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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
狂信の牢獄

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第73話 灰色の救出劇

「愛してるわ、迷子さんたち」


 イザリアが、爛れた唇を歪めて優しく囁いた。彼女の周囲で、再びあの理不尽な熱波が渦を巻き始める。ソフィアは、膝の震えを必死に抑え込みながら、片目に装着した『観測鏡(スペクトル・スコープ)』越しにその光景を睨みつけていた。


(……だめね。どう計算しても、防ぐ手段がないわ)


 ソフィアの冷徹な頭脳が、絶望的な結論を弾き出す。頼みの綱だったカイの「解体」は、彼女の規格外の熱量によって完全に処理能力の限界を超え、機能停止に追い込まれた。ジャンもヴァレリーも、命を削る一撃を放って倒れている。物理的な盾も、雷の矛も、すべてが折れた。この広場に残されているのは、圧倒的な熱量の前で無防備に晒された仲間たちの体だけだ。


「さあ、痛みを分かち合いましょう。……ドロドロに溶け合うまで」


 イザリアが、気絶しているカイの頬へと、赤熱した手をゆっくりと伸ばす。その手に触れられれば、カイの生身の体など一瞬で灰になる。


「やめてッ!!」


 ソフィアは、自分の無力さを呪いながらも、カイを庇おうと前へ飛び出そうとした。だが、その細腕で狂気の化身を止められるはずがない。熱波の壁に弾き返されそうになった、その刹那だった。


ヒュンッ!!


 スラムの淀んだ空気を切り裂くように、一陣の鋭い突風が吹き荒れた。いや、ただの風ではない。それは、崩れかけた瓦礫の山を音もなく駆け下りてきた、灰色の影だった。


「……!?」


 イザリアが伸ばしかけた手が、突如として空を切る。ほんの一瞬の出来事だった。イザリアの目の前に倒れていたはずのカイの体が、見えない力で引かれたかのように、唐突に後方へと弾き飛ばされたのだ。


「……遅れてすまない」


 低く、感情の起伏を感じさせない無骨な声。カイの体を抱え上げ、ソフィアの隣に音もなく着地したのは、灰色のフードを目深に被った男――レジスタンスの遊撃・回収を担う『ヴィクトル』だった。彼の片目に嵌め込まれた機械仕掛けの義眼が、冷徹に周囲の状況をスキャンして赤い光を点滅させている。


「ヴィクトル……!」


 ソフィアの顔に、わずかな希望の色が灯る。ヴィクトルは、自身の運動エネルギーの減衰を完全に無視する能力『慣性制御(イナーシャ)』の持ち主だ。壁を走り、重力を無視したような超跳躍を可能にする彼の動きは、教会の騎士たちでさえ目で追うことはできない。


「動けるな、ソフィア。すぐに撤退する」


 ヴィクトルは、気絶したカイを自身の肩に担ぎ上げると、足元に倒れているジャンとヴァレリーの襟首をそれぞれの手で強く掴んだ。


「待って! ジャンとヴァレリーは重傷よ! そんな乱暴に引っ張ったら……!」


「命があるだけマシだ。舌を噛まないように祈れ。……ソフィア、お前は私の腰のハーネスに掴まれ。絶対に手を離すなよ」


 ヴィクトルは無表情のまま、巨大なジャンと武装したヴァレリーを軽々と引きずり、凄まじい脚力で後方へ向かって跳躍した。ズガンッ! と、彼が蹴りつけた地面の石畳がクレーターのように陥没する。


「きゃあっ!?」


 ソフィアは言われた通りにヴィクトルの腰の装具に必死にしがみついた。一切の減速を許さない慣性のまま、ヴィクトルの体は仲間たち全員をぶら下げて瓦礫の山を一気に跳び越え、安全圏である地下水路への入り口付近へと向かう。


「あら……。私の子猫を、泥棒猫が攫っていくのね」


 イザリアが、空になった両手を見つめ、不機嫌そうに小首を傾げた。その瞬間、彼女の周囲を渦巻いていた熱波が、明確な「殺意」へと変貌し、ヴィクトルたちが逃げ込んだ瓦礫の山へ向けて一気に放出された。


「逃がさん」


 同時に、氷の目をしたザノスが動き出す。彼の手から放たれた極低温の冷気が、ヴィクトルたちの足元を凍らせて動きを封じようと迫る。さらに、ギデオンの変質した泥の触手が、生き物のように壁を這い上り、退路を物理的に塞ぎにかかった。


(……このままじゃ、追いつかれる!)


 ソフィアは、ヴィクトルにしがみつきながら観測鏡越しに迫り来る三つの死の波形を見て、絶望に唇を噛んだ。ヴィクトルの機動力は圧倒的だが、満身創痍の三人を抱え、さらに一人をぶら下げた状態では、流石に動きに制限がかかる。ましてや、理不尽な熱量と冷気、そして泥の拘束が同時に迫ってくるのだ。


「ヴィクトル! 右から冷気、左から泥が来るわ!」


「分かっている。……振り落とされるなよ」


 ヴィクトルは、迫り来る氷の波を、減速ゼロの壁走りで強引に回避する。だが、その背中を追うように、イザリアの放った致死量の熱波が、すべてを飲み込もうと迫り狂っていた。


「私の愛から、逃げられると思わないで」


 イザリアの肌の聖痕が、これまでにないほどの激しい光を放つ。彼女は、自らの命を燃やし尽くすほどの極大の炎を、広場全体に撃ち込もうと両腕を天に掲げた。


 絶体絶命。ヴィクトルの脚力をもってしても、この広範囲の熱波からは逃れられない。スラムの一部ごと、彼らは完全に灰にされる運命だった。


 だが、その時。


ゴォォォォォォォォォン……ッ!!


