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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
漂流の産声

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第7話 非効率な祈り

 不純物の除去という、この世界で生き延びるための最低条件をクリアしたことで、解の思考にはわずかながら余白が生まれた。


 石の床に横たわり、天井のひび割れを数えるだけの時間は終わり、彼はふらつく足取りで、あばら屋の外……その境界へと足を踏み出すようになった。もちろん、あの銀色の鎧を纏った男たちがいつ戻ってくるか分からない恐怖はある。だが、それ以上に彼は知らなければならなかった。自分が今、どのような「理屈(ルール)」の中に放り込まれているのか。そして、自分が今後どう適応していくべきなのかを。


(ひどいな。ここは、本当に)


 あばら屋の外に広がる「(おり)の街」は、一言で言えばゴミ捨て場に建てられた墓場だった。歪な形をした瓦礫の山が迷路のように続き、その隙間に、かつての文明の残骸であろう錆びた金属板や、出所の分からない石材を継ぎ接ぎした家がへばりついている。空を見上げれば、あの不気味な光の亀裂が絶えず紫色の粒子を振りまき、地上ではその粒子が霧となって、住人たちの肺を、そして希望をじわじわと侵食している。


 そこかしこから、不快な周波数の音が漏れ聞こえてくる。それは単に風が瓦礫の隙間を抜ける音ではない。この地に満ちる紫色の霧――あの致死性のエネルギーが、何らかの理由で「渦」を巻き、空間を不自然に震わせている音だ。解の硬い魂には、それがチューニングの合っていないラジオのノイズのように、あるいは剥き出しの神経を直接爪で掻くような、絶え間ないストレスとして突き刺さる。


 解は、あばら屋の前の段差に腰を下ろし、住人たちの生活を観察した。


 そこには、老人がいた。解を救ったあの老人が、数人の住人たちに囲まれて、一つの作業を行っていた。彼らの中央には、黒ずんだ重厚な鉄の釜が置かれている。中には先ほど解がろ過したのと同じ、よどんだ泥水が満たされていた。


 老人が、厳かに背筋を伸ばし、両手を釜にかざした。そして、長く、装飾的な歌を紡ぎ始める。


「――――、――――。――――……」


 その旋律が響くと、周囲の空気のエネルギー密度が急速に高まった。解の視界には、空間を漂う紫色の粒子が、老人の歌に合わせて不自然なほど複雑な紋様を描きながら、釜の中へと吸い込まれていくのが見えた。


 周囲の住人たちは、その光景をうっとりと見つめている。彼らにとって、それは神聖な儀式であり、生活に不可欠な奇跡なのだろう。だが、解は、その光景を理科の授業を思い出しながら、冷徹な目で見つめた。老人の目的は明白だ。あの不衛生な水を加熱し、煮沸すること。だが、そのプロセスは、物理を学んできた解の目にはあまりにも無駄だらけに見えた。


(待て。ただ水を沸騰させるために、なぜあんなに複雑な手順が必要なんだ?)


 解の脳内で、無意識に授業で習った熱力学の計算が走る。水1リットルを沸騰させるために必要な熱量なんて、たかが知れている。それに対し、老人が歌によって浪費しているエネルギーの総量は、明らかにその数千倍、数万倍に達している。老人は、空気を震わせ、光を放ち、空間の湿度を不必要に変動させ、さらには周囲の重力さえ微弱に揺らしながら、その余り物のような熱でようやく水を温めているのだ。


(エネルギー効率が悪すぎる。残りの99%は、あの無駄な光と歌、そして空間を飾るためだけの無意味な模様に消えている。……バカげてる。あんなのは加熱じゃない。現象へのご機嫌取りだ)


 老人の額からは、滝のような汗が流れていた。ただの湯沸かしという作業に、彼は自らの命を削るような、致命的な消耗を強いられている。周囲の住人たちは、それを聖なる祈りとして敬虔な目で見守っているが、解にとっては、見ていられないほど痛々しい設計ミスにしか見えなかった。


「……ッ、……!!」


 老人の歌が終わり、釜からようやく、細い湯気が上がった。住人たちが歓声を上げ、老人に感謝の言葉を投げかける。老人は青ざめた顔で満足そうに微笑み、力なく崩れ落ちそうになる体を、少女アイアが慌てて支えた。


 解は、胸の奥にざらついた、不快な苛立ちが広がるのを感じた。あれが、この世界の「正解」なのだ。あのように非効率で、無駄が多く、使い手を無意味に摩耗させるやり方こそが、教会の教えに従った正しい生き方。


