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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
狂信の牢獄

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第71話 魂蝕の激痛

限界を突破した致死量の熱の濁流が、無防備なカイの生身の体へと無慈悲に襲いかかる。


(……来る!)


 カイは、完全に破壊されて動かなくなった右腕を庇い、残された左手と、自身の「硬い魂」の殻だけで、その熱波を真正面から受け止めようとした。右腕の義手は、もはやただの重たい鉄屑だ。過熱を防ぐための排熱機構は死に、魂の波動を流し込むための聖銀のラインも焼き切れた。頼みの綱だった『矛』も『盾』も失った今、防がなければ一瞬で灰になる。カイは魂の「絶縁体」としての性質を極限まで引き上げ、迫り来る熱波との間に見えない防壁を展開した。


ズドォォォォォォォォッ!!


 激突。その瞬間、カイは自分が犯した致命的な計算違いを、身をもって悟ることになった。


「……ぐ、ぁ、あぁぁぁぁぁぁッ!?」


 声にならない絶叫が、カイの喉を引き裂いた。熱波を防ぐこと自体はできた。カイの魂は、この世界のいかなるエーテルも通さない。だが、それは「熱を逃がす」ことを意味しない。圧倒的な質量の熱波を、逃げ場のない「壁」で真正面から受け止めるということは、そこに途方もない圧力が生じるということだ。


 摩擦だ。カイの硬い魂と、イザリアの放つ異常な熱量が、境界線上で激しく衝突し、凄まじい摩擦熱を生み出している。これまで、カイは様々な敵と戦ってきた。氷の結界を破り、重装甲の騎士を自重で転倒させ、炎の軌道を逸らしてきた。だがそれらの聖譜には、すべて『一定の形』があった。原因があり、結果に向かって流れる整然とした物理法則が存在した。だからこそ、その法則の隙間に義手の排熱機構を噛み合わせ、安全に熱を逃がすことができていたのだ。


 しかし、目の前の女が放っているのは違う。法則も、形もない。ただ無作為に放出される、圧倒的な熱量の塊だ。行き場を失った莫大な摩擦熱は、カイの魂そのものを内側から焼き焦がし始めた。


(……痛い……! なんだ、これ……!)


 肉体が炎に焼かれる痛みとは、次元が違う。自分という存在の輪郭、思考の基盤、命の根幹が、荒いヤスリで直接削り取られていくような、根源的な激痛。レジスタンスの医療主任であるヘレナがかつて警告していた『魂蝕(こんしょく)』。その最悪の症状が、カイの全身を容赦なく苛む。脳が沸騰しそうだ。血管の中を煮えたぎった鉛が流れているような錯覚。カイのブーツが、熱でドロドロに溶けた地面を滑り、ズリズリと後退していく。防壁をほんの一秒維持しようとするだけで、脳の許容量をはるかに超える負荷がかかる。限界を超えた圧力に、カイの鼻や口から一筋の血が流れ落ちた。


 そこに、さらなる絶望が追い打ちをかけた。


『あぁ……素晴らしいわ……! もっと、もっと私を傷つけて……!』 『痛い……! 痛いから、生きている……!』


 脳内に直接、ねっとりとした甘い声が響き渡る。イザリアの背後に立つ、重厚な黒いヴェールを被った少女、マキア。彼女が紡ぐ『聖慈の譜(ルクス)』が、本来の癒やしの力を逆転させ、イザリアの感じている「激痛と恍惚」を、カイの精神へ強制的に流し込んでいるのだ。


『カイ……! 聞こえ……! 離れ……!』


 戦術連携の繋がりを通じて、ソフィアの悲鳴のような声がかすかに届く。だが、その声はすぐに、マキアが撒き散らす狂気の濁流の底へと沈んでいく。


(……やめろ、入ってくるな……!)


 カイは、他人の異常な感情の波に激しい吐き気を催した。ただの痛みの伝達ではない。肉体が焼ける激痛を「心地よい」と錯覚させようとする、おぞましい認識の書き換え。自分の皮膚が焼けているのか、それともイザリアの皮膚が焼けているのか。その境界線すら曖昧になるような、不快な感覚の共有。他者の痛みを快楽として受け入れるという、生物の生存本能に真っ向から反する感情が、カイの理性を内側から削り取っていく。カイの真っ当な神経が、その狂信の刷り込みを全力で拒絶し、さらに脳に致命的な負荷をかけていく。熱波の物理的な圧力、魂蝕の激痛、そして精神を侵食する他者の狂気。それらが複雑に絡み合い、カイの思考の限界を完全に突破しようとしていた。


「どうしたの? 貴方の冷たい殻、もう溶けかけているわよ」


 イザリアが、慈愛に満ちた声で囁きながら、さらに距離を詰めてくる。彼女が歩みを進めるたびに、熱波の出力が跳ね上がる。彼女自身も、過剰な熱によって漆黒の修道服が焼け焦げ、限界を超えた炎で自らを激しく傷つけているというのに、その顔に浮かぶのは至上の悦びだ。


