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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
外典の継承

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第58話 絶対零度の檻

「……回線、繋ぎます! 音声出力に切り替え!」


 非常アラートが鳴り響く作戦会議室で、通信卓に座るシエロがコンソールのレバーを乱暴に押し込んだ。瞬間、部屋の奥に鎮座する巨大な『アンテナ』のスピーカーから、激しいノイズに混じって、息も絶え絶えの男の声が響き渡った。


『……あー、クソッ。……こちらシュバルツ。……聞こえるか、ロゴスのお坊ちゃんたち……』


 シュバルツ。金次第でどんな危険な物資でも運ぶ、プロメテウスお抱えの腕の立つ請負人。彼が持つ『亜空間収納(インベントリ)』という能力は、自身の影の中に質量のある物体を格納し、教会の監視をすり抜けて運搬することを可能にしていた。逃げ足の速さにおいて、彼の右に出る者はいない。その抜け目ない男が、これほど切迫した、死を覚悟したような声を上げている。


「シュバルツ! 無事か! 状況を報告しろ!」


 指揮官のゲルハルトが、通信機越しに鋭く問い詰める。


『……無事じゃねえよ。……やられた。第3ルートの中継倉庫が、教会の犬どもに完全に占拠されちまった』


「占拠だと? あんたの『収納』で、物資ごと影に潜って逃げられなかったの!?」


 ヴァレリーが信じられないというように叫んだ。


『……無理だ。逃げ道ごと、完全に『凍らされた』んだよ。……奴ら、『浄玻璃の譜(グラキエス)』に特化した一個小隊だ。……倉庫全体が、一瞬で絶対零度の氷漬けにされちまってる』


 通信の向こう側から、ギシギシと氷が軋むような、神経を逆なでする不気味な音が聞こえてくる。


『俺も、足をやられて動けねえ。……今は瓦礫の陰に隠れてるが、見つかるのは時間の問題だ。……悪いが、今回の依頼は失敗だ。……お前らの飯も、あの坊主の義手の冷却液も、全部ぶ厚い氷の中だ。……じゃあな、俺は死んだふりでも……』


ザザッ……プツリ。


 そこで通信は唐突に途絶えた。シエロが蒼白な顔で必死に再接続を試みるが、スピーカーからは虚しいホワイトノイズが流れるだけだった。


「……最悪ね」


 ヴァレリーが顔をしかめ、自身の赤い髪を苛立たしげに掻き回した。


「『浄玻璃の譜(グラキエス)』……水と氷を操る属性。閉所での制圧において、これほど厄介な連中はいないわ。空間ごと凍らせて、物理的な退路を完全に塞ぐ。あのシュバルツが逃げ遅れるのも無理はないわ」


「しかも、あの中継倉庫には、向こう一ヶ月分の食料と、カイの義手の冷却触媒の予備が保管されていたはずよ」


 ソフィアの言葉に、会議室の空気が絶望的な色を帯びた。カイは、自身の右腕――鋼鉄と聖銀で構成された義手を見つめた。スラムでの死闘を経て、ようやく制御の糸口を掴んだこの腕も、過剰な熱を逃がすための冷却触媒がなければ、数回の戦闘でオーバーヒートを起こし、ただの重たい鉄屑になる。兵糧攻めの冷たい手は、彼らの予測を遥かに上回る速度で、すでに彼らの喉元を締め上げていたのだ。


「……防衛戦のフェーズは終わった」


 重苦しい沈黙を破ったのは、ゲルハルトだった。彼は銀縁眼鏡を押し上げ、冷徹な指揮官の顔で室内の全員を見渡した。


「選択肢はない。これより、第3ルート中継倉庫の奪還作戦に移行する。……敵は浄玻璃に特化した正規軍の一個小隊と推測される。氷の結界を破り、物資とシュバルツを回収せよ」


「……待ってくれよ、ゲルハルト。相手は氷だぞ?」


 ジャンが、珍しく慎重な口調で言った。


「俺の『衝撃反射(リフレクション)』は、飛んでくる物理的な攻撃や運動エネルギーには強いが、周りの空気を凍らせてくるような環境干渉には相性が悪い。盾を持った腕ごと凍らされちまったら、どうしようもねえ」


