第6話 不純物の濾過
目覚めてから数日が経過した。老人の「排熱処理」とも呼ぶべき緩和処置のおかげで、焼き切れそうだった神経回路はどうにか安定を取り戻し、身動きが取れる程度には回復していた。だが、意識が鮮明になるにつれて、今度は別の問題が鎌首をもたげ始めていた。
(……限界だ。胃が、自分の壁を消化し始めてる)
強烈な飢餓感。日本にいた頃、テスト勉強中に感じた小腹の空きや、部活帰りの空腹とは次元が違う。細胞の一つ一つがエネルギーの枯渇を訴え、生物としての活動停止を警告するアラートが鳴り響いている状態だ。
傍らには、あの少女――彼女が自らを指して「アイ……ア」に近い音で呼ぶことから、解は便宜上、彼女を「アイア」と認識していた――が差し出した、濁った水と、正体不明の灰色の固形物が置かれている。アイアは、解がそれを口に運ぶのを期待と心配が混ざった目で見守っている。彼女たちにとっては、それが唯一の「滋養」であり、命を繋ぐための貴重な「恵み」なのだ。
だが、解には分かっていた。その水や食料には、大気中と同じく、魂を焼き切る高密度の不純物――この世界の空気を重苦しく支配しているあの光が、飽和状態に近いほど溶け込んでいる。この世界の人々が、祈りや歌によって奇跡を起こすための燃料。だが、日本という穏やかな世界の物理法則で組み上がっている解の肉体と魂にとって、それは栄養素どころか、回路に無理やり数万ボルトの電流を叩き込むような、致死性のノイズでしかない。
以前、渇きに負けて無防備に一口飲んだだけで、解の魂はショートを起こし、数日間の昏睡へと叩き落とされた。今の衰弱した体で同じことを繰り返せば、今度こそ心臓が止まる。
(飲むことは自殺だ。だが、飲まなければ餓死する。クソ、詰んでるな)
解は震える手で器を持ち上げた。水面には、壁の隙間から差し込む紫色の光が反射し、不気味な油膜のような輝きを放っている。この輝きこそが、本来の水には存在しない異物――致死性のエネルギーの象徴だ。
解は、日本の高校で学んだ化学の知識を総動員して、目の前の毒を分析した。これは、重金属や細菌といった物理的な毒ではない。もっと根本的な、物質としての「純度」の問題だ。水分子の隙間に、高エネルギーの粒子が無理やりねじ込まれ、混合物となっている。
(なら、取り除けばいい。化学実験と同じだ)
あの騎士の火を消した時は、死の恐怖に任せて、燃焼の条件である酸素を力ずくで遮断した。その結果、火は消えたが、解の魂もまた莫大な反動を受けてボロボロになった。大ハンマーでガラスを割るようなやり方は、今の衰弱した体には耐えられない。もっと精密な、ピンセットで砂利を取り除くような作業が必要だ。
(破壊するんじゃない。選別して、弾き出すんだ。この器の中に満ちている『余計な成分』だけを)
解は、器の中に視線を集中させた。これまで眩しい雑音としか捉えていなかった水の輝きが、次第に構造を持って見え始める。無機質な水分子の隙間に、粘りつくように絡みついている、高エネルギーの粒子。それはランダムに動いているようでいて、この世界の不器用な理屈によって無理やり「水」という物質の定義に結合させられている。
解は、自分の指先から、極めて細く、鋭い魂の「糸」を伸ばすイメージを持った。魂を震わせる。老人が行っていた、あの大気を凪がせる歌の周波数を、さらに高精度に、より局所的に再現する。イメージするのは、ろ過装置のフィルター。あるいは、遠心分離機。水分子と、それ以外の不純物の重さの違いを利用して、物理的に分離させる。
耳の奥で、キィィィィン……という、超音波に近い不快な音が響く。魂の軋みが神経を焼く。だが、解は歯を食いしばり、視界を器の中だけに限定した。
(ターゲット、捕捉。……これだ。この『余計な輝き』だけを、外に弾き飛ばせ!)
解の魂という名の「絶縁体」が、水の中に滑り込む。それは水分子そのものには一切干渉せず、ただ、そこに付着しているエネルギーの結合点だけを正確に突いた。
――パチ。
器の中で、静電気のような微かな、しかし澄んだ音が響いた。次の瞬間、水面に浮かんでいたあの不気味な紫色の輝きが、弾け飛ぶように器の外へと霧散した。後に残されたのは、以前のような禍々しい光を失った、ただの、ひどく濁った泥水。
解は、それを一口、喉に流し込んだ。
「……ッ、……」
一瞬、全身の細胞が恐怖に跳ねた。再びあの激痛が来るのを覚悟し、奥歯を噛み締める。だが、
(……来ない。焼けるような痛みも、脳が焦げる感覚も……ない。飲める!)