「……ふざ、けるな……」


 カイは、血を吐きながらも、左手を前に突き出した。どんな現象にも、必ず原因がある。構造を読み解けば、必ずほどけるはずだ。カイは、激痛で薄れゆく意識の中で、必死に論理の糸を手繰り寄せようとした。


 これまでは、そうやって勝ってきた。どんな強大な聖譜も、物理法則の枠組みに当てはめ、矛盾を突いて解体してきた。現象の理屈さえ把握すれば、どんな聖譜も安全にほどける。絶対零度の氷の檻を突破し、義手の扱いを覚えたことで、カイの胸中には確固たる自信が芽生えていた。いや、今にして思えば、それは自分ならこの世界の間違いを簡単に直せるという、傲慢なまでの「驕り」だった。


 だから今回も、同じようにできるはずだ。俺の理屈が、この世界の狂気を凌駕できるはずだ。


 だが、カイの視界に映るイザリアの熱波には、もはや「結び目」など存在しなかった。


 効率よくエネルギーを変換するための構成式などない。ただ、己の命を燃やして生み出したデタラメな熱を、何の制御もせずに垂れ流しているだけだ。そこには、教科書に載っているような綺麗な数式は一切通用しない。酸素がないなら燃えなければいい。燃料がないなら止まればいい。それが物理の絶対のルールだ。だが、彼女は『自分自身が傷つくこと』を強引に燃料として定義し、その矛盾を祈りの力で無理やり成立させてしまっている。結び目がないなら、どこを解体すればいい? 原因と結果の物理的な手順が存在しないなら、どうやって現象を止めればいい? 安全な場所からピンセットで解体できると思っていた。だが相手は、自分自身を燃やしてでも全てを押し潰そうとする狂気の塊だ。


(……嘘だろ。なんで、こんなことが……)


 カイの脳内で、絶対の自信を持っていた「全能感」が、音を立てて粉々に砕け散っていくのを感じた。理屈が通じない。相手が「自分が傷つくこと」を強引にプラスの燃料として定義し、それを物理的な現実として成立させてしまっているなら、数式は破綻する。原因と結果の法則が、狂信という暴力に完全に押し潰されている。


 俺の知識は、万能じゃなかったのか。俺がこの世界の間違いを直せる、たった一人の修復者じゃなかったのか。


「可哀想な迷子さん」


 イザリアが、燃え盛る腕を広げた。


「貴方のその冷たい理屈は、貴方を守ってくれないのね。痛みを恐れて、安全な場所から世界を測ろうとするから、そんなにも脆いのよ」


ズォォォォォォッ!!


 イザリアから、最後の一撃とも言える、巨大な熱の津波が放たれた。それは防御や効率を度外視した、空間そのものを理不尽な熱量で押し潰す、完全な飽和攻撃。


「が、ぁぁぁぁぁぁッ!!」


 カイの防壁が、ついに限界を迎えた。絶縁体の魂を突き破り、致死量のエーテルの濁流が直接肉体を叩き据える。カイの体は枯れ葉のように吹き飛ばされ、焼け焦げた瓦礫の上に背中から叩きつけられた。息ができない。肺の中の空気が一瞬で蒸発し、咳き込むことすら許されない。視界が完全に、真っ白な閃光と激しい耳鳴りで塗り潰される。


『カイさん……!』 『カイ……! 応答して、カイ!!』


 遠くで、エリスやシエロの声がした気がした。ジャンやヴァレリーが、何かを叫んでこちらへ向かおうとしている気配があった。だが、その音はもはや、カイの脳に意味のある言葉として届かなかった。


 感覚の決壊。限界を超えたエーテルの濁流、魂を削る凄まじい摩擦熱、そして精神を侵食する他者の狂気。それら膨大な暴力が、一度にカイの脳という小さな器に流れ込み、精神の限界を呆気なく決壊させた。限界を超えた魂は、これ以上の苦痛と破壊から自我を守るため、自ら意識の糸を強制的に断ち切ろうとしていた。それは、魂という器そのものが完全に砕け散るのを防ぐための、生物としての最後の防衛本能だった。


「ああ、素晴らしい悲鳴……。やっと、貴方の殻にも神の温もりが届いたのね」


 イザリアの甘い囁きが、耳元で聞こえた。


「もう難しい計算は必要ないわ。……何も考えず、ただこの至上の痛みに身を委ねなさい」


(……ちくしょう……)


 自分の理屈が、完全に敗北したという事実。何も直せず、何も守れず、ただの知識に依存した子供として押し潰される絶望。スラムの日常を取り戻すどころか、この理不尽な熱の前に、自分自身が灰になろうとしている。それが、カイが意識を手放す直前に感じた、最後の感情だった。


 カイの視界が完全に闇に沈む。絶対の理屈を掲げた修復者の少年は、理不尽な狂信の炎の前に、ついに意識を手放して昏倒した。

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