第76話 敗北からの逆算
地下施設『ハビタ・ゼロ』の医務室は、冷たい静寂に包まれていた。
盲目の治療師・エリスが退室した後の部屋には、各種の計器が発する規則的な低い駆動音だけが響いている。カイは、薄暗い天井に這う無機質な配管をじっと見つめていた。
視線を右へ向ける。そこにあるはずの重量感はない。肩から先は白い布でぐるぐると巻かれており、少し離れた金属の台の上には、真っ黒に焼け焦げ、無惨にひしゃげた鉄塊が置かれている。ヴォルグが精魂込めて鍛え上げてくれた、鋼鉄と聖銀の義手の残骸だ。
先ほどエリスには「次は間違えない」と強がってみせた。だが、スラムの広場で相対したあの美しき狂信者――自らを焼く苦痛すらも神からの愛として歓喜し、限界を突破した熱量を押し付けてきた処刑部隊の隊長、イザリアの姿は、網膜に焼き付いて離れない。
「……目を覚ましていたのね」
不意に、医務室の重い鉄扉が開いた。現れたのは、白衣を羽織った少女――ソフィアだった。いつもなら自信に満ちた足音を響かせる彼女だが、今の歩みはひどく重く、その黒い瞳には濃い疲労と、隠しきれない悔恨の色が滲んでいた。
「よお、先生。不甲斐ない生徒で悪かったな」
カイが乾いた声で軽口を叩くと、ソフィアは唇を噛み締め、カイのベッドの傍らに立った。
「……馬鹿なこと言わないで。悪いのは私よ」
ソフィアは、首元に下げた『観測鏡』を強く握りしめた。
「私の眼が、あいつらの異常性を測りきれなかったから……。私の計算が甘かったせいで、貴方にすべてを背負わせてしまったのよ」
彼女の震える声には、研究者としての自尊心を打ち砕かれた深い挫折感があった。原因があり、結果がある。どんな現象にも必ず脆い「結び目」が存在し、そこを解体すれば止めることができる。彼女は祖父が遺した理論を信じ、カイもまた、彼女のその眼を完全に信頼して、迷いなく撃ち抜いてくれた。
だが、あの狂信者は違った。
「あんたのせいじゃないさ。俺の傲慢だ」
カイは、残された左手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
「俺は、俺の知っている知識が、世界のすべてだと思い込んでいた。物が燃えるには酸素がいる。熱を奪えば火は消える。……そう思ってた。でも、あいつらにはそんなの関係なかったんだ」
カイの脳裏に、自らの肉体が焼け焦げる激痛を「至上の悦び」として受け入れ、炎を増幅させていたイザリアの姿がフラッシュバックする。
「痛みを薪にするなんて、俺の知ってる教科書には載ってなかった。……あいつの聖譜は、理屈で固められた建物を、理屈の通じない土砂崩れで押し流すようなもんだった。正面から壁を作って止めようとした、俺の完全な負けだ」
二人の間に、重苦しい沈黙が降りた。これまで彼らは「理屈」という武器で、この世界の理不尽な現象に対抗してきた。だが、狂信という前提条件の狂った世界では、綺麗な数式は何の役にも立たなかったのだ。
「……彼女の術式は、異常だったわ」
やがて、ソフィアが顔を上げ、冷静な分析者の顔を取り戻そうと努めながら口を開いた。
「普通、術者がダメージを受ければ集中が途切れ、現象は崩壊する。それがこの世界における聖譜の法則よ。でも彼女は、『自分が傷つくこと』を強引にプラスの力として定義し、それをあの狂った祈りで無理やり成立させてしまっていた」
「ああ。俺が『事象解体』で干渉して生じた摩擦熱すら、あいつは自分の痛みとして喜んで吸収しやがった。マイナスを掛ければ掛けるほど、結果がプラスに跳ね上がるなんて、どんなデタラメな理屈だよ」
カイは台の上の義手の残骸を睨みつけた。
「俺が解体すればするほど、あいつの火力は上がっていく。最終的には捌ききれなくなって、俺の魂の許容量を超えた。……見事に押し潰されたよ」
「……ごめんなさい、カイ」
「だから、謝るなよ」
カイは、痛む体を起こし、真っ直ぐにソフィアを見つめた。
「負けたのは事実だ。俺の知識は万能じゃなかった。……でも、だからって『じゃあお手上げです』ってわけにはいかないだろ」
カイの黒い瞳の奥には、絶望の炎に焼き尽くされずに残った、静かな、しかし確かな光が宿っていた。
「俺たちは間違えたんだ。なら、何が間違っていたのかを洗い出して、次の式を組むだけだ」
その言葉に、ソフィアはハッとして目を見開いた。
「……カイ。貴方、まだ戦う気なの?」
「当たり前だろ。俺がここで折れたら、ジャンやヴァレリーが体を張って稼いでくれた時間が無駄になる」
カイは、残された生身の左手をゆっくりと握りしめた。
