第75話 ノイズに潜む旋律
泥のような意識の底で燻っていた火花が、ゆっくりと熱を取り戻していく。カイは、鉛のように重いまぶたをわずかに動かした。網膜を刺したのは、地下施設『ハビタ・ゼロ』の医務室の無機質な照明だった。
「……あ、……」
乾いた喉から、掠れた吐息が漏れる。全身の骨という骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げている。だが、あの広場で感じた、魂そのものを削り取られるような『魂蝕』の激痛は、嘘のように引いていた。
視線を右へ向ける。そこにあるはずの重量感はなかった。肩のソケットから先は外されており、少し離れた金属の台の上に、真っ黒に焼け焦げ、無惨にひしゃげた鉄塊が置かれているのが見えた。ヴォルグが精魂込めて鍛え上げてくれた、鋼鉄と聖銀の義手の残骸だ。
(……負けたんだな。完全に)
スラムの広場で相対した、あの狂信者。自らを焼く苦痛すらも神の愛として歓喜し、限界を突破した熱量を押し付けてきた処刑部隊の隊長、イザリア。俺が絶対だと信じていた「理屈」は、あの理不尽な「狂気」の前に手も足も出ずに粉砕されたのだ。
「……カイさん……!」
かすかな衣擦れの音がして、カイは左側に顔を向けた。ベッドの傍らのパイプ椅子に、目元を包帯で覆った少女――エリスが座っていた。彼女の両手は、カイの胸元から数センチ浮かせた空中で、そっと何かを包み込むような形を作っている。
彼女の手から伝わってくる、冷たくて優しい波長。それが、荒れ狂っていたカイの魂を鎮め、焼き切れる寸前だった命を繋ぎ止めてくれていたのだ。彼女の青白い顔と、少し乱れた修道服を見れば、どれほどの時間、自身の『共感覚』の波長を同調させ続けてくれていたかは容易に想像がついた。
「……エリスさん」
カイが呼ぶと、エリスの肩がビクリと跳ね、彼女は安堵したように深く息を吐き出した。
「よかった……。ようやく、魂の波形が本来の『音』に戻りました。もう、熱が暴走することはありません」
「……あんたが、ずっと波長を合わせてくれてたのか。ありがとう。……すごく、楽になった」
カイは、痛みを堪えて口元に微かな笑みを浮かべた。エリスは包帯の下でわずかに目を瞬かせ、ゆっくりと手を下ろした。
「無理をしないでください。貴方の魂は、まだ酷い火傷を負ったままです。あの凄まじい熱の波形を、ただ一人で受け止めるなんて……」
エリスの声は震えていた。彼女の能力は、カイがどれほどの暴力に晒され、どれほどの苦痛に耐えていたかを、痛いほど正確に感じ取っていたのだ。
「……俺の読みが甘かったんだよ。世界は、綺麗な数式だけで動いてるわけじゃなかった。狂気ってのは、物理法則をねじ曲げるくらい重いんだな」
カイは、台の上の義手の残骸を見つめた。圧倒的な暴力の前に、俺は何もできなかった。ジャンやヴァレリーが身を挺して庇ってくれなければ、灰になっていた。だが、カイの瞳の奥にある黒い光は、決して死んではいなかった。それは、難解な問題に直面し、一度は落第点を突きつけられた学生が、それでもなお解答用紙の余白に新たな数式を書き込もうとするような、執念にも似た静かな熱だった。
「……でも、次は間違えない。あいつらの『狂信』の構造を、今度こそ俺の理屈で解体してやる」
その言葉を聞いて、エリスはハッとしたように顔を上げた。
「……貴方の『音』は、不思議です。あんなにも傷つき、痛めつけられたのに……その中心にある芯は、少しも折れていないのですね」
「折れてる暇がないだけさ。……俺が諦めたら、ジャンたちの傷がただの無駄になっちまう」
カイの真っ直ぐな言葉に、エリスは儚い笑みを浮かべた。
「カイさんは、どうかこのまま安静になさってください。私は、ヘレナさんに貴方が目覚めたことを伝えてきます」
「ああ。本当にありがとう、エリスさん。あんたも少し休んでくれよ」
カイの言葉に背中を押されるようにして、エリスは白杖を手にし、静かに医務室を後にした。
医務室を出ると、地下施設『ハビタ・ゼロ』の無機質な鉄の通路が続いていた。エリスは白杖で床をコツコツと叩きながら、重い足取りで自室へと向かう。視力を持たない彼女にとって、世界は常に『波形』として認識されている。壁の奥で唸る配管のエーテル、遠くの工房で響く金属の振動。そして、この拠点に満ちる、重苦しい疲労と敗北の空気。
