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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
狂信の牢獄

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第65話 束縛からの解放

 瓦礫の陰から広場へと身を乗り出したカイの袖を、慌てて追ってきたソフィアが強く掴んだ。


「ちょっと、カイ!」


 彼女の黒い瞳が、咎めるようにカイを睨みつける。


「貴方、また一人で抱え込んで突っ走る気? ここは敵地よ。見つかれば終わりなのよ」


「一人じゃないさ。……あんたの眼が、ついてるだろ」


 カイが振り返り、真っ直ぐに見つめ返すと、ソフィアは言葉に詰まった。


 カイの目にあるのは、かつてスラムで一人怯えていた頃の孤独な光ではない。隣にいる彼女の計算とナビゲートを完全に信頼しきっている、相棒としての目だった。


 ソフィアは小さくため息をつき、掴んでいた袖からそっと手を離した。そして、白衣のポケットから『観測鏡(スペクトル・スコープ)』を取り出し、片目にカチャリと装着する。


「……本当に、世話の焼ける撃鉄ね」


 彼女の口元に、呆れながらもわずかな笑みが浮かぶ。


「私が座標を合わせるわ。……貴方は、迷いなく撃ち抜きなさい」


「ああ。頼りにしてるぜ、先生」


 カイは不敵に笑い、広場の縁へと音もなく滑り込んだ。


 広場には、紫色の濃霧がねっとりと滞留している。そこは、この世界の構造的な歪みを煮詰めたような地獄だった。街のインフラを動かすためだけに設置された巨大な鉄の炉からは、肌を焦がすような暴力的な熱波が放たれ、そのすぐ横を流れる石造りの水路からは、鼻を突くような汚水の冷気が立ち上っている。


 そして何より異様なのは、その過酷な環境の中で絶え間なく響き続ける「恍惚とした祈りの声」だ。痛みを神への奉仕だと信じ込まされ、自ら進んで炎の燃料となっている男。適性のない魔法を強制され、魂をすり減らしながらも、それが天国への切符だと微笑む若者。彼らは完全に「狂信」という名の麻酔に浸かり、この地獄の中に救いを見出している。


 目標は、広場の端で汚水の浄化を強制させられている数人の若者たちだ。彼らの周囲には、白銀の装甲を纏った監視の騎士が一人立っている。カイは瓦礫の陰から小石を拾い、騎士の背後にある鉄骨へ向けて手首のスナップだけで正確に投げた。


カァンッ。


 乾いた音が響き、騎士が「何だ?」と振り返った。そのコンマ数秒の隙。カイは地面を蹴り、無防備になった騎士の背後へと肉薄した。


(ソフィア!)


(……対象の右膝裏、エネルギーの合流点!)


 『戦術連携(タクティカル・リンク)』を通じて、ソフィアの観測情報がカイの脳内に直接投影される。言葉を介さない、完全な同期。カイの視界に、騎士の鎧を覆う強化魔法のラインが立体的に浮かび上がる。カイは、鋼鉄の右腕を騎士の膝裏のわずかな隙間――鎖帷子が露出している部位へ突き出し、魂の『拒絶』を極限まで絞り込んで流し込んだ。


事象解体(デコンストラクション)


バチィッ!


 青白いスパークが弾け、騎士の鎧を覆っていた身体強化の伝導路がショートする。自重を支えきれなくなった数百キロの鉄塊は、声も上げずにその場に崩れ落ち、気絶した。ズシンという重い音がしたが、広場の喧騒と祈りの声にかき消される。


 突然監視が倒れたことに、浄化作業を強いられていた若者たちが驚いて顔を上げる。彼らの目は虚ろで、頬はこけ、息をするのも苦しそうだった。


「な、何だお前は……!?」


 若者の一人が怯えて後ずさる。彼らは教会の規格である『水』の型を強制され、無理やり泥水を浄化し続けていた。彼らの魂の本来の波長は、水とは真逆の『風』や『火』だ。合わない歯車を無理やり回させられ、魂が摩耗しきっている。


「安心しろ。……今、その重い首輪を外してやる」


 カイは、怯える若者の胸元――魂と外界を繋ぐエーテルの結び目へと、そっと右手をかざした。


(ソフィア。こいつらを縛ってる『定義』の鎖はどこだ)


(……見えたわ。胸の中心から少しずれた位置。強制的に上書きされた『浄玻璃(グラキエス)』の構成式が、彼自身の本来の波長と反発して熱を持っているわ。……凄く脆い。優しく引き抜いて)


