第66話 美しき狂信者
静かに微笑む、理不尽な狂信の化身たち。聖帝直属の処刑部隊『エクリプス』が広場に足を踏み入れた瞬間、スラムの淀んだ大気が異常な熱を帯びて軋んだ。
先ほどまでカイを悪魔と罵り、狂ったように祈りを捧げていた住人たちが、一斉に声を出さなくなった。恐怖による沈黙ではない。圧倒的な「神聖さ」を前にして、呼吸をすることすら忘れてしまったかのような、硬直した畏敬の念だ。
『……カイ、聞こえる!? 奴ら、ただ立っているだけであり得ない熱量を垂れ流しているわ!』
カイの脳内に、ソフィアの戦慄を含んだ声が『戦術連携』を通じて響く。カイは瓦礫の陰に身を隠したまま、目前の光景に釘付けになっていた。
先頭に立つのは、漆黒の修道服を纏う銀髪の女性。透き通るような白い肌と、慈愛に満ちた穏やかな微笑み。まるで教会の宗教画から抜け出してきた聖女のような美しさだ。だが、彼女の姿には決定的な「異様さ」があった。
修道服の深いスリットから覗く彼女の首筋や腕。遠目には痛々しい火傷の跡のように見えたそれは、カイの眼には、まったく別のものとして映っていた。
(……いや、違う。あれは過去の傷跡じゃない)
『彼女のエーテル循環、完全に破綻しているわ! 許容量を超えたエネルギーを無理やり肉体に通し続けてる!』
ソフィアの声が、カイの観察を裏付けるように脳内で響く。
『皮膚の下で構成式が渋滞を起こして、熱と光が漏れ出している……自らの肉体を内側から焼き裂こうとしている構造的欠陥よ! 教会の狂信者は、それを神の愛の証、『聖痕』と呼んで崇拝しているらしいけど……!』
(自分を焼く傷跡が、神の愛……?)
カイは息を呑んだ。そんな自壊寸前の歪みを抱えながら、彼女は平然と、いや、むしろその痛みに恍惚としながら立っているのだ。
「お、おお……! 神の御使い様……!」 「どうか、どうかお許しください!」
沈黙を破り、広場にへたり込んでいた住人たちが、弾かれたように銀髪の女性の足元へと這い寄っていった。彼らは涙と鼻水を垂らしながら、石畳に額を擦り付ける。その中には、先ほどカイが「解体」の力で属性の縛りをほどき、苦痛から解放してやった若者の姿もあった。若者は、自分本来の適性である『蒼天』の微弱な波長を手のひらから漏らしながら、絶望的な顔で女性の靴にすがりついた。
「わ、私は……悪魔に祈りを奪われてしまったのです! 命を削る痛みが……光の源へ還るための神への奉仕が、できなくなってしまった……! 私はもう、救われないのでしょうか!?」
若者の悲痛な懺悔を聞き、瓦礫の陰にいるカイは奥歯を噛み締めた。おかしいだろ。俺はあんたを助けたんだ。命を削る無駄な聖譜の強制から解放して、息をできるようにしてやったんだぞ。それなのに、なぜ「痛みが消えたこと」を泣いて謝っているんだ。
女性は、すがりつく若者を汚いものを見るように振り払うことはしなかった。彼女はゆっくりと膝をつき、まるで我が子を慈しむ聖母のように、両手で若者の汚れきった頬を優しく包み込んだ。
「可哀想に。本当に、可哀想な迷子羊」
彼女の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。それは演技ではない、心底からの哀れみと同情の涙に見えた。
「悪い悪魔に騙されて、一番大切な『痛み』を忘れてしまったのね。……自らをすり減らす痛みこそが、私たちが神に貢献しているという、愛の証明だというのに」
「あ、あぁ……っ」
「痛みのない生活なんて、空っぽで意味がないわ。でも、安心して。……さあ、もう一度祈りなさい。痛みを恐れず、貴方のすべてを神に捧げるのよ」
女性が優しく微笑み、若者の胸に手を当てる。その言葉に背中を押されるように、若者は涙を流しながら、無理やり、彼自身の『蒼天』の適性とはまったく合わない、教会の強制規格である『熾熱』の聖譜を全力で歌い始めた。