 空間そのものをへし折るような、重々しく、腹の底を震わせる「鐘の音」が、イザリアの肌に明滅する聖痕から直接響き渡った。それは、教会の塔から鳴らされる物理的な音ではない。通信用の術式が、送り主の圧倒的なエネルギー量に耐えきれず、空間のエーテルを強制的に共鳴させて物理的な「音」として周囲に漏れ出してしまったのだ。


「……!」


 イザリアの動きが、唐突に止まった。彼女の腕の中で燃え上がろうとしていた極大の炎が、まるで冷水を浴びせられたかのように、シュンと音を立てて萎んでいく。ザノスも、ギデオンも、そして狂気の祈りを紡ぎかけていたマキアでさえも、その音を聞いた瞬間、反射的にその場に膝をつき、深く頭を垂れた。


『――エクリプスよ。直ちに剣を収めよ』


 鐘の音の余韻と共に、威厳に満ちた、だが機械のように感情のない冷徹な「声」が、エーテルの震動を通じて響いてきた。


(……何!? この声は……!)


 瓦礫の陰に飛び込んだソフィアが、恐怖で肩を震わせる。通信が漏れ聞こえているのではない。この声の主にとって、足元で這いずるレジスタンスなど路傍の石に等しく、自らの計画を聞かれることすら一切歯牙にかけていないという、底知れない傲慢さの表れだった。


『――迷子どもの相手をしている暇はない。大規模召喚の聖儀(リチュアル)が、想定よりも早く臨界に達した。……至急、首都へ帰還せよ』


 それは、提案でも要請でもない。逆らうことなど一切許されない、絶対の命令だった。教会の頂点に君臨する、神の代行者。『聖帝』の直接の思念。


「……猊下。しかし、あの者は……」


 イザリアが、不満げに顔を上げ、カイのいる瓦礫の山を見つめた。彼女の目には、まだ狂気的な熱が燻っている。


『――帰還せよ。これは絶対の勅命(オラクル)である』


 空間からの声が、わずかに重みを増す。それだけで、イザリアの肌に刻まれた聖痕の光が、強制的に押さえ込まれるように明滅を止めた。


「……承知、いたしました」


 イザリアは、不満を飲み込むように深く息を吐き、静かに立ち上がった。彼女は、自らの焼け焦げた両腕を修道服の袖に隠し、瓦礫の陰で息を潜めるレジスタンスたちへ向けて、ゆっくりと歩み寄った。


「ヴィクトル、来るわ……!」


 ソフィアが怯えた声で警告するが、ヴィクトルは気絶した仲間たちを庇うように立ち塞がったまま、無言で彼女を睨み返した。


 だが、イザリアは攻撃を仕掛けてはこなかった。彼女は、ヴィクトルの肩に担がれたカイの、黒く焦げた右腕と、血に汚れた横顔を、熱を帯びた瞳で見つめた。


「……貴方の『拒絶』は、私の芯まで震わせる、最高の痛みだったわ」


 イザリアの唇から、甘く、そして狂気に満ちた囁きが漏れる。


「今日は、見逃してあげる。……だから、もっと強くなってね。そしてまた、私をめちゃくちゃに壊しに来てちょうだい。私の可愛い、迷子さん」


 彼女は、まるで恋人に別れを告げるように優しく微笑むと、踵を返した。ザノスが冷たい眼差しでソフィアを一瞥し、ギデオンが泥の肉体を人間の形に戻して後に続く。マキアもまた、重厚なヴェールを揺らしながら、静かにその後を追った。


 処刑部隊『エクリプス』の面々は、一切の足音を立てることなく、朝霧が立ち込めるスラムの広場から、幻のように姿を消していった。


「……去ったか」


 ヴィクトルが、義眼の赤い光を消し、警戒を解いた。広場には、熱波でドロドロに溶けた石畳と、静寂だけが残されている。絶対的な死の気配が遠ざかり、ソフィアはその場にへたり込んで、荒い息を吐いた。


「……助かったのね、私たち」


「運が良かっただけだ。あのまま戦いが続いていれば、確実に全滅していた」


 ヴィクトルは淡々と事実を告げると、気絶したカイを担ぎ直し、ジャンとヴァレリーの様子を確認した。二人とも、致命傷には至っていないが、自力で歩ける状態ではない。


「ソフィア。急いで地下へ戻るぞ。教会の気が変わらないうちにな」


「……ええ、分かっているわ」


 ソフィアは、泥だらけの白衣を払い、立ち上がった。彼女の視線は、ヴィクトルの肩に担がれたカイの、ボロボロになった体に向けられていた。


 現象の理屈さえ把握すれば、どんな聖譜も安全にほどける。そう信じていたカイの絶対の自信は、痛みを歓喜に変換するという理不尽な狂気の前に、完全に粉砕された。論理が狂信に敗北したという事実。それは、カイだけでなく、彼を導くはずだったソフィアの理論にとっても、重く苦しい挫折だった。


 だが、今は悲観している暇はない。聖帝のアナウンスにあった『大規模召喚の聖儀』という不穏な言葉。教会は、次の段階へ向けてすでに動き出している。


「……帰りましょう。私たちの、暗い地下へ」


 ソフィアは、重い足取りで歩き出した。灰色のフードの男が、満身創痍の仲間たちを抱えて、その後を静かに追う。血塗られた撤退。それは、彼らがこれから直面する、さらに過酷な戦いの序曲に過ぎなかった。

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