 カイは、極限まで出力を絞り込んだ魂の針を、その脆い結び目へと差し込んだ。壊すのではない。複雑に絡まった糸を、一本だけそっと引き抜く。


チリッ……。


 かすかな静電気の音と共に、若者を縛り付けていた強制的な『水』の魔法がフツリと解けた。若者の周囲から、不自然な冷気がスッと消え去る。


「……あ、……ぁ?」


 若者が、呆然と自分の両手を見つめる。これまで彼を苛んでいた、魂が内側から削られるような激痛と倦怠感。それが、嘘のようにスーッと消えていく。


「……痛みが……消えた……?」


「そうだ。もう無理に歌わなくていい。深呼吸しろ。自分の『本来の形』で」


 カイの言葉に促され、若者は恐る恐る深呼吸をした。そして、無意識に、彼本来の適性である『蒼天(アエリス)』の微弱な波長を鳴らした。彼の指先から、涼やかな一陣の風が生まれ、広場の淀んだ空気を優しく吹き飛ばす。血を吐くような苦痛はない。自然で、心地よい、彼自身の本当の呼吸。


 当然、若者は涙を流して感謝するはずだった。だが、


「……あ、あ、ああ……ッ!!」


 自分の指先から生まれた「風」を見た瞬間、若者の顔に浮かんだのは、安堵ではなく、この世の終わりを見たかのような底知れない絶望だった。


「光が……! 神の恵みが、消えた……!!」


 若者は自分の震える両手を見つめ、悲鳴のような声を上げた。


「俺の水が……痛みが、ない……!!」


「おい、どうしたんだ。痛みが消えたんだぞ。あんたの体は限界だったんだ」


 カイが戸惑いながら声をかけると、若者はカイを――まるで恐ろしい悪魔でも見るような目で睨みつけた。


「……悪魔……! お前が、俺の祈りを奪ったのか!」


 若者は、カイの胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。その目には、狂気的な熱が宿っている。


「なぜ止めた! 俺のこの痛みが、この苦しみが、神への尊い奉仕なのに!」


「……は?」


「痛みに耐えることこそが、神の御許へいたるための唯一の道だというのに……お前は、俺の救いを邪魔したんだ!」


 若者の悲鳴を聞きつけ、広場の隅で作業をさせられていた家族たちや、周囲の住人たちが駆け寄ってきた。彼らもまた、若者から「強制された属性」が消え去り、安らかな風が吹いているのを見て、カイを激しく非難し始めた。


「なんてことを! これではこの子は救われない!」


「神罰が下るぞ! 悪魔め、出て行け!」


 彼らは泣き叫び、カイに石や泥を投げつけながら、再び若者を水路の前に引き戻し、必死に、先ほどよりもさらに痛々しい声で詠唱を再開させようとした。


「……ッ!」


 カイは、飛んできた泥を顔に受けたまま、雷に打たれたように立ち尽くした。理解できない。理屈に合わない。この若者は、搾取され、命を削られ、殺されかけていたのだ。俺は、その間違った縛りを物理的に正した。痛みの原因を取り除いた。それなのに、なぜこの人々は、自分から進んでその「痛み」にしがみつこうとするのか。


(……これが、狂信の麻酔……)


 ソフィアが言っていた通りだった。本人が「これでいい」と信じ込み、その苦痛の中に幸福と救いを見出している。外部の人間がそれを「間違っている」と指摘し、壊す行為は、麻酔を取り上げ、絶望の現実に引き戻すだけの「部外者の傲慢」だったのだ。俺の理屈は、彼らの心までは救えない。


『……カイ、応答して! 空間の波形が異常よ!』


 カイの全能感が音を立てて崩れ去っていく中、通信機越しにソフィアの震える声が響いた。


「……広場の奥から、あり得ないほどの熱量が近づいてくるわ。……それに、嫌な波長がいくつも混ざってる。さっきの監視騎士とは桁が違う……!」


 カイが顔を上げた瞬間。空間の温度が、急激に跳ね上がった。呼吸をするだけで肺が焼けるような、暴力的なプレッシャー。スラムの淀んだ空気を切り裂くように、一つの影と、それに付き従う異様な気配の者たちが広場へと足を踏み入れてきた。


「あら。迷子羊たちが、神のいたみを忘れてサボっているわね」


 先頭に立っていたのは、漆黒の修道服を纏った、透き通るように美しい銀髪の女性だった。彼女の唇には慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいるが、修道服のスリットから覗くその白い肌には、エーテルの過剰出力によって焼け焦げた、痛々しい無数の聖痕が刻まれていた。


 そして、彼女の背後には、まるでその狂気を引き立てるように三つの影が控えている。氷のように冷たい目を持ち、歩くたびに周囲の音と感覚を凍らせていく痩身の男。全身に無数の傷跡を刻み、泥のようにどす黒い気配を放つ巨漢。そして、重厚な黒いヴェールで顔を覆い隠したまま、不気味に首を傾げてこちらを見定める小柄な少女。


 聖帝直属の処刑部隊『エクリプス』。カイの絶対の理屈を根底から打ち砕く、理不尽な狂信の化身たちが、静かに微笑んでいた。

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