「あたしも同意見よ」


 ヴァレリーも、背負っていた大型の魔導ライフルを睨みつけながら舌打ちをした。


「あたしの『導電路(コンダクト・パス)』は、空気の絶縁性を壊して雷を落とすけど、純水から作られた純度の高い氷は、電気を通さないのよ。分厚い氷の壁に囲まれたら、雷撃は絶縁されて完全に防がれちゃうわ」


 この世界における、絶対的な「相性」の問題。教会の騎士団が、閉所である地下倉庫の制圧に『浄玻璃の譜』を選んだのは、極めて理にかなった、冷酷な戦術だった。物理と雷。レジスタンスの実働部隊が誇る二つの矛は、純粋な氷を前にしては著しく威力を削がれてしまう。


「だからと言って、見捨てるわけにはいかないわ。……私が術式の構造を解析して、氷の結界の最も薄い部分を探す。そこを一点突破するしか……」


 ソフィアが観測鏡スペクトル・スコープを手に取りながら言った、その時だった。


「その必要はない」


 低く、静かな声が響いた。カイだった。彼は、自身の右手を軽く握り込み、内部の精巧な歯車が噛み合う駆動音を会議室に響かせた。


「俺が行く」


 カイは、ゲルハルトを真っ直ぐに見据えた。その黒い瞳には、スラムで震えていた頃の迷いは微塵もなかった。


「氷だろうが何だろうが、関係ない。相手が物理法則を利用して聖譜を使っているなら、そこには必ず『結び目』がある。……俺とソフィアの『戦術連携(タクティカル・リンク)』の実戦投入には、うってつけの舞台だ」


「……カイ。相手は環境そのものを武器にしてくるのよ。飛んでくる火球を消すのとは次元が違うわ。空間の温度を奪う現象を、どうやって『解体』する気?」


 ソフィアが、心配そうに念を押す。だが、カイは不敵に笑い、左手で義手の表面をコンコンと叩いた。


「結果を壊すんじゃない。過程をほどくんだ。教えてくれたのはあんただろ、先生」


 カイは、日本の高校で習った熱力学の基礎を脳裏に思い浮かべていた。


「……『冷やす』ってのは、聖譜で何もないところから冷気を作り出してるんじゃない。そこにある熱を『奪っている』だけだ。エネルギー保存の法則。……奪われた熱がどこへ捨てられているか、その『熱の移動』の経路を見極めれば、氷なんてただの固まった水だ」


 カイの思考が、すでに敵の魔法の「解法」を導き出そうとしていた。氷を作り出すために、必ずどこかで熱を排出しているはずだ。その排熱のプロセスを物理的に断ち切るか、あるいは逆流させれば、氷の結界は維持できない。


 ソフィアは一瞬目を丸くしたが、すぐにフッと口元を綻ばせた。


「……生意気な生徒ね。いいわ、私の『眼』なら、その奪われた熱の『捨て場所』が見える。完璧にナビゲートしてあげるわ」


「決まりだな」


 ジャンが、安堵したように豪快に笑い、巨大な盾を背負い直した。


「お前が氷の壁をぶち抜いてくれたら、あとは俺の出番だ」


「そういうことね」


 ヴァレリーもライフルを肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた。


「氷漬けの倉庫か。あんたが氷をただの水に戻してくれたら、あとはあたしの雷で、一気にサウナにしてやるわ」


「実働部隊、出撃せよ」


 ゲルハルトの号令が下る。


「シエロ、エリス。君たちは本部から『戦術連携』のバックアップを頼む。……必ず、ルートをこじ開けて帰還しろ」


「「「了解!」」」


 カイは義手の排気口から短く蒸気を吹かせ、仲間たちと共に作戦会議室を飛び出した。






『ハビタ・ゼロ』から中継倉庫へと続く第3ルートは、廃棄された古代の地下インフラを転用した、複雑に入り組んだ迷宮だった。壁面には、継ぎ目のない滑らかな素材で覆われたパイプが走り、足元には泥と瓦礫が堆積している。普段ならプロメテウスの運び屋たちが密かに往来するその道は、今は異常なほどの冷気に包まれていた。


「……息が白くなるわね。結界の範囲に入った証拠よ」


 先頭を走るソフィアが、吐く息の白さを確認しながら低く告げた。彼女はすでに白衣の上から防寒用のケープを羽織り