誰もが傷つき、疲れ果てている。圧倒的な教会の処刑部隊の前に、彼らの確信は砕かれた。だが、カイを筆頭に、誰も完全に絶望してはいなかった。彼らの魂の音には、まだかすかな闘志が燻っているのを、エリスは感じ取っていた。
(……皆さんは、本当に強い)
エリスは、自室の冷たい鉄扉を開け、中に入ると、力なくベッドに崩れ落ちた。全身が泥のように重い。カイの荒れ狂う魂の波形を鎮めるため、自らの波長を限界まで振り絞った代償だ。
ふと、エリスの『共感覚』が、わずかな異変を捉えた。
「……え?」
エリスは身をよじり、ベッドの上で居住まいを正した。カイの治療で己の魂を極限まで酷使したせいで、エリスの『共感覚』の防壁は薄れ、感覚は異常なまでに過敏になっていた。普段なら分厚い岩盤に遮られて届かないはずの、地脈の淀みや遠く離れた街の乱気流さえも、肌を刺すノイズとして拾い上げてしまう。
だが、その無数の雑音の隙間を縫うようにして、極めて細く、鋭い波形が、限界まで過敏になっている彼女の感覚をチリッと撫でたのだ。
それは、遥か遠く、東の方角――教会の心臓部である首都マレ・オリジンから発せられている波形だった。
(……この、波の形は……)
エリスの顔から、さっと血の気が引いた。波形は、かすかな、しかし規則的なメロディを描いていた。言葉にはならない、遠い遠い場所からの空気の震え。
だが、その音の羅列は、エリスの精神の奥底にある古いトラウマを抉るように、冷たく不吉な響きを持っていた。頭の中に直接、針を差し込まれるような悪寒。
「……ッ!」
エリスは両手で耳を強く塞いだ。だが、防げるはずもない。そのノイズは鼓膜を揺らしているのではなく、彼女の限界を超えた魂に直接、共感覚を通じて響いているのだから。
(……やめて……)
エリスは、ベッドに丸まり、震える体を必死に抱きしめた。カイの治療で己の魂を酷使したせいで、感覚の防壁が薄くなっているのだ。普段なら気にも留めない遠くのノイズが、今の彼女には刃のように鋭く感じられる。
「……エリスさん? 大丈夫ですか?」
唐突に、部屋の外から声がした。エリスはハッとして、ベッドから立ち上がった。動悸を抑え、深呼吸をしてから扉を開ける。そこには、首に大型のヘッドフォンをかけた少年、シエロが立っていた。
「シ、シエロ君……。どうしたのですか?」
エリスが努めて平静な声を取り繕うと、シエロは心配そうな顔で彼女の顔を覗き込んだ。
「カイさんが目を覚ましたって聞いて……。でも、エリスさんの部屋の前を通ったら、すごく……苦しそうな波長が聞こえた気がして」
シエロの『聴覚』もまた、微細な空気の震えや気配を捉えることに長けている。限界を超えたエリスの魂が激しく動揺していることが、音の乱れとして伝わってしまったのだ。
「顔色が、とても悪いです。……やっぱり、カイさんの激しい波長にあてられて、体調を崩されたんじゃ……」
シエロが気遣わしげに尋ねてくる。
「……ええ、ごめんなさい、シエロ君。ありがとうございます」
エリスは、いつもの穏やかで儚い笑みを浮かべてみせた。
「少し、激しい戦いの波形にあてられて……酷い耳鳴りがしただけですから。少し眠れば、治ります」
「……そうですか。無理、しないでくださいね。エリスさんが倒れたら、みんな困っちゃいますから」
シエロは少しだけ不審そうな表情を見せたが、それ以上は踏み込まず、ペコリと頭を下げて廊下の奥へと去っていった。
「……ええ。おやすみなさい」
シエロの足音が完全に遠ざかるのを確認すると、エリスはゆっくりと扉を閉め、冷たい金属の壁に背中を預けた。ずるずるとその場に座り込み、再び両手で顔を覆う。
エリスの耳の奥では、まだ遠く離れた場所からの不吉な波形が、嫌な耳鳴りのように響き続けていた。
『――大規模召喚の聖儀が、想定よりも早く臨界に達した。至急、首都へ帰還せよ』
撤退の直前、あのイザリアという狂信者に向けて放たれた、聖帝の絶対命令。教会が大規模な儀式を行うということは、それだけ世界中のエーテルの流れが歪められ、恐ろしい力が渦巻くということだ。今のノイズは、その儀式がもたらす巨大な歪みの前兆なのだろうか。
(……怖い……)
暗い地下室で、盲目の少女の孤独な震えは誰にも届かない。理不尽な狂信がもたらした敗北の余韻と、東の空から迫り来る得体の知れない気配が絡み合う中、次なる絶望の歯車が、音もなく回り始めていた。
第5章:狂信の牢獄 「完結」