喉を通ったのは、生温かく、泥臭い、お世辞にも美味とは言えない液体だった。しかし、それは解の体に毒としてではなく、純粋な水分として浸透していった。エネルギーという名の過剰な演出を剥ぎ取られた水。それは、この異世界において解が初めて摂取した、安全な物質だった。
「……あ、……ぁ……」
解の口から、安堵の息が漏れた。飢餓に喘いでいた胃が、待ち望んでいた水分を吸収し、歓喜の悲鳴を上げている。成功だ。この世界の異常な力を、物理的な不純物として扱い、ろ過する。それはこの世界の住人が行う祈りとも魔法とも根本的に異なる、久澄 解だけに可能な、世界という名のシステムへの物理的干渉だった。
その光景を横で見ていたアイアが、驚愕に目を見開いていた。彼女の視点では、解が水に手をかざした瞬間、水から「神聖な光」が剥ぎ取られ、ただの「死んだ水」に変わったように見えたはずだ。この世界の住人にとって、万物に宿る光こそが生命の源であり、それを取り除くという行為は、物質から魂を奪うに等しい禁忌なのかもしれない。
「……、……!! ……、……!!」
アイアが老人に駆け寄り、興奮した様子で何かを訴えている。老人は部屋の隅から立ち上がり、解が飲み干した器を手に取って、じっと見つめた。その瞳には、かつてないほどの困惑と、そして隠しきれない畏怖の念が渦巻いている。
(驚くのも無理はない。お前たちにとっては『神の恵み』なんだろうが、俺にとってはただの『過剰摂取』なんだよ)
解は、少しだけ軽くなった頭で、アイアを見た。彼女は怯えていた。だが、それ以上に、空腹でふらついている解が水を飲めたことに、心からの安堵を見せていた。
解は、自分の脳内の辞書に新たな項目を書き加えた。アイアがこの作業を指して、戦慄と共に呟いた言葉。「デ・ア」
(……分離。あるいは、剥離。いや、文脈からすれば、『死んだ』か?)
彼らから見れば、解が行ったのは「事象の解体」……物質から光を殺して奪う、不吉な業だった。
だが、解の胸中にあったのは、罪悪感ではなく、研ぎ澄まされた生存本能だった。一口の水を安全に変換できたという事実は、彼にとって、この理不尽な世界を攻略するための最初の一歩だった。
解は、残された灰色の固形物にも手を伸ばした。これも同じだ。水よりも複雑に結合したこの物体のなかから、あの不快なエネルギーだけを引き剥がし、純粋なタンパク質と炭水化物へと還元する。
作業を繰り返すたび、脳の奥で火花が散り、視界が白く飛ぶ。精密な作業であればあるほど、魂の硬さと世界との摩擦は鋭利になり、解の精神を削っていく。
鼻から、再び一筋の血が垂れた。老人がそれを見て、悲しげに首を振る。
(分かってる。これは命の残量を削る作業だ。だが、これ以外のルールで生きる方法を、俺は知らない)
あばら屋の外では、紫色の霧がさらに深く澱み、スラムの住人たちの飢えた溜息が風に乗って聞こえてくる。壁の隙間から覗く彼らの瞳は、騎士を追い払った「聖者」としての解を求めているのか、それとも、光を奪う「死神」としての解を恐れているのか。
解は、泥のような食事を無理やり胃に流し込みながら、ふと、ある事実に思い至った。
(……待てよ。俺が今、水や食料から弾き出した『不純物』はどこへ行った?)
質量保存の法則。エネルギー保存の法則。取り除いたものは、消えてなくなるわけではない。ただ、移動しただけだ。解は、視線を床へと落とした。
器から弾き出された紫色の光。それは空気中に霧散し、そして重力に従って、このスラムの地面の底へと沈殿していったのではないか。俺が生きるために捨てた毒。そして、この街の住人たちが、非効率な祈りのために垂れ流している膨大なエネルギーのロス。
それらはすべて、この地下に溜まっている。
ズズ……、ズズズ……。
微かに、地面の底から不気味な振動が伝わってきた。それは物理的な揺れではない。空間そのものが、過剰なエネルギーを抱え込みきれずに悲鳴を上げている音。
(来るな。近いうちに、理屈では説明のつかない『歪み』が、ここを襲う)
解は、空になった器を強く握りしめた。まだ言葉は不完全だ。体も満足に動かない。だが、不純物を弾くための「感覚」だけは、今、この瞬間も、彼の魂に深く、鋭く刻み込まれていた。




