第59話 氷の結界
踏み出したその一歩が、見えない境界線を越えた瞬間。世界からすべての「温度」が消失した。
肺に吸い込んだ空気が、無数の細かい氷の針となって気管を内側から刺し貫く。瞬きをするたびに、まつ毛が凍りついて張り付こうとする。日本の真冬の寒さなどという生易しいものではない。生物の活動はおろか、分子の運動そのものを強制的に停止させようとする、明確な敵意に満ちた「絶対零度」の領域。
(……これが、環境そのものを書き換える魔法……!)
肌を刺す極寒の中で、カイの頭の中には、全く別の次元の「情報」が押し寄せていた。『戦術連携』。ソフィアの首元にある『共振盤』を中継器とし、カイの右腕――鋼鉄と聖銀の義手を受信機として流れ込んでくる、仲間たちの知覚情報。
(右奥、氷の軋む音。……周期的な魔力の波!)
本部の通信卓にいるシエロの『聴覚』が、倉庫の奥で円陣を組む騎士たちの詠唱のわずかな乱れを捉える。
(生命反応、前方の瓦礫の陰に一つ。とても弱いです……!)
エリスの『共感覚』が、分厚い氷の壁の向こう側で凍えかけているシュバルツの存在を、青白い波形として描き出す。
(敵の陣形、崩れなし。全員で一つの巨大な冷却回路を形成しているわ!)
そして、隣に立つソフィアの観測鏡が捉えた、冷徹なまでの熱量分布とエネルギーの立体構造。
四人の感覚が、カイの脳内で一つの立体的なパズルとして組み上がっていく。以前のカイなら、この情報の濁流に呑まれてパニックを起こしていただろう。だが今のカイは、自分の「硬い魂」をフィルターとして使い、戦闘に不要な情報を弾き落とす術を身につけていた。研ぎ澄まされた視界の中で、カイは迫り来る白銀の騎士たちを見据えた。
「異端者、侵入。……浄玻璃の檻にて、永遠の静寂を」
円陣の中心に立つ、小隊長と思しき騎士が、無機質な声で宣告した。白銀の装甲に水色のラインが入った、寒冷地仕様の魔導鎧。彼らは、スラムを焼き払ったクレドの部隊のような激しい怒りや熱狂を見せない。ただ、冷たく、事務的に対象の熱を奪い尽くそうとする、氷の処刑人たち。
小隊長の杖が振り下ろされると同時。円陣の最前列にいた数名の騎士が、一斉に杖をカイたちへ向けた。
「凝結の理――」
空中の水分が瞬時に凍りつき、鋭利な氷の槍となって、吹雪のような勢いで殺到してくる。物理的な質量を持った、鋭い氷の刺突。
「オラァッ! 俺の後ろから出るなよ!」
ジャンが怒号と共に前に飛び出し、巨大な金属盾を構えた。仲間を庇うために、物理的な壁となる道を選ぶ。彼の身体を『衝撃反射』の波紋が包み込む。どんな物理的な衝撃も、一八〇度反転させて跳ね返す無敵の盾。無数の氷の槍が、ジャンの盾に激突した。
ドガガガガガッ!!
激しい衝突音。盾に激突した氷の槍は、運動エネルギーこそ反射されて威力を失ったものの、砕け散ることなく盾の表面にベチャリと張り付いた。そして、そこを起点にして、まるで生き物のように氷が急速に増殖し始める。
「……チッ、分かっちゃいたが、相性最悪だぜ!」
ジャンが忌々しげに顔をしかめた。事前の作戦会議で予測していた通りだ。『衝撃反射』は飛んでくる矢や殴打のような物理的な力にはめっぽう強いが、温度を奪い物質を凍らせるという「環境干渉」は反射できない。
メキメキメキッ……!
青白い氷が、盾の表面を覆い尽くし、縁を伝ってジャンの腕へと這い上がっていく。
「くそッ! 衝撃は抜けたが、氷がへばりついて盾が重ぇ!」
ジャンが力任せに盾を振り払おうとするが、腕の関節部分まで一気に凍りつき、動きが完全にロックされてしまった。
「退きなさいジャン! そのままじゃ腕ごと氷漬けになるわよ!」
ジャンの背後から、ヴァレリーが躍り出た。彼女は大型の魔導ライフルを構え、銃身にバチバチと青白いスパークを纏わせる。
「氷が相手じゃ分が悪いのは承知の上よ! だからって、黙って見てるわけにはいかないじゃない! 導電路ッ!!」
引き金が引かれる。彼女の体内に蓄積された膨大な電気エネルギーが、空気の絶縁性を破壊して作られた「道」を通り、極太の雷撃となって騎士たちの円陣へと放たれた。牽制のための、光速の一撃。
だが、小隊長は微動だにせず、ただ低く詠唱を紡いだ。
「絶対の静謐」
騎士たちの前に、地面から分厚い氷の壁が瞬時にせり上がった。ヴァレリーの雷撃が、その氷の壁に直撃する。
バチィィィィンッ!!