「お、おおお……! 熾熱よ、我が身を、捧げ……!」
瞬間。若者の体内で、許容量を超えたエネルギーが激しく衝突し、暴走を起こした。サイズの合わない歯車を無理やり高速回転させた結果だ。彼の内側から、爆発的な炎が吹き出した。
「あ、ぎィィィィィッ!!」
若者が、鼓膜を劈くような絶叫を上げた。頭髪が燃え上がり、皮膚が内側から焼け焦げていく。自らの聖譜の暴走による、残酷な自壊。だが、恐ろしいのはここからだった。
「あ、熱い……! 痛い……! あああぁぁぁぁ……! 神よ、おお、私の祈りが……再び世界を……ッ!!」
若者は、自らが引き起こした炎に焼かれながら、もがき苦しむどころか歓喜に顔を歪めていたのだ。自らの肉体が炭化していく激痛を、彼は「失われた信仰を取り戻し、再び神の役に立てている喜び」として受け入れ、恍惚とした表情のまま歌い続けている。
「そう、それでいいの。たくさん痛がって、たくさん熱を感じて。それが貴方が生きている証よ」
女性は、燃え上がる若者の頬を両手で包み込んだまま、離そうとしなかった。彼女の腕に刻まれた赤黒いひび割れが激しく明滅し、彼女自身の白い肌も炎に焼かれ、ジューッという音を立てて焦げていく。だが彼女は、自らの手が焼けることにも全く構わず、うっとりとした表情でその「他者の痛み」を分かち合うように堪能していた。
やがて若者の歌声が途絶え、その体がただの黒い炭の塊となって石畳に崩れ落ちる。
「……嘘、だろ」
カイの口から、乾いた声が漏れた。理解の範疇を超えている。自らを焼き殺す激痛を「奉仕」として嬉々として受け入れて死んでいった若者の狂気が。そして、自分の手が焼けることすら「愛の共有」として喜びにしている、あの女の異常性が。
「隊長。あまり力を同調させすぎないでください。神経まで焼け焦げれば、後の掃除が煩わしくなります」
女性の背後に控えていた痩身の男が、抑揚のない、周囲の温度をさらに下げるような凍りつく声で忠告した。だが、隊長と呼ばれた銀髪の女性は、自らの焼け焦げた手のひらを愛おしそうに頬に当て、うっとりと目を閉じた。
「いいじゃない、ザノス。この火傷の痛み……たまらないわ。私の体が削れるたびに、神様の温もりが流れ込んでくるのが分かるもの」
「おお、隊長! 素晴らしい炎だ!」
泥のように蠢く巨漢が、狂ったように両腕を振り上げた。
「私ごと、あの迷子たちに愛をお与えください! 貴女の炎の薪となることこそが、私の至上の喜び!」
「ふふっ。待って、ギデオン。……さあ、他の迷子たちにも、順番に愛を思い出させてあげましょうね」
女性が再び慈愛の笑みを浮かべ、他の住人たちへ赤熱する手を伸ばそうとした時だった。
「――ふざけるなッ!!」
カイは、堪えきれずに瓦礫の陰から飛び出していた。鋼鉄の右腕を構え、住人たちと狂信者たちの間に割って入る。
「……あら?」
女性は、突然現れたボロボロの少年を見て、不思議そうに小首を傾げた。彼女の背後にいた痩身の男が氷のような視線を向け、巨漢が泥を滴らせながら一歩を踏み出す。最後尾にいた目隠しの少女が不気味に首を傾げた瞬間、カイの魂が不快なノイズを弾こうとわずかに火花を散らした。
「おい、離れろ! あいつらに近づくな!」
カイは、女性の足元で震えている住人たちに向かって叫んだ。だが、住人たちは逃げるどころか、カイを激しい憎悪の目で睨みつけた。
「悪魔め! お前が私たちの祈りを邪魔したから、こんなことになったんだ!」 「神の御使い様、どうかあの悪魔に裁きを!」
住人たちは石や泥をカイに投げつけながら、なおも女性の足元にすがりつこうとする。カイの肩に石が当たり、鈍い痛みが走る。
(……なんでだ。なんで、あんな異常な死に方を見たのに逃げないんだよ!)
