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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
狂信の牢獄

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第74話 砕かれた確信

 重厚な鋼鉄の隔壁が、低くきしむような音を立てて持ち上がる。普段ならば、地下施設『ハビタ・ゼロ』へと帰還する者たちを温かく迎え入れるはずのその音は、今夜ばかりは、ひどく重苦しい葬送曲のように響いた。


「急げ! 医務室へ運べ!」


 隔壁の向こう側へと足を踏み入れたヴィクトルの、平坦な声が地下通路に響き渡る。彼の声にはいつものような無機質な響きはなく、明確な切迫感が混じっていた。彼の肩には、完全に意識を失い、だらりと手足を垂らしたカイが担がれている。そして両手では、満身創痍のジャンとヴァレリーの襟首が力強く掴まれ、引きずられるようにして運ばれていた。その後ろを、ヴィクトルの腰のハーネスにしがみついて強行撤退を生き延びたソフィアが、青ざめた顔でフラフラとついてくる。


「……ひどい……」


 出迎えた通信兵のシエロが、彼らの惨状を見て息を呑んだ。ジャンの左腕の肉は無惨に抉れ、持ち帰った大盾は元の形を留めないほどに溶け落ちて、ただの歪な鉄の塊に成り果てていた。ヴァレリーは全身に重度の火傷を負い、彼女自身の能力による過剰な雷の力の反動で、指先が痙攣して止まらない状態だった。そして何より、ヴィクトルの肩に担がれたカイの姿は、目を覆いたくなるほど凄惨だった。


「カイさん……!」


 シエロの叫びを聞きつけ、医務室からヘレナとエリスが駆けつけてくる。


「何をやらかしたら、こんなボロ雑巾みたいになるのよ……! エリス、止血と冷却の準備! 急ぎなさい!」


 ヘレナが咥えていたタバコを床に投げ捨て、すぐさま指示を飛ばす。彼女の表情は、これまでにないほど険しかった。ヴィクトルによって診察台に横たえられたカイの体からは、不快な熱気と、肉が焦げたような嫌な匂いが立ち昇っていた。最も酷いのは、彼の右腕――ヴォルグが精魂込めて鍛え上げた、鋼鉄と聖銀の義手だった。過熱を防ぐための排熱機構を備えていたはずのそれは、致死量の熱によって内部から完全に溶け落ち、装甲の隙間からは真っ黒な煤がこびりついている。もはや義手としての機能は完全に失われ、ただの重く焼け焦げた鉄屑と化していた。


「……腕の固定具を外すわ。ヴィクトル、手伝って」


「……ああ」


 ヴィクトルが、無言のままヘレナと共にカイの右肩から義手を取り外す。ガコン、と重く空虚な音がして、黒焦げの鉄塊が床に転がった。


「……『魂蝕(こんしょく)』の症状が、限界を超えているわ」


 ヘレナがカイの胸元に耳を当て、忌々しげに舌打ちをした。聖譜を物理的に弾き返す「絶縁体」の魂。それが、逃げ場のない圧倒的な熱量と摩擦を起こしたことで、カイの魂そのものが内側から激しく焼き焦がされているのだ。


「エリス! 貴方の波長で、彼の魂の熱を少しでも抑え込んで! 私はすぐに冷却剤を精製するわ!」


「はい……っ!」


 目元を包帯で覆ったエリスが、震える両手をカイの額と胸にそっと当てる。彼女の能力『共感覚(バイオ・ソナー)』を通じて、カイの魂が上げている悲鳴が、彼女に直接流れ込んでくる。


「……あ、あぁ……」


 エリスの口から、苦悶の吐息が漏れた。これまでのカイの魂の音は、深海にある岩のように硬く、静かなものだった。だが今の彼の魂は、荒れ狂う炎の嵐のように乱れ、ひび割れ、今にも砕け散ってしまいそうなほどに激しい摩擦音を立てている。さらに、その熱の奥底に、他者の「狂気」――痛みを恍惚と錯覚させるような、おぞましい感情の残滓がこびりついているのを感じ取った。


(……なんて、恐ろしい熱……。カイさん、貴方はこんな暴力に、一人で耐えていたの……?)


