人を死地に送り出すような薄情な真似はできねえよ。俺の筋肉は、まだ完全に溶けちゃいねえ」
「ちょっと、ジャン。良いところ全部持っていかないでよね」
ヴァレリーも、痛々しい火傷の顔を歪めて笑い、壁に立てかけてあった魔導ライフルを乱暴に肩に担ぎ直した。
「雷の出力は落ちてるけど、道を作るくらいならまだやれるわ。……あの狂った教会の連中の鼻っ柱を、へし折ってやりなさい」
満身創痍の仲間たちが、痛みを堪えてカイの隣に並び立つ。ゲルハルトは小さく息を吐き出し、眼鏡の位置を直した。
「……まったく、理屈で測れない連中だ。よかろう」
指揮官は、呆れたように言いながらも、円卓の上の立体地図を睨みつけ、決断を下した。
「出撃を許可する。だが、その前に急いでヴォルグの工房へ行け。……右腕がない状態で戦場に出すわけにはいかない。彼なら、不完全でも何らかの解決策を提示できるかもしれん」
「ああ。恩に着る」
カイは短く頷き、作戦会議室を飛び出した。ソフィアも慌ててその後を追う。
「ちょっと、待ちなさいよ! まったく、本当に世話が焼けるわね!」
冷たい金属の廊下を走りながら、カイの頭の中はすでに次なる戦いへの道筋を組み立て始めていた。失われた右腕。迫り来るタイムリミット。だが、心の中に燻っていた敗北の残り火は、同郷の人間たちを救い出すという明確な目的によって、再び鋭い炎へと変わっていた。
偽りの福音によって、無知なる命が消費されようとしている。狂信に砕かれた論理の刃をもう一度鍛え直し、次なる死地へと向かうための準備が、慌ただしく始まろうとしていた。




