第72話 決死の盾
倒れ伏した少年の姿は、圧倒的な熱量の前にあまりにも小さかった。
右腕の義手が破壊され、頼みの綱であった「理屈」が完全に粉砕されたカイ。極限の苦痛から自我を守るため、彼が意識の糸を強制的に断ち切った瞬間、スラムの広場を支配していた拮抗は唐突に崩れ去った。これまでカイの「解体」がイザリアの熱波と衝突して発していた激しい火花も、空間をきしませるような破裂音も、すべてが消え失せた。後に残されたのは、ただ一方的にすべてを飲み込もうとする、致死量の熱の濁流だけだった。
「カイ……! 嘘でしょ、起きて、カイ!!」
少し離れた場所で、ソフィアの悲痛な叫び声が響いた。首元に下げた魔導具を通じて繋がっていたはずの感覚の共有が、音を立てて途絶えたのだ。彼女の『観測鏡』越しに見えていたカイの魂の光が、蝋燭の火が吹き消されるように急激に萎み、暗転していく。本部にいるシエロやエリスの呼びかけも、もはやカイには届かない。ソフィアは、祖父が遺した「外典」の理論が、理不尽な狂気の前に敗北した事実を突きつけられ、愕然と立ち尽くすことしかできなかった。
「ああ……。なんて愛おしい、無防備な姿かしら」
白く発光する空間の中心で、イザリアがうっとりと吐息を漏らした。彼女の漆黒の修道服は過剰な熱によってボロボロに焼け焦げ、露出した白い肌には、自らを内側から焼き裂こうとする『聖痕』が赤黒く明滅している。普通の人間ならばショック死してしまうほどの激痛。だが、彼女はその痛みを「神からの抱擁」として歓喜と共に受け入れ、さらに恐ろしいほどの熱を周囲に撒き散らしていた。
「貴方の冷たい殻は、もう完全に溶け落ちたのね。……さあ、難しい計算はもう終わりよ。私が直接、たっぷりの愛で満たしてあげる」
イザリアは、まるで愛しい我が子を抱き上げる母親のような、慈愛に満ちた足取りでカイへと近づいていく。彼女が一歩踏み出すたびに、足元の石畳がドロドロのガラス状に溶け出し、致死量の熱風が渦を巻いた。彼女の焼け焦げた手が、意識を失ったカイの頬へ伸ばされる。その手に触れられれば、カイの生身の肉体など一瞬で炭化し、灰となって消え去るだろう。
「……触らせるかよ、この狂人がァッ!!」
その直前。イザリアとカイの間に、巨大な金属の塊が猛烈な勢いで割り込んだ。全身を泥と血で汚した巨漢、ジャンだ。
「ジャン!?」
ヴァレリーの驚愕の声が上がる。ジャンはつい先ほどまで、イザリアの部下である巨漢・ギデオンの変質した泥の肉体に絡みつかれ、完全に身動きを封じられていたはずだった。見れば、ジャンの左腕やわき腹の肉が、無惨に抉れ、鮮血を滴らせている。ギデオンの泥は、ただの土ではない。ジャンの体温と体力を奪いながら、生き物のようにへばりついて拘束を強める泥だ。ジャンは、自らの皮膚や肉ごとその泥を強引に引きちぎり、文字通り身を削って抜け出してきたのだ。
「不浄なる大盾よ、私と共に隊長の薪となれと言ったはずだ!」
背後でギデオンが泥の塊を波立たせながら喚くが、ジャンは振り向かなかった。
「俺たちの『明日』を……こんな所で、燃やされてたまるかよッ!!」
ジャンは、自身の背丈ほどもある巨大な金属盾を、カイを庇うように地面へ激しく突き立てた。同時に、彼の全身の筋肉が異様に隆起し、盾の表面に波紋のような見えない防壁が展開される。自身に向けられたあらゆる打撃を反転させる、彼固有の能力『衝撃反射』の最大展開だ。
「あら。お友達が、代わりに痛みを受け入れてくれるの?」
イザリアは微笑んだまま、カイへ伸ばしていた手をジャンの方へ向けた。指先から、燃焼という過程すら省かれた、純粋な熱の津波が放たれる。
ズゴォォォォォォォォッ!!
赤い熱波が、ジャンの構える大盾に真っ向から激突した。本来ならば、どんな凄まじい突進も、砲弾のような質量も、ジャンの盾は鏡のように跳ね返してきた。だが、イザリアが放っているのは物理的な打撃ではない。空間そのものを焼き尽くす「温度」だ。反射の波紋は、熱波の物理的な圧力を辛うじて押し留めることしかできず、その熱量そのものを跳ね返すことはできなかった。
「ぐ、おォォォォォォッ!?」
ジャンの口から、苦悶の絶叫が迸った。盾の表面が、凄まじい高熱によってチェリーレッドに発光し、ドロドロと溶け始めたのだ。盾を支えるジャンの分厚い両腕にも、直接的な熱が伝わり、皮膚が焼け焦げ、肉が爆ぜる嫌な音が響く。
「退きなさい、可哀想な人。そんな分厚い鉄の板で心を閉ざしていても、神の愛は防げないわ」
「……誰が、退くかよ……ッ!」
ジャンは、溶けゆく盾の裏側で、歯を砕きんばかりに食いしばっていた。靴底が熱で溶け、足元の地面が滑る。前腕の感覚はとうに消え失せている。だが、ここで自分が膝を折れば、背後に倒れているカイは一瞬で灰になる。ジャンは思い知っていた。理屈も通じず、話し合いの余地もないこの狂気の世界。教会の決めた理不尽な決まり事に、誰もが押し潰されそうになっていた。その中で、ただ一人「間違っているものを直そう」と足掻き続けた異邦人の少年。彼がいなければ、自分たちレジスタンスは、とうの昔に暗い地下で絶望に呑まれて朽ち果てていたはずだ。
「こいつはな……! 俺たちが生きるための、希望なんだよッ!!」
「ジャン! もういい、離れて!! 死んじゃうわ!!」
ソフィアが泣き叫ぶ。だが、ジャンは盾から手を離さなかった。盾が半分以上溶け落ち、イザリアの熱波が直接ジャンの顔を焼き始めても、彼は決して膝を突かなかった。
(……このままじゃ、ジャンが溶かされる……!)
