第62話 修復者の確信
廃棄された古代のインフラが続く地下迷宮を、五つの影が足早に進んでいく。先頭を歩くジャンの背中には、激戦の痕跡を示すように深い傷の入った大盾が揺れている。その後ろでは、ヴァレリーが警戒を怠らずにライフルの銃口を前後へ向け、中央ではソフィアが観測鏡で周囲のエーテル残滓をスキャンし続けていた。
その後方で、カイは凍傷で足を引きずるシュバルツの肩を貸しながら歩いていた。
「……悪いな、お坊ちゃん。まさか『運び屋』の俺が、荷物みたいに運ばれるハメになるとはな」
「気にするな。あんたの影の中にいる本物の『荷物』が無事なら、俺たちの命も繋がるんだからな」
シュバルツが自嘲気味に笑うと、カイも薄く笑い返した。数十分前まで、彼らは絶対零度の極寒と、それが反転した超高温の水蒸気爆発という極限環境の中にいた。だが、今のカイの呼吸は驚くほど穏やかだった。スラムで戦っていた頃なら、一度でも『事象解体』を使えば、魂が削れる激痛で数日間は寝込んでいたはずだ。しかし今は、右腕の義手がわずかに熱を帯びているだけで、全身を苛むようなあの「魂蝕」の倦怠感は全くない。
(……息が上がっていない。足も普通に動く)
カイは、自分の体の変化――いや、力の使い方の変化を、歩みを進めるごとに実感していた。現象を真正面から力ずくで叩き壊すのではなく、仲間の眼を借りて、最も脆い結び目だけをピンポイントで引き抜く。それは、得体の知れない暴走から、理論を伴った「技術」へと、カイの力が明確に昇華された証明だった。
やがて、迷宮の奥に分厚い鋼鉄の隔壁が見えてきた。レジスタンスの拠点、『ハビタ・ゼロ』の入り口だ。ジャンが決められた手順で壁のパネルを叩くと、プシューッという重い排気音と共に、隔壁がゆっくりと持ち上がった。
「おかえりなさい! 皆さん!」
隔壁の向こう側で待っていたのは、通信兵のシエロと、盲目の少女エリスだった。二人の顔には、張り詰めていた緊張が解けた安堵の色が浮かんでいる。
「おう、無事に帰ったぜ! 荷物もご無事だ!」
ジャンが豪快に笑い、シュバルツを医務室の方向へ引き渡す。エリスは小走りで近づいてくると、カイの目の前でふわりと立ち止まった。包帯で覆われた彼女の顔が、不思議そうに少しだけ傾く。
「……カイさん。お怪我は……ないのですか?」
「ああ。かすり傷一つないよ。……どうした?」
カイが尋ねると、エリスは安心したように、しかしどこか驚いたように微笑んだ。
「貴方の『音』が……とても静かだったからです。以前、戦いから帰ってきた時のカイさんの魂は、まるで嵐の海のように荒れ狂って、熱く焼け焦げるような音を立てていました。でも今は……とても穏やかで、澄んだ音がします」
「……」
エリスの『共感覚』は嘘をつかない。彼女の言葉は、カイが自分自身で感じていた手応えを、客観的に裏付けてくれた。
「へっ、当たり前だ。誰が作った腕だと思ってやがる」
奥の通路から、油にまみれた前掛け姿のヴォルグがぬっと顔を出した。岩のような巨躯を揺らし、彼はカイの右腕――彼自身が鍛え上げた鋼鉄の義手を、値踏みするように睨みつけた。
「おい、カイ。ちょっとこっちへ来い。中身を見せろ」
「休む間もなしかよ、親父さん」
カイは苦笑しながら、ヴォルグの工房へと歩を進めた。ソフィアも、データが記録された石板を抱えて後ろに続く。
熱気と騒音に満ちた工房の片隅。作業台の上に右腕を乗せたカイは、ヴォルグが義手の装甲パネルを取り外していくのを静かに見守っていた。カチャリ、とねじが外され、内部の精巧な歯車と、血管のように張り巡らされた『聖銀』の伝導路が露わになる。
「……ほう」
拡大鏡を下ろしたヴォルグの口から、感嘆の息が漏れた。
「驚いたぜ。あれだけの規模の環境魔法に干渉したってのに、聖銀の道筋に『焼け焦げ』が一つもねえ。冷却触媒も、規定量の二割しか消費してないぞ」
「あら、私の計算と完璧なナビゲートがあったんだから、当然の結果よ」
隣でソフィアがふふんと胸を張るが、ヴォルグは首を振った。
「お嬢ちゃんの計算が完璧でも、こいつが力んで出力を間違えりゃ、一発で焼き切れてたはずだ。……カイ、お前、完全に『バルブの絞り方』を自分のものにしやがったな?」
ヴォルグが感心したようにカイの顔を見上げる。カイは、むき出しになった義手の内部を見つめながら、静かに頷いた。
「ああ。ソフィアが教えてくれた座標に、ただピンポイントで『針』を刺すだけだ。余計な力は一ミリもいらない。……ようやく分かったよ。力でねじ伏せるんじゃなくて、理論でほどくっていう、一ノ瀬さんの言葉の意味が」
「……カイ」
ソフィアが、少しだけ目を見張った。
「前は、自分の命を削ってでも、目の前の理不尽をぶっ壊してやるって、それだけだった。でも今は違う」
