第70話 排熱限界
スラムの淀んだ大気が、致死量の熱によって完全に白く染め上げられていた。視界が白く飛んでいるのは、物理的な閃光のせいだけではない。空間を満たす異常な熱量が大気の屈折率を狂わせ、すべての景色を陽炎の向こう側へと歪ませているのだ。呼吸をするたびに、気管の粘膜がチリチリと焼ける。肺の奥まで直接火かき棒を突っ込まれたような、鋭い激痛。額から流れる汗は、顎から落ちるよりも早くジュッと音を立てて蒸発し、体温を下げるという生物の基本的な機能が完全に奪われていた。
「……はぁ、……がっ……」
カイは、泥と灰にまみれた地面に両足で踏ん張り、どうにか立っていた。視界の先には、赤黒く明滅する『聖痕』を肌に浮かび上がらせたイザリアが、まるで春の野を歩くような穏やかな足取りで近づいてくる。彼女の足元では、スラムの石畳がドロドロに溶け、ガラス状に変質してマグマのようにうねっていた。
(……ソフィア。……聞こえないか、ソフィア!)
カイは脳内で必死に呼びかけた。だが、頼みの綱である『戦術連携』の回線からは、不快なノイズしか返ってこない。イザリアの背後に立つ、重厚な黒いヴェールを被った少女、マキア。彼女が紡ぐ逆転の『聖慈の譜』が、イザリアの狂気的な感情をウイルスのように空間へ撒き散らしているのだ。
『ああ……もっと、もっと私を傷つけて……!』 『痛い……素晴らしいわ……!』
通信機越しに聞こえるはずの仲間の声は、甘くねっとりとした他人の恍惚の喘ぎ声に完全に塗り潰されていた。連携は崩壊した。ソフィアの「眼」がなければ、敵の術式の脆い結合点をピンポイントで見抜くことはできない。シエロの予兆も、エリスの波形感知も、この狂った感情の濁流の前では機能していない。
「どうしたの? 貴方の冷たい殻、もう溶けかけているわよ」
イザリアが、慈愛に満ちた声で囁く。彼女の右手から、燃焼のプロセスすら無視した純粋な熱波が、赤い津波となってカイに襲いかかる。
「……舐めるなッ!」
カイは、鋼鉄と聖銀で構成された右腕の義手を突き出した。ソフィアのナビゲートがないなら、自分の目で見て、自分の感覚で解体するしかない。カイは義手の指先に魂の「拒絶」を込め、迫り来る熱波の壁に叩きつけた。
「事象解体ッ!!」
バチィィッ!!
青白い火花が散り、熱波の先端が霧散する。だが、それだけだ。カイが解体によって事象を強制停止させたことで生じた凄まじい摩擦熱が、術者であるイザリアへと逆流し、彼女の肉体を内側から焼く。普通なら、術式が崩壊して自滅するはずの致命的なダメージ。だが、狂信者はその「痛み」を歓喜の息継ぎと共に飲み込み、さらに巨大な熱量へと変換して吐き出してきた。
ゴォォォォォォッ!!
「ぐ、うおおおおッ!?」
押し返される。カイのブーツが、熱で溶けかけた地面をズリズリと削りながら後退する。防御も回避も意味をなさない。解体してダメージを与えれば与えるほど、それを新たな燃料として火力が跳ね上がる。物理法則の限界を無視した、終わりのない飽和攻撃。
「ジャン! ヴァレリー!」
カイは声を張り上げた。だが、仲間たちもまた、分断され身動きが取れずにいた。
「くそォォッ! 剥がれねえ!」
少し離れた場所では、ジャンが苦悶の声を上げている。彼の巨大な盾と剛腕には、泥のように変質した巨漢・ギデオンがへばりつき、完全にその動きを拘束していた。ギデオンはイザリアの熱波に焼かれながらも、狂ったように笑い声を上げている。
「熱い……! これぞ神の愛! 不浄なる大盾よ、私と共に隊長の薪となれ!」
「ふざけんな! てめえ一人で燃えてろ!」
ジャンが必死に振り払おうとするが、物理的打撃を液状化して受け流す泥の肉体を前に、彼の『衝撃反射』は機能しない。
「カイ! 近づけないわ!」
ヴァレリーが瓦礫の上から叫び、魔導ライフルから極太の雷撃を放つ。だが、その青白い光の矢は、イザリアの周囲を取り巻く圧倒的な熱の壁に阻まれ、対象に届く前に乱反射して空中に散らされてしまう。
孤立無援。カイは、一人でこの理不尽な熱量と向き合うしかなかった。
プシュゥゥゥゥ……ッ!!
カイの右腕から、悲鳴のような排気音が上がった。ヴォルグが作り上げた義手。その肘部分にある排気ダクトから、処理しきれない熱を知らせる真っ白な蒸気が、激しい勢いで噴き出している。
(……熱い。義手そのものが、異常に熱を持っている……!)