カイの胸の中で、怒りと混乱が渦を巻く。彼らは搾取され、無駄な聖譜を強要されて命をすり減らしていた。俺はそれを物理的な理屈で「直して」やったんだ。正常な形に戻してやったのに、なぜ彼らは、あの狂った自壊システムの方を「正解」だと信じているんだ。
「……ふふっ。ああ、貴方がそうなのね」
女性が、投げつけられた泥で汚れたカイの顔を見つめ、恍惚とした吐息を漏らした。彼女は、カイの右腕――鋼鉄と聖銀の義手に目を留め、そしてカイの「魂の波長」をその肌で感じ取った。
「彼らから神の愛を奪い、正しい痛みを忘れさせた、可哀想な迷子。……報告にあった特異点。貴方の魂からは、本当に何の温もりも感じないわ。なんて冷たくて、寂しい音なのかしら」
「黙れ。あんたのやってることは、ただの殺人教唆だ。救いでも何でもない!」
カイは右腕を突き出し、女性を真っ直ぐに睨みつけた。俺の力は、この世界の理不尽な欠陥を直すためのものだ。あんな狂った現象を、これ以上見過ごすわけにはいかない。
「カイ! 一人で突っ走るな!」
背後から、大盾を構えたジャンが駆けつけてカイの隣に並んだ。さらに、魔導ライフルを構えたヴァレリーが瓦礫の上に陣取り、ソフィアも観測鏡を装着してカイの背後に回り込んだ。
「相手はエクリプスよ。一瞬でも気を抜けば灰にされるわ!」
ソフィアの鋭い声が飛ぶ。カイたちの姿を見たエクリプスの面々も、静かに殺意を膨らませていく。
「邪魔者が増えましたね、隊長。私が全員、泥に沈めて拘束しましょう」
巨漢のギデオンが喉を鳴らし、肉体をドロドロに崩していく。
「その上で、私ごと愛の炎で焼き尽くしてください!」
だが、女性は優しく手を上げて彼を制した。
「待って、ギデオン。……この子は、私が直々に抱きしめてあげるわ。こんなにも冷たくて、痛みを恐れている臆病な魂……。私がたっぷりと、火傷するほどの愛を注いで温めてあげなくちゃ」
女性が一歩、前に出た。ただ一歩踏み出しただけだというのに、広場の空気が一気に沸騰したように感じられた。息をするだけで肺が焼け焦げそうになる、暴力的な熱量。
『カイ、気をつけて! 彼女の波形、異常よ! 理屈が全く通っていないわ! 構造が破綻したまま動いている!』
ソフィアからの通信が、戦術連携を通じてカイの脳内に焦燥感と共に流れ込んでくる。
(……構造が破綻してる? そんなわけがない)
カイは、熱風に煽られながらも、冷静さを保とうと歯を食いしばった。どんなに強い聖譜だろうと、現象としてこの世界に現れている以上、必ずエネルギーの結合点がある。酸素が必要だったり、熱の供給源があったりする。俺の「解体」で、その一番脆い結び目をほどいてやれば、どんな聖譜だって安全に止まるはずだ。
「……どんな狂気だろうと、俺の理屈でへし折ってやる」
カイは鋼鉄の義手をギリリと握り込み、極限まで出力を絞り込んだ魂の「針」を形成した。
狂信という見えない牢獄に囚われた人々。そして、その牢獄の鍵を握る美しき狂信者。カイの絶対の「理屈」と、理不尽な「狂気」が、今まさに真っ向から激突しようとしていた。