カイは、左手で義手の冷たい金属の表面を撫でた。
「敵の聖譜も、環境の変化も、ただの物理的なパズルだ。冷静に観察して、構造を理解すれば、俺の力で安全に解体できる。……俺の力は、ただの暴走じゃない。世界の理不尽な歪みを直すための、制御可能な『技術』なんだ」
カイの言葉には、スラムで震えていた少年の面影はなかった。自分は異物である。だが、異物だからこそ、この世界の歪んだ現象を外側から安全にほどくことができる。彼の中で、修復者としての確かな自覚が、揺るぎないものへと変わっていた。
「……ふん。一人前の口を叩くようになったじゃねえか。だが、その自信が慢心に変わった時が命取りだぞ」
ヴォルグが照れ隠しのように鼻を鳴らし、素早い手つきで義手の装甲パネルを元通りに組み直していく。
「これで義手の調整は完了だ。……あとは、本番を待つだけだな」
その言葉に、工房の空気がわずかに引き締まった。
数時間後。作戦会議室には、再び中核メンバーが集められていた。円卓の中心には、奪還した物資のリストと、今後の防衛ラインを示す立体地図が浮かび上がっている。
「シュバルツが運んできた冷却触媒と食料の搬入、無事に完了した。これで、向こう数ヶ月は完全に地下に籠城できる」
指揮官のゲルハルトが、銀縁眼鏡を押し上げながら報告した。
「実働部隊の三人も、見事な働きだった。正規軍の別働隊を無傷で制圧したことは、我々の『戦術連携』が実戦レベルで機能することの証明だ」
「へっ、氷漬けにされた時はどうなるかと思ったがな」
「カイがサウナにしてくれなかったら、今頃あたしたち、教会の見せしめにされてたわね」
ジャンとヴァレリーが軽口を叩き合う。だが、その声にもどこか、底知れない緊張感が混じっていた。彼らは知っているのだ。今日倒したのは、あくまで物理的な封鎖を目的とした「ただの騎士団」に過ぎないということを。
「……喜んでばかりもいられないわ」
ソフィアが、腕を組んで冷水を浴びせるように言った。
「正規軍の一個小隊が、何の前触れもなく消息を絶ったのよ。教会の連絡網がそれを察知しないはずがない。……私たちがルートを奪還したことで、皮肉にも、この『ハビタ・ゼロ』の正確な位置を敵に教える結果になったわ」
彼女の言葉に、会議室が静まり返る。
「敵の探りは終わった。次に来るのは、間違いなく本命よ」
聖帝直属の処刑部隊『エクリプス』。彼らは、通常の騎士団のような派手な制圧や、包囲による兵糧攻めなどという悠長な手段は取らない。標的を確実に殺すためだけに最適化された、冷徹な暗殺者と戦闘狂の集団。スラムを焼いた指揮官クレドでさえ、彼らからすれば「表の顔」に過ぎないのだ。
「……来るなら来い」
重い沈黙を破ったのは、カイだった。彼は円卓に両手をつき、ゲルハルトとソフィアを真っ直ぐに見据えた。
「逃げる場所なんて、最初からどこにもない。俺たちがこの地下で干上がらないためにルートを奪い返したのも、ここで迎え撃つためだろ」
「カイ……」
「相手がどれだけ洗練された処刑部隊だろうと、この世界の『聖譜』という決まり事に依存している以上、必ず物理法則の枠内に収まる。……なら、解体できる」
カイの黒い瞳には、絶対的な自信が宿っていた。それは無根拠な蛮勇ではない。一ノ瀬賢治が遺した知識を読み解き、ソフィアの眼を信じ、自分の出力を完璧にコントロールできるようになった、確かな誇りだ。
「俺の『撃鉄』は、もうブレない。……あんたがピントを合わせてくれる限りな、ソフィア」
カイが隣に立つ少女へ視線を向けると、ソフィアは一瞬だけ目を丸くし、それから、挑戦的な笑みを浮かべた。
「当然よ。私の『レンズ』から逃れられる現象なんて、この世界には存在しないわ」
彼女は白衣のポケットから手を出した。そして、迷うことなく、小さな拳をカイの方へ突き出した。カイもまた、自然な動作で鋼鉄の右拳を持ち上げる。
コツン。
冷たい金属と、温かい体温。言葉のない、静かな誓い。それは、異世界の迷子と、教義に反逆する少女が、互いの弱さを補い合い、一つの完璧な「機構」として完成した瞬間だった。
「総員、迎撃態勢を維持。……これより、我々は『エクリプス』を迎え撃つ」
ゲルハルトの静かな、しかし力強い号令が、作戦会議室に響き渡った。ジャンが拳を鳴らし、ヴァレリーがライフルの安全装置を確かめる。シエロがヘッドフォンを耳に当て直し、通信機へと向かった。
誰も恐れてはいない。狂った神の理が支配するこの世界で、彼らだけが、確かな「論理」という武器を手に入れていた。
地下要塞のさらに深く、暗闇の向こう側から、死神の足音が確実に迫っている。だが、彼の眼差しは、来るべき嵐の只中にある「致命的な結び目」を、静かに、そして冷徹に見据えていた。
第4章:外典の継承 「完結」




