第69話 限界突破の熱量
スラムの広場は、もはや現実の景色としての輪郭を失いかけていた。
イザリアの体から無差別に放たれる赤黒い熱波は、空間の酸素と結合して燃焼するという当たり前のプロセスすら無視し、純粋なエネルギーの暴力となって周囲を白く発光させている。
(……くそっ、見えない……!)
カイは、肌を刺す熱風に顔をしかめながら、右腕の義手を構え直した。汗が目に入る端からジュッと音を立てて蒸発していく。呼吸をするだけで、気管が内側から焼け焦げそうだった。防御も回避も意味をなさない。解体してダメージを与えれば、それを新たな燃料として火力が跳ね上がる。物理法則の限界を無視した、終わりのない飽和攻撃。
それでも、カイにはまだ綱渡りの手段が残されていた。『戦術連携』。地下本部にいるシエロとエリスの感覚が、ソフィアの『共振盤』を経由してカイの脳内に直接届く。敵の術式が完成する前に、最も脆い結び目を空間座標として映し出し、そこをピンポイントで引き抜いて自滅の連鎖を最小限に抑える。それが、絶対零度の氷をも打ち破った、彼らの完璧な連携だった。
だが今、カイの脳内に流れ込んでくる情報は、ひどく濁っていた。
『カイ……! 右から……波が、来るわ!』
ソフィアの声が、遠い。分厚い水底から響いてくるようにくぐもっている。
(右……!)
カイは指示に従い、迫り来る熱波の壁に向かって義手を突き出した。極限まで細く絞り込んだ魂の「針」で、熱の結び目を解きにいく。
「事象解体ッ!」
だが。バチッ、という空振りのような手応え。カイの指先が捉えたのは、熱波の核ではなく、すでに通り過ぎたあとの余波に過ぎなかった。
「なっ……!?」
ゴォォォォォッ!!
解体し損ねた熱波の塊が、カイの体を真正面から直撃した。
「ぐ、ああああッ!?」
熱い。痛い。防御のために全開にした「絶縁体」の魂の表面を、赤黒い炎が容赦なく削り取っていく。吹き飛ばされそうになる体を、カイは義手を地面に突き立てて強引に堪えた。
「カイ!」
背後からソフィアの悲鳴が聞こえる。
「……悪い、外した! もう一回だ、座標を!」
カイは口の中に溜まった血の味を吐き捨て、前を睨みつけた。
『……違うわ! 貴方は外していない! 私の指示が……私に見えている景色が、実際の現象よりも遅れているのよ!』
ソフィアの声が、かつてないほどの焦燥に震えていた。遅れている。その言葉に、カイの背筋が粟立った。コンマ数秒のズレもないはずの戦術連携。それが今、致命的な遅れを生み出している。ソフィアの眼が見た「今」は、カイにとってはすでに「過去」になっているのだ。
「……通信障害か!? なんでこんな時に!」
『……分からない! だけど、本部にいるシエロたちの感覚が……ひどく乱れてる。エーテルの乱気流のせいだけじゃない。何か、おぞましいノイズが混ざり込んでいるの!』
その瞬間だった。カイの脳内に、ドクン、と。他人の心臓の鼓動のようなものが、直接響いた。
(……あ、あぁ……。熱い……! 痛い……! もっと、もっと私を傷つけて……!)
「……ッ!?」
カイは思わず頭を抱えた。声じゃない。それは、生々しい「感情」の濁流だった。皮膚が焼け爛れる激痛と、それを上回るほどの甘くねっとりとした恍惚感。自分のものではない、狂気じみた快楽が、戦術連携の繋がりを伝って、カイの脳内に直接流れ込んできたのだ。
「が、はっ……! なんだ、これ……気持ち悪い……ッ!」
胃液が逆流しそうになる。激しい吐き気を催し、カイはその場にうずくまった。
『カイさん……! だめ、です……! 耳を、塞いでも……頭の中に、直接……!』
本部にいるシエロの悲鳴が、切れ切れに届く。
『波形が、おかしいです……。これは攻撃じゃない。誰かの……『喜び』の感情が、私たちの感覚を、無理やり塗り潰そうとして……!』
エリスの震える声も、その狂気に飲まれそうになっていた。カイは、脂汗にまみれた顔を上げ、熱波の向こう側に立つエクリプスの面々を睨みつけた。イザリアは、自身の体が過負荷の熱に焼かれるのにも構わず、うっとりと目を閉じている。そして、彼女の背後。泥の巨漢ギデオンと、氷のように冷たい目をしたザノスのさらに後ろに、もう一人の人影があった。重厚な黒いヴェールで顔の半分を覆い隠した、小柄な少女だ。
彼女は、ダボダボの修道服に隠れた小さな両手を胸の前で組み合わせ、まるで神に祈るような姿勢で立っていた。ヴェールの奥で、彼女の口元がかすかに動いている。
「……聖慈よ……。お姉様の愛を、迷子たちにも……」
目隠しの少女の唇から紡がれるのは、教会において最も神聖視される『聖慈』の聖譜だった。だが、その使われ方は本来の教義とは完全に真逆だった。痛みを和らげ、心を落ち着かせるための祈りを、彼女は「イザリアが感じている激痛と狂おしい恍惚を、他者の精神に強制的に共有させる」ための毒として空間に撒き散らしていたのだ。