「以前、あんたに教わったよな。力任せに結果を壊すんじゃなくて、途中の結び目をほどけって」
「ええ。でも、彼女の聖譜にはその『結び目』が見えなかった。デタラメな熱を無差別に垂れ流しているだけで、綺麗な構造なんて存在しなかったわ」
「そう。だから俺たちは、その巨大な熱の波を『全部』消そうとして押し潰されたんだ。巨大な波を、正面から分厚い壁で押し返そうとしたら、波に飲まれるのは当然だ」
カイは、自らの左手を見つめながら、思考を研ぎ澄ませていく。
「俺たちは、あいつの聖譜の『中身』……熱や炎そのものを消そうとした。だから、無限に増殖するエネルギーに押し潰されたんだ。巨大な濁流を、正面から分厚い壁で止めようとしたら、壁ごと飲まれるのは当然だ」
「……ええ。彼女の聖譜には、私たちがほどけるような『結び目』が見えなかった。デタラメな熱を無差別に垂れ流しているだけで、綺麗な構造なんて存在しなかったわ」
「そう。だから、次はまともに相手をしない」
「まともに相手をしない?」
「ああ。どんなに理屈を無視した狂気の聖譜だろうと、それがこの現実の空間で起きている以上、必ず世界律に無理な負荷をかけて『縫い止めている場所』があるはずだ」
「……縫い止めている場所。現象を成立させている、空間の歪みの中心……特異点、ということ?」
ソフィアの表情が、はっとして変わる。彼女の優秀な頭脳が、カイの言葉から新たな理論の糸口を掴み取ろうとしていた。
「そうだ。聖譜のエネルギーそのものと力比べをする必要はない。そのデタラメな現象を世界に固定している『ピン』だけを見つけ出して、引き抜く。……キャンバスに描かれた絵の具を必死に消すんじゃなくて、キャンバスを留めている画鋲だけを外して、自重で崩れ落ちるように仕向けるんだ」
カイは、焼け焦げた義手の残骸を顎でしゃくった。
「この右腕は、もう動かない。ヴォルグの親父さんに怒られるだろうけど、すぐに元通りにはならないだろう。……だから、次はこいつでやるしかない」
カイは、生身の左手を掲げた。その言葉の意味を理解し、ソフィアが息を呑む。
「正気!? 左手には、義手のような排熱の仕組みはないのよ! 生身で直接干渉したら、今度こそ貴方の魂が焼き切れてしまうわ!」
「だからこそ、ピンポイントでやるんだ。最小限の力で、最小限の接触で。……俺の魂の出力を、極限まで細い『針』のように絞り込む」
カイは、不安そうに見つめるソフィアへ向けて、不敵な笑みを浮かべた。
「安心しろよ。俺は死ぬ気はない。……それに、俺には最高の『レンズ』がついてるだろ?」
その言葉に、ソフィアは言葉を失った。あんなにも傷つき、痛めつけられ、絶対の自信を粉々に砕かれたというのに。この少年の中心にある芯は、少しも折れてはいないのだ。
ソフィアは、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、白衣の襟を正し、首元に下げた観測鏡を強く握りしめた。
「……ええ。貴方がそこまで言うなら、私は、最高のレンズになってみせるわ」
彼女は、カイの左手にそっと自分の手を重ねた。
「どんな狂気の中にも、必ず破綻している『歪み』を見つけ出してみせる。……今度こそ、私たちの理屈で、あいつらの異常性を解体してやりましょう」
「ああ。約束だ」
冷たい地下の医務室で、二人の異端者は静かに誓いを交わした。理不尽な暴力に屈し、一度は地に落ちた彼らだが、その目はすでに次なる戦いを見据えていた。破壊するだけの力から、針の穴を通すような極致の解体へ。失われた右腕の代わりに、彼らは新たな理論を構築しつつあった。
その時だった。
「ソフィアさん! カイさん!!」
医務室の扉が乱暴に開かれ、首に大型のヘッドフォンをかけた少年、シエロが血相を変えて飛び込んできた。
「どうしたの、シエロ! そんなに慌てて」
ソフィアが振り返ると、シエロは息を切らしながら、蒼白な顔で叫んだ。
「教会の『聖譜監獄』に潜入しているルカさんから、緊急の通信が入りました! ……至急、作戦会議室へ来てください!」
シエロの切羽詰まった声に、カイとソフィアは顔を見合わせた。ルカからの緊急通信。それは、ルタムの街から退していった処刑部隊『エクリプス』、そして彼らを呼び戻した『聖帝』の次なる一手に関する凶報に他ならない。
「……行くぞ」
カイは、痛む体を押してベッドから立ち上がった。休んでいる暇はない。理屈を超えた狂信が、さらに巨大な絶望となって動き出そうとしている。
静寂に包まれていた地下拠点に、再び戦いの警鐘が鳴り響き始めていた。