 もし、自分が立ち上がり、あの釜に手をかざせばどうなるか。複雑な歌も、光の装飾もいらない。ただ、水の粒子を直接、狙い撃ちで揺さぶり……分子振動を誘発させて、一瞬で熱に変えればいい。解の剥離の感覚を応用すれば、それは老人の百分の一の力で、千倍速く終わるだろう。


 だが、解は動かなかった。動けなかった。


(言えるわけがない。あんたたちのやり方は間違っている、なんて。それは、この世界の『神様』を否定することと同じなんだろ。正論をぶつけることが、救いになるとは限らない)


 言葉を少しずつ覚え始めたことで、解には理解できていた。この地の人々にとって、魔法……彼らの呼ぶところの歌は、単なる道具ではない。それは世界そのものであり、道徳であり、唯一の救いなのだ。無駄が多いからこそ、それは尊い「祈り」になる。苦しみを伴うからこそ、それは「信心」の証明になる。


 解が行っている事象の剥離は、彼らにとっては、過程を省略して結果だけを盗む、呪わしい「略奪」に他ならない。


 ふと、広場の隅で、一人の住人が震える声で何かを唱えているのが見えた。それは火を灯すためのものでさえなかった。「冷たさを消し、穏やかな眠りを」 そんなささやかな願いのために、男はなけなしの体力を削り、紫の光を空中に描き出す。だが、その光の九割九分は、暖かさを生むこともなく、不吉な熱として空間に霧散していった。


「……、……?」


 アイアが、遠巻きに座り、険しい顔で自分たちを見つめている解に気づき、不思議そうに首を傾げた。彼女の目には、解が何を考え、何に憤っているのかなど、微塵も想像できないだろう。解が感じているのは、単なる同情ではない。それは設計図の寸法が合っていない機械を無理やり動かしているのを見せつけられているような、吐き気を伴うような不安だ。


 解は、静かに視線を足元に落とした。足元の瓦礫の下から、再び、あの嫌な「胎動」が聞こえた。


 ズズ……、ズズズ……。


 先ほど老人が、そして住人たちが無駄に放出した膨大なエネルギー。エネルギー保存の法則。質量保存の法則。それらは消えてなくなったわけではない。祈りという名の不完全な燃焼から生じた、膨大なエネルギーの燃えカスだ。行き場を失ったそのエネルギーが、紫色の霧となり、重力に従ってスラムの地面の底へと沈殿していく。


 そして、住人たちの飢えや絶望、そして誰かを憎む心といった、よどんだ感情の波形と混ざり合う。


(……あ。なるほど。そういうことか。理解したぞ、この世界の仕組みを)


 解の直感が、ひとつの残酷な法則を導き出した。この世界で魔法が使われれば使われるほど……つまり、人々が熱心に祈りを捧げれば捧げるほど、その非効率な仕組みから排出された「ゴミ」が、この街を汚染していくのだ。


 このスラムを蝕む「(おり)」の正体。それは、教会の定めた非効率な理そのものが生み出した、構造的な公害なのだ。祈れば祈るほど、世界は壊れていく。この美しい歌という名の旋律が、裏側で化け物を育てているのだ。


(だとすれば、もうすぐだ。限界を超えるぞ)


 地下から響く振動が、次第に明確な重さを伴い始めている。それはもはや、単なるエネルギーの残骸ではない。実体を持ち、激しい飢えを持ち、誰かを食い殺して自らの欠陥を埋めようとする、「実体化したエラー」だ。


 解は、自分の指先を見つめた。微かに震えている。それは恐怖ではなく、極限状態での高揚だった。


 この指で、世界を救いたいなどとは思わない。ましてや、この街の住人すべてを幸福にしたいなどという大それた望みもない。ただ、このあまりにバカげた欠陥システムの犠牲になって、ここで死ぬのは、俺のプライドが許さない。


 彼はゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りであばら屋の中へと戻った。背後では、老人が煮えた泥水を震える手で分配している。その少なすぎる恵みに、人々が涙を流して感謝している。その光景すべてを、解は網膜に焼き付け、心の底から冷たく切り捨てた。


アウ、ア()」「デ・ア(解体)


 彼は以前、少女が呟いたあの言葉を握りしめ、来るべき怪物の出現を、氷のような視線で待ち構えた。


 瓦礫の山の奥深くに、何対もの「飢えた瞳」が灯ったような気がした。不快なノイズが、歌声を飲み込もうとしている。


 久澄 解の理不尽な世界への反撃が、今、始まろうとしていた。


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