 エリスは涙をこらえながら、自身の持つ最も穏やかで冷たい波長を、カイの荒れ狂う魂へと必死に重ね合わせていく。


 医務室の片隅で、ソフィアは壁に背中を預け、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。彼女の目には、焦点が合っていなかった。手の中にある『観測鏡(スペクトル・スコープ)』を握りしめる指が、白くなるほどに力が入っている。


「……私の、せいよ」


 乾いた唇から、掠れた声が漏れた。


「私が、彼を追い詰めた……。私の計算が、私の理論が……あんな狂気の前には、何の意味も持たなかった……」


 ソフィアの脳裏に、スラムの広場での凄惨な光景がフラッシュバックする。自らを焼く激痛を『神からの愛』へと変換し、無限の熱量を引き出すイザリア。その背後で、狂気の感情を空間に撒き散らすヴェールの少女。ソフィアは、祖父の遺した『外典』の理論を信じていた。原因があり、結果がある。物理法則という絶対の枠組みの中にある以上、どんな現象にも必ず脆い「結び目」が存在し、そこを解体すれば止めることができると。カイもまた、彼女のその眼を完全に信頼し、迷いなく撃ち抜いてくれた。


 だが、現実はどうだ。彼女たちが見出した「理屈」は、イザリアの「痛みを愛とする」という、物理法則を根本から無視した狂信の前に、いとも容易く破綻した。結び目を引き抜いてダメージを与えても、相手はそれを燃料にして火力を上げる。酸素を断っても、自分の命を燃やして熱を出す。ソフィアの観測鏡が捉える「正しい数式」は、狂信という前提条件の狂った世界では、まったく機能しなかったのだ。


「……計算が、合わなかった。私の眼は、あいつらの異常性を測りきれなかった。だから……カイが……」


 ソフィアは両手で顔を覆い、深くうなだれた。自分が完璧な「レンズ」になれなかったから、カイという「撃鉄」を壊してしまった。その事実が、彼女の冷徹な科学者としての自尊心を粉々に砕き、鋭い破片となって心を切り裂いていた。


「……自分を責めるな、ソフィア」


 静かな、だが威厳のある声が医務室の入り口から響いた。指揮官のゲルハルトだった。彼は銀縁眼鏡の奥の鋭い瞳で、医務室の惨状を冷静に見渡していた。


「相手は、教会の最精鋭にして狂信の化身である『エクリプス』だ。既存の物理法則や、これまでの戦闘データが通用しないことは、最初から想定の範囲内だ」


「……でも、ゲルハルト! カイは……あんなにボロボロになって……!」


「彼が身を挺してくれたおかげで、君たちは生還できた。そして、何より重要な『情報』を持ち帰ってくれた」


 ゲルハルトは、ソフィアの前に立ち、彼女を見下ろした。


「君の理論は間違っていない。ただ、相手の狂気が、我々の想定する『理屈の枠』をはるかに超えていたというだけのことだ。……落ち込んでいる暇はないぞ」


 ゲルハルトの言葉は冷酷に聞こえるかもしれないが、それは彼なりの叱咤だった。立ち止まれば、本当にすべてが終わってしまう。


「ゲルハルトの言う通りよ、お姫様」


 包帯を巻かれ、ベッドに横たわっていたヴァレリーが、痛みに顔を歪めながらも口を開いた。


「あのイカれた修道女、最後は通信に呼び出されて帰っていったんでしょ? だったら、まだこっちの負けが確定したわけじゃないわ。……あたしたちが稼いだ時間、無駄にしないでよね」


「……ヴァレリー……」


 ソフィアは顔を上げ、仲間たちの顔を見た。ジャンもまた、治療を受けながら力強く頷いている。彼らは誰も、ソフィアやカイを責めてはいなかった。圧倒的な暴力に屈した事実は重いが、絶望に呑まれてはいない。


「……ええ。そうね。ここで私が泣いていたら、カイに笑われるわ」


 ソフィアは泥だらけの白衣の袖で乱暴に涙を拭い、立ち上がった。彼女の瞳に、再び知的な光が灯る。


「ゲルハルト。……イザリアが撤退する直前に聞こえた、あの『鐘の音』と通信の声。……あれは間違いなく、教会の頂点に立つ『聖帝』の直接の思念だったわ」


「ああ。シエロのジャミングを軽々と突破し、空間のエーテルを直接震わせて音にするほどの、桁違いの圧力だったそうだな」


「ええ。そして、聖帝はこう言ったわ。『大規模召喚の聖儀(リチュアル)が、想定よりも早く臨界に達した。至急、首都へ帰還せよ』と」


 その言葉を口にした瞬間、作戦会議室へ移動していたゲルハルトの顔色が、わずかに険しくなった。


「大規模召喚の聖儀……。やはり、彼らは次なる段階へ移行しようとしているのか」


「ええ。おじい様が遺した過去の記録にもあった通り、教会は定期的に『迷子』を召喚している。でも、今回のは規模が違うはずよ。わざわざ処刑部隊の任務を中断させてまで呼び戻すなんて……」