後方の瓦礫の上に陣取っていたヴァレリーは、血の気が引く思いでその凄惨な光景を見つめていた。彼女の手に握られた魔導ライフルは、すでに極限まで雷の力を溜め込んでいる。だが、撃てない。先ほどカイが気絶する前に見せた通り、中途半端な攻撃でダメージを与えても、あのイザリアという女はそれを「痛みの燃料」として吸収し、さらに火力を引き上げてしまうからだ。中途半端な雷撃では、逆にイザリアを喜ばせ、ジャンを死に追いやる結果になる。ならば、どうする。
(……吸収する暇も与えないくらいの、圧倒的な力で……あの狂った頭ごと、物理的に殴り飛ばすしかない!)
ヴァレリーは、ライフルの銃身を強く握りしめた。彼女の赤い髪が、全身から溢れ出す尋常ではない静電気によって逆立ち始める。彼女の能力は、空気中の絶縁性を破壊し、対象へ向けて雷の通り道を強制的に繋ぐことだ。だが、これまでは自分の肉体が焼き切れないよう、無意識のうちに出力を制限していた。強力な雷の適性を持つ彼女は、常に体に電気が溜まる体質だった。その過剰な電気を無害に逃がしてくれるカイを「最高の避雷針」だと頼りにしていた。その彼が倒れた今、自分が避雷針となって敵の攻撃を穿つしかない。今、その制限を完全に外す。
「……あんたがそんなに痛みが好きなら……!」
ヴァレリーの瞳が、血走った決意に染まる。
「あたしの痛みごと、全部持っていきなさいよォォォッ!!」
彼女は、魔導ライフルを介さず、自分自身の肉体そのものを「導線」として使った。血管を、神経を、骨を。すべてを極太の雷を流すための管として定義し、魂の底からありったけの力を引きずり出す。
バチバチバチバチッ!!
ヴァレリーの全身から噴き出した雷光が、周囲の瓦礫を吹き飛ばした。彼女自身の口から、限界を超えた神経の激痛による悲鳴が上がる。
「導電路……最大、出力ゥゥゥッ!!」
ズガァァァァァァァァンッ!!!!
空を裂くような落雷の轟音が、スラムの広場に響き渡った。ヴァレリーの放ったそれは、もはや雷撃というより、純粋な光の柱だった。光速で放たれた極太の紫電が、ジャンを焼き尽くそうとしていたイザリアの熱波の壁を強引に貫通し、彼女の華奢な胴体へと真っ向から直撃する。
「あ、ア、アアアァァァァッ!?」
イザリアの口から、先ほどまでの甘い吐息とは違う、甲高い叫び声が上がった。自らの魂を限界まで焼き切って放たれた、致死量の電流。それが彼女の全身を駆け巡り、脳から足先までの神経を強制的に麻痺させる。
「あああッ……! 貫かれる……! この、強烈な……ッ!!」
だが、それでも彼女は倒れなかった。全身を黒焦げにされ、紫電に体を痙攣させながらも、彼女はその破滅的な激痛すらも新たな喜びに変換しようと、恍惚に身をよじって耐え抜こうとしていた。しかし、限界を超えた電圧は、物理的に彼女の筋肉の動きを数秒間だけ完全に停止させた。イザリアの足元から無限に湧き出していた熱波の津波が、ブツリと途切れ、周囲の空気が急速に冷えていく。
「……これで、どうよ……」
ヴァレリーは、ライフルを杖のように突き立て、その場に膝から崩れ落ちた。彼女の両腕は重度の火傷を負ったように赤く腫れ上がり、指先は痙攣して動かない。口からは大量の血が溢れ出し、地面を赤く染めた。自らの神経を焼き切る覚悟で放った、文字通り命を削る一撃。
広場の中央では、ジャンが力尽きたように仰向けに倒れ伏していた。彼の左手には、ドロドロに溶け落ちて原型を留めていない、かつて大盾だった金属の塊が握られている。全身に重度の熱傷を負い、浅い呼吸を繰り返すのがやっとの状態だ。
前衛の崩壊。カイは気絶し、ジャンは倒れ、ヴァレリーもまた戦闘不能となった。
残されたのは、ただ呆然と立ち尽くすソフィアだけだった。
「……あ、ああ……」
雷撃の煙が晴れた向こう側。イザリアが、全身から白い煙を上げながら、ゆっくりと顔を上げた。彼女の肌の聖痕は、もはや皮膚を突き破らんばかりに隆起し、不気味な赤黒い光を放っている。雷撃のダメージすらも喰らい尽くし、彼女の瞳には、かつてないほどの狂気的な愛の光が宿っていた。
「なんて、素晴らしいの。……貴方たちの拒絶、本当に、最高だわ」
戦線は完全に崩壊した。仲間たちが血を流し、身を挺して稼いだ数秒間。だが、それでも圧倒的な狂気の化身を止めるには至らなかった。
凄惨な血の匂いと、燻るような熱の余韻の中で、絶望の足音が再び動き出そうとしていた。