カイの魂は「絶縁体」だ。敵の聖譜を物理的に弾き返すことができる。だが、強引にエネルギーの流れを変えれば、その接点には凄まじい摩擦熱が発生する。本来ならその熱はカイ自身の肉体を焼き、魂を摩耗させる『魂蝕』を引き起こす。それを防ぎ、熱を物理的に外へ逃がすための冷却機構が、この義手だ。
『お前の魂を燃料にして動く。半端な覚悟じゃ、着けた瞬間に焼き切れるぞ』 『調子に乗ってフルパワーを出すなよ?』
工房でのヴォルグの警告が、脳裏をよぎる。
義手の内部に仕込まれた冷却触媒が、猛烈な速度で消費されているのが分かる。内部の精巧な歯車が、想定以上の高速回転で悲鳴を上げている。
「……くそっ、出力のバルブを絞らないと……!」
カイは焦った。的を絞り、最小限の力で結び目だけをほどく。それがソフィアから教わった「技術」だ。だが、相手が放ってくるのは精密な構成式ではない。ただの「暴力的な熱の塊」だ。バケツの水を針で突いて止められないように、この圧倒的な質量の波をピンポイントで解体することはできない。面で受け止めるしかない。だが、面で受け止めれば、それだけ摩擦熱は青天井で跳ね上がる。
「もっとよ。もっと貴方の拒絶を頂戴」
イザリアが、両腕を広げて距離を詰めてくる。彼女の周囲の空間が、限界を超えた熱量で白く発光している。彼女自身も、その熱で漆黒の修道服が焦げ、白い肌が炭化しかけている。だが、彼女はそれを至上の喜びとして受け入れていた。
「痛みがないと、自分が生きているかどうかも分からないの。……貴方もそうでしょ? 痛いから、生きているって実感できる」
「……一緒にすんな。俺は、痛いのは嫌いなんだよ!」
カイは義手で熱波を切り裂きながら、必死に抵抗を続ける。だが、イザリアの熱量は、二次曲線的に跳ね上がっていく。カイが解体するたびに、そのダメージがイザリアの燃料になる。
(……どうすればいい。物理法則が通じない相手に、どうやって勝つ?)
酸素を断っても、彼女は自身の命を燃やして熱を出す。摩擦をなくそうとしても、彼女は動かずに周囲を焼き尽くす。教科書に載っているような綺麗な数式は、痛みをプラスの燃料に変換するという狂気の前では、すべて破綻していた。
ピーーーーッ!!
突如、義手の内部から、聞いたこともないような甲高い警告音が鳴り響いた。冷却触媒の残量ゼロ。あるいは、内部温度の臨界点突破を知らせる悲鳴。
「……嘘だろ」
カイの顔から血の気が引く。
「愛してるわ、迷子さん」
イザリアが、熱で空気を歪ませながら、カイの目の前まで迫っていた。彼女は、赤黒く明滅する両腕を広げ、カイを――義手ごと、燃え盛る自分の中へ迎え入れようとした。
「私に任せなさい。その邪魔な腕を焼き切って、貴方の冷たい魂に、私が直接『愛』を刻み込んであげるから」
「させるかッ!!」
逃げ場はない。カイは、残った全ての精神力を右腕に注ぎ込んだ。出力を絞る余裕などない。義手が壊れるかもしれない。だが、ここで受け止めなければ、一瞬で灰にされる。カイの魂の出力が、義手の許容量を限界まで振り切る。
バギィィィィンッ!!
カイの義手と、イザリアの放つ致死量の熱波が、正面から激突した。凄まじい火花が散る。カイの義手の表面に刻まれた聖銀のラインが、過剰なエーテルの流入に耐えきれず、まるで血管が破裂するようにバチバチと弾け飛んだ。
「が、ああああああッ!!」
プシュゥゥゥゥ……ボォォォォッ!!
義手の排気ダクトから噴き出していた白い蒸気が、突如として黒い煙に変わり、そして――真っ赤な炎を噴き出した。排熱限界の突破。カイを支え続けてきたヴォルグの最高傑作が、理不尽な熱量の前に完全な敗北を喫した瞬間だった。
ガキンッ、バラバラバラッ……!
内部の精密な歯車が熱で溶け落ち、金属のパーツが焼け焦げて地面に落ちる。
「……あ、……」
カイの右腕が、力なく垂れ下がった。駆動音が消えた。聖銀の冷たい光が失われた。それはもはや、カイの魂の熱を逃がす冷却機構でも、敵の聖譜をほどく精密な工具でもない。ただの、無用の長物となった重たい鉄屑だった。
「……よく頑張ったわね。でも、もうその冷たい殻は壊れたわ」
イザリアが、炎の向こう側で優しく微笑んでいる。盾であり、矛であった義手を失った。戦術連携は崩壊し、仲間の支援は届かない。カイの絶対の「理屈」が、圧倒的な「狂気」の前に完全に押し潰された。
限界を突破した致死量の熱の濁流が、無防備なカイの生身の体へと、無慈悲に襲いかかろうとしていた。