 ソフィアが推測を口にする。教会が外の世界の人間を召喚する理由は二つ。一つは、教会の武力となる強力な『聖騎士』を得るため。そしてもう一つは――。


「……結界を維持するための、新たな『人柱』。あるいは、その両方か」


 ゲルハルトが忌々しげに眼鏡を押し上げた。


「教会に潜入しているルカからの後続の連絡はないのか?」


「……今のところ、音信不通です」


 通信卓に座るシエロが、首を横に振った。エクリプスの動向を探るために敵の中枢に潜り込んでいるルカ。彼からの通信が途絶えているということは、教会の内部で極めて厳戒な情報統制が敷かれているか、あるいは彼自身の身に危険が迫っているかのどちらかだ。


「……厄介なことになったな。我々の『矛』と『盾』が砕かれたこのタイミングで、敵が最大の儀式を強行しようとしている」


 ゲルハルトは、円卓の上の立体地図を睨みつけた。首都マレ・オリジン。そこにそびえ立つ巨大な塔。そこで何が行われようとしているのか、正確な情報はまだない。だが、それがこの世界の均衡を大きく崩すものであることだけは確かだった。


「防衛戦力は実質ゼロ。遊撃のヴィクトル以外、まともに動ける者はいない。……我々は今、完全に手詰まりだ」


 冷徹な指揮官の口から出たその言葉が、拠点の空気をさらに重く沈ませた。敗北感と、迫り来る見えない脅威。これまで「理屈」という武器で対抗してきた彼らだが、圧倒的な暴力と狂信の前に、その武器が根本から折られてしまったのだ。


 一方、医務室の奥。薄暗い照明の下で、カイは深い昏睡の底に沈んでいた。


(……暗いな)


 カイの意識は、底なしの泥沼の中を漂っていた。痛みはない。熱もない。あれほど激しく魂を苛んでいた摩擦熱も、狂信者の感情の濁流も、今は遠い幻のようだった。ただ、圧倒的な無力感だけが、冷たい水のように全身にまとわりついている。


(……負けたんだな、俺は)


 自分の理屈が、狂気に押し潰された。どんな現象も、原因と結果の法則に当てはめればほどける。そう信じていた傲慢さは、自らの肉体を焼く痛みを「神からの歓喜」と定義する女の前に、あっけなく破綻した。物理法則を無視した熱量。無限に増幅する狂信の炎。それらを前にして、自分の知識がいかに無力であるかを、骨の髄まで思い知らされた。


(……何も、直せなかった)


 街の住人を救うどころか、仲間たちに重傷を負わせ、自分は這いつくばって逃げてきた。ヴォルグが精魂込めて作ってくれた義手も、ただの鉄屑にしてしまった。俺は修復者なんかじゃない。ただの、生意気な知識を振りかざしただけの、無力な子供だ。


 暗い意識の底で、カイは小さく丸くなった。もう、このまま沈んでしまいたい。難しい理屈も、痛い思いも、全部投げ出して、この心地よい静寂の中で眠っていたい。


 だが。その暗闇の中に、微かな「温もり」が差し込んできた。


(……カイさん……)


 声ではない。それは、柔らかな波長を持った「音」だった。エリスの共感覚による癒やしの波形。彼女の冷たくも優しい手が、カイの荒れ狂う魂をそっと撫で、乱れた波を一つ一つ丁寧に整えてくれている。彼女だけではない。ソフィアの焦燥。ジャンの不屈の闘志。ヴァレリーの強がり。そして、ガレオスやエルマたちの祈り。


 俺は、一人じゃない。俺が投げ出せば、あいつらが、あの狂気に飲み込まれる。


(……起きろ。起きろよ、俺)


 カイは、暗闇の中で必死にもがいた。理屈が通じないなら、理屈を超えるしかない。壊されたなら、また作り直せばいい。俺は、そのためにここに来たはずだ。


 泥のような意識の底で、カイの魂が、再びかすかな火花を散らし始めていた。砕かれた確信の残骸の中から、新たな意志が芽吹こうとしている。血塗られた撤退は、終わりではない。それは、狂信の世界を打ち砕くための、次なる戦いの、重く苦しい序曲に過ぎなかった。

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