第64話 狂信の麻酔
錆びついた鉄格子を、ジャンが太い腕で音もなく押し上げた。乾燥した冷たい空気が、地下の湿った通路へと流れ込んでくる。一行は息を潜めながら、一人ずつ古びた石の階段を上り、地上へと這い出した。
そこは、崩れかけたレンガ造りの建物が密集する、入り組んだ路地裏だった。カイは瓦礫の陰に身を隠し、油断なく周囲を見回した。そして、思わず息を呑んだ。
「……ひどいな。ここは」
ルタム。第7管区に属し、通称『澱の街』と呼ばれるその場所は、カイがかつて転移してきた西の最果てのスラムとは、明らかに異質な空気を放っていた。街の規模ははるかに大きい。すり鉢状の地形の底にへばりつくようにして、黒ずんだ屋根がどこまでも続いている。だが、街を覆う紫色の霧は、呼吸を阻害するほどに濃く、ねっとりとした異臭を放っていた。カイの視界には、その霧の中に過剰な排熱が滞留し、空間そのものが重い泥の海に沈んでいるかのように見えた。
「気をつけなさい。ここから先は、教会の直轄地と同じよ」
ソフィアが、白衣の上から羽織った防護ケープのフードを目深に被りながら低く告げた。
カイは頷き、路地の隙間から、街の中心部――すり鉢の底にあたる広大な広場を見下ろした。そこで行われている異様な光景を目にした瞬間、カイの右腕の義手が、わずかに軋むような駆動音を立てた。
「……なによ、あれは」
ヴァレリーが、嫌悪感を露わにして顔をしかめる。
広場には、巨大な鉄の炉や、汚水が流れ込む石造りの水路といった、街の生活基盤を支える大型の設備が並んでいた。だが、それを稼働させているのは動力機関ではない。何十人もの住人たちが、粗末な服を着たまま、その設備の前に膝をつかされ、絶え間なく聖譜を使わされていたのだ。
「……熾熱よ……、炎を……」 「……浄玻璃よ……、清らかに……」
不規則で、苦しげな詠唱の羅列。ある者は巨大な鉄の炉に向かって、顔を真っ赤にしながら火を送り続けている。ある者はドブ川のような汚水に向かって、震える手で水を浄化し続けている。彼らの頬はこけ、言葉を紡ぐたびに苦痛に顔を歪めていた。体内の生命力を無理やり絞り出しているためか、時折、激しく咳き込んで血を吐き、その場に倒れ込む者さえいる。
そして、その過酷な労働を無表情に監視しているのは、白銀の装甲を纏った教会の騎士たちだ。倒れた者がいれば、容赦なく鞭を打ち、再び詠唱を強要している。
「街の設備を、人間の聖譜で動かしてるのか……?」
カイが震える声で問うと、隣で観測鏡を覗き込んでいたソフィアが、怒りに唇を噛み締めながら答えた。
「ええ。教会は、孤児や貧しい人間を洗礼という名目で集め、自分たちの都市を維持するための『生きた薪』として使っているの。このルタムは、そうやって各地から人間を掻き集めた結果、中規模の都市にまで膨れ上がったのよ」
「いくらなんでも、消耗が激しすぎる。あれじゃ、自分の命を削って火を燃やしているようなものだぞ」
カイの視点が、彼らの行っている聖譜の異常性を捉えていた。以前、スラムでガレオスが行っていた聖譜も非効率だったが、今の彼らのものはそれ以上に不自然だ。熱の発生に無駄が多く、周囲の空間に不要な摩擦ばかりを生み出している。
「『属性の強制』よ」
ソフィアが、冷たい声で言った。
「教会の連中は、彼らの魂の『適性』を完全に無視しているの」
「適性を、無視?」
「ええ。例えば、あの泥水を浄化している若者を見て」
ソフィアが指差した先には、青ざめた顔で水路に手をかざしている痩せた青年がいた。
「私の眼には、あの彼が発している魂の波長は、本来なら『風』や『火』に向いているように見えるわ。でも彼は今、教会の設備を維持するために、無理やり『水』の型を押し付けられて、詠唱させられているのよ」
カイは息を呑んだ。適性のない聖譜を強制される。それは、形の合わない歯車を、無理やり別の場所にねじ込んで力任せに回しているようなものだ。当然、凄まじい摩擦が生じ、熱を持ち、部品そのもの――彼らの肉体と魂を内側から破壊していく。だから、あんなにも苦しそうに血を吐いているのだ。
「あれが、教会の標準規格に人間を縛り付ける『首輪』だわ。個人の性質なんて関係ない。教会の決めた通りに祈らなければ、生きていくことすら許されないのよ」
ソフィアの言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥で、冷たい怒りが渦を巻いた。聖譜という名の奇跡の裏側にある、あまりにも残酷な支配の構造。これだけ多くの人々が、規格外の歯車として無理やりすり減らされ、この街に「澱」を撒き散らしている。
「……待て。様子がおかしいぞ」
広場を注視していたジャンが、怪訝な声を上げた。カイも再び視線を戻し、そして、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
過酷な労働を強いられている住人たち。血を吐き、鞭で打たれ、命をすり減らしている彼らの「表情」が、異常だったのだ。
「……あ、あぁ……。神よ……」 「私の、痛みを……。この苦しみを、世界のために……」
彼らの顔に浮かんでいたのは、絶望や苦痛だけではなかった。血まみれの口元はうっすらと微笑みの形を作り、その瞳は、何か崇高なものを見つめるように、恍惚とした光を帯びていたのだ。鞭で打たれれば打たれるほど、彼らは狂ったような熱を帯びた声で祈りを深め、さらに多くの生命力を炎へと変えていく。そこに「逃げ出したい」という意思はない。自ら進んで、その苦痛の中に身を投じているようにすら見えた。
「……なんだ、あれは。痛くないのか? 殺されかけてるんだぞ」
カイが信じられないというように呟くと、ソフィアが悲しげに目を伏せた。
「彼らは、ただ無理やり働かされているわけじゃないの。教会は、彼らに『痛みこそが信仰の証』であり、『苦しむことで世界は浄化され、自分たちも救われる』という教義を、骨の髄まで植え付けているわ」
「……そんなの、ただの洗脳じゃないか」
「ええ、洗脳よ。でも、適性のない聖譜を強制され、物理的な搾取でボロボロになった彼らにとって、その『狂信』こそが、精神を崩壊させないための唯一の麻酔なのよ」
ソフィアの言葉が、冷たい泥水のようにカイの心に染み込んでいく。
苦しみを肯定し、痛みを神への奉仕だと思い込むこと。それが、彼らがこの地獄のような街で生き延びるために見つけた、唯一の精神的な逃げ道なのだ。
「……反吐が出るわね。信者の心を弄んで、喜んで薪になるように仕向けてるなんて」
ヴァレリーが忌々しげに地面を蹴った。
カイは、広場で祈りを捧げ続ける人々をじっと見つめた。本人が「これでいい」と信じ込み、その苦痛の中に幸福と救いを見出しているのなら。外部の人間がそれを「間違っている」と指摘し、壊す行為は、果たして正しいことなのだろうか。麻酔を取り上げ、絶望の現実に引き戻すだけの、ただの「部外者の傲慢」ではないのか。
一瞬、そんな迷いがカイの胸をよぎった。だが、カイは自身の右腕――冷たい鋼鉄の義手を、ギリリと強く握りしめた。
(……いや。間違っているものは、間違っている)
どんなに美しい祈りで飾り立てようと、彼らが命を削り、この街を汚染しているという「物理的な事実」は変わらない。物理法則という枠組みから見れば、彼らがおこなわされていることは完全に破綻しているのだ。なら、俺の『解体』で、あの間違った繋がりを断ち切ってやればいい。詠唱という名の強制的な結び目をほどいて正しい形に戻せば、彼らも必ず、この狂った麻酔から目を覚ますはずだ。
「……どんな聖譜だろうと、理屈さえ分かれば安全に直せる」
カイの口から、静かな、しかし確固たる自信に満ちた言葉が漏れた。それは、絶対零度の氷さえも理屈で打ち破った、彼自身の技術への信頼。だがその響きには、人間の感情や信仰という「数式では測れないもの」を軽視しているような、危うい驕りが混じっていた。
「おいカイ、何をする気だ。任務は偵察だぞ」
ジャンの制止の声が聞こえた。
「分かってる。でも、この歪みを見過ごして帰るわけにはいかない」
カイはジャンの手を振り払い、瓦礫の陰から身を乗り出した。狂信という名の決して見えない牢獄。それがどれほど深く人々の心を縛り付けているのか、この時の彼は、まだ本当の意味で理解してはいなかった。