『……見えたわ! ルカの報告にあった、ヴェールの少女……マキアよ!』
ソフィアが、観測鏡越しにその異常な波形を捉え、叫んだ。
『『聖慈の譜』の歪み! イザリアの異常な感情を、エーテルの波に乗せて私たちの精神に直接リンクさせているのよ!』
「……精神干渉、だと……!」
カイの口から、乾いた言葉が漏れる。ただの熱量や物理的な破壊なら、俺の「絶縁体」で弾き返せる。だが、こいつは違う。戦術連携という、俺たち自身が繋いだ「感覚の共有回線」に、異物として入り込んで、内側から俺たちの思考を汚染しているんだ。だから、シエロの耳も、エリスの感知も、ソフィアの眼も、狂気のノイズに邪魔されて正確な情報を送れなくなっている。
「……くそッ、これじゃ使い物にならねえ!」
カイは頭を振り、無理やり他人の感情を締め出そうとした。だが、戦術連携を切れば、相手の圧倒的な飽和攻撃を前に、的を絞る術を完全に失うことになる。
「カイ! 危ないッ!」
少し離れた場所で、泥の巨漢ギデオンに拘束されかけているジャンが叫んだ。見れば、イザリアがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。彼女の足取りは、まるで舞踏会でパートナーに近づくように優雅だった。だが、その周囲を渦巻く熱量は、一歩進むごとにスラムの地面をドロドロのガラス状に溶かしている。
「どうしたの、可哀想な迷子さん」
イザリアが、慈愛に満ちた声で囁いた。彼女の透き通るような肌に刻まれた幾何学的な『聖痕』が、極限の熱量を抱え込んで赤黒く明滅している。
「そんなに怯えて。……ああ、痛みを避けて、安全な場所から理屈をこねようとするから、苦しいのよ」
彼女は、過負荷で熱を帯びた自らの腕を愛おしそうに撫でた。
「貴方たち、そんな細い糸で繋がり合っているのね。でも、そんな見えない波長を共有したところで、本当の温もりは伝わらないわ。……なんて冷たくて、寂しい繋がりなのかしら」
「……黙れ。てめえらのイカれた趣味に、付き合う気はねえ」
カイは、痙攣する足に力を込め、どうにか立ち上がった。義手を構え、迫り来るイザリアの胸元――熱量の中心を睨みつける。ソフィアからの正確なナビゲートはない。だが、やるしかない。相手が近づいてきている今なら、目視だけでもあの熱の結び目を引き抜けるかもしれない。
「事象解体ッ!!」
カイは、地面を蹴って飛び込んだ。イザリアの胸元、異常な熱を生み出しているエーテルの歪みへと、鋼鉄の指先を突き立てる。
だが。
「……あら」
イザリアは、避ける素振りすら見せなかった。それどころか、彼女は両腕を広げ、カイの義手を――そしてカイの体ごと、燃え盛る自分の中へ迎え入れようとしたのだ。
ズブッ。
カイの義手が、イザリアの周囲を覆う圧倒的な熱の層に突き刺さる。結び目を掴んだ。解体できる。そう確信した瞬間だった。
「――あぁんッ……!」
イザリアが、甘い、吐息のような声を漏らした。解体による事象の強制停止。それが引き起こす凄まじい反動の摩擦熱が、イザリアの肉体を内側から焼いたのだ。だが、イザリアの狂信は、そのダメージすらも完璧に燃料として飲み込んでしまう。
「素晴らしいわ……! 貴方のその、冷たい拒絶が……私を内側から切り裂く痛みが……! もっと、私に神様の愛を感じさせてくれる!」
「……なっ!?」
イザリアの肌の聖痕が、限界を超えて白く発光した。カイが解体して与えたダメージを、彼女は歓喜と共に増幅させ、さらに巨大な熱量へと変換してしまったのだ。
ドォォォォォォッ!!
至近距離で、理不尽な熱の爆発が起きた。
「が、あああああッ!?」
カイの体が、凄まじい熱波に弾き飛ばされた。空中でバランスを崩し、焼け焦げた瓦礫の上に背中から叩きつけられる。息ができない。肺の中の水分が一瞬で蒸発し、咳き込むことすらできない。
「カイ!!」
ソフィアが駆け寄ろうとするが、熱波の余韻が壁となり、近づくことができない。
「……はぁ、……はぁ……」
カイは、泥と灰にまみれながら、どうにか体を起こそうとした。
(……くそっ、これじゃ手も足も出ない……!)
カイの頭の中で、冷徹な思考が完全に袋小路に陥っていた。解体すれば燃料にされ、解体しなければこの理不尽な熱量で押し潰される。おまけに『目』と『耳』までマキアのノイズで塞がれた。頼みの綱であった「戦術連携」が機能しない今、どうやって反撃の糸口を見つければいいというのか。
「愛が足りない、可哀想な子」
イザリアが、熱で空気を歪ませながら、ゆっくりとカイを見下ろした。
「私に任せなさい。その邪魔な糸を焼き切って、貴方の冷たい魂に、私が直接『愛』を刻み込んであげるから」
逃げ場はない。戦術連携は崩壊し、仲間の支援は届かない。カイの絶対の「理屈」が、圧倒的な「狂気」の前に完全に押し潰されようとしていた。限界を突破した致死量の熱が、スラムの空を白く染め上げていく。