激しい閃光が倉庫内を照らす。だが、雷撃は氷の壁を貫通することなく、表面を滑るようにして乱反射し、天井や壁へと無害に散らされてしまった。
「……純度が高すぎて、本当に電気を通さないのね! 可愛げのない氷だわ!」
ヴァレリーが舌打ちをしてライフルを下ろす。これも会議で懸念された通りの結果だ。教会の生み出す氷は、泥水が凍ったような代物ではない。エーテルによって不純物を完全に排斥され、分子が規則正しく並んだ「純氷」だ。物理攻撃を凍りつかせ、雷撃を絶縁する、文字通りの絶対防御。
「……対象の抵抗、無効化を確認。これより、完全凍結へ移行する」
小隊長が、感情のない声で宣言する。円陣を組んだ騎士たちが、再び深く詠唱を重ねる。
「……魂の渇きを……静謐にて封ぜよ……」
ギシギシと、空間そのものが悲鳴を上げる。氷の壁がさらに厚みを増し、床を伝ってカイたちの足元へと急速に迫ってくる。倉庫の奥に積み上げられたプロメテウスの支援物資も、シュバルツが隠れているであろう瓦礫の山も、すべてが分厚い氷の層に閉じ込められようとしていた。
「くそっ、このままじゃ全員、氷の彫刻になっちまうぜ!」
右腕を氷漬けにされたジャンが、残った左手で必死に氷を砕こうとするが、氷の増殖速度に追いつかない。物理も雷も通じない、環境そのものを支配する絶対的な力。
だが、その極寒の嵐の中で。カイは、ただ一人、一歩も動かずに立っていた。鋼鉄の右腕を静かに構えたまま、その瞳だけが、氷のような冷徹さで敵の陣形を射抜いている。
(……焦るな。ピントを合わせろ)
カイの脳内で、戦術連携によってもたらされる膨大なデータが整理されていく。
(作戦会議で予測した通りだ。これだけの広大な空間を絶対零度まで冷やしているなら、奪った莫大な熱を、必ずどこかへ『捨てて』いるはずだ)
カイは、ソフィアに合図を送った。口に出す必要はない。リンクした感覚を通じて、ピントを合わせる箇所を直接脳内で共有する。
(ソフィア。熱の行き先はどこだ?)
隣に立つソフィアが、ハッとして観測鏡のレンズを回転させた。カイの推論が、彼女の観測眼に新たなフィルターを提供する。シエロの聴覚が、氷の軋む音の中から、わずかな「排気」のノイズを拾い上げる。エリスの感知が、極寒の空間の中に、一本だけ不自然に熱を帯びた「流れ」を見つけ出す。
「……見えたわ、カイ!」
ソフィアの声が、カイの脳内に直接響く。彼女の視覚情報が、カイの視界を立体的な構成図へと書き換える。
青白く凍りついた倉庫の空間。その中で、騎士たちが組む円陣の中央。十数名の騎士たちが杖を突き立てている、その一点。そこから、地下のさらに奥深くへと向かって、奪い取られた莫大な熱エネルギーが、目に見えない巨大なパイプラインを通って排出されていたのだ。
「彼ら、自分たちの杖をアンテナにして、この空間から奪った熱を、地下の地脈へ直接逃がしているわ! あの円陣の真ん中が、結界の『排熱口』よ!」
「ビンゴだ」
カイは、血の滲むような笑みを浮かべた。
(的がデカすぎるなら、全部を消す必要はない)
氷の壁を真正面から叩き割ろうとするから、自滅する。やるべきことは、ただ一つ。その「熱の捨て場所」へ続く配管に、石を詰めて逆流させてやること。あるいは、氷を維持している「結晶構造」の、一番脆い結び目を一本だけ引き抜くこと。
カイの右腕が、プシューッと短い排気音を立てて駆動する。内部の精巧な歯車が噛み合い、カイの「絶縁体」としての魂から溢れ出す拒絶の波動を、極限まで細く、鋭利な「針」へと絞り込んでいく。
「ジャン、ヴァレリー。俺が合図したら、一気に踏み込め」
カイは、静かに、しかし絶対的な確信を持って告げた。
「あの氷の壁は、もうすぐただの『水蒸気』に変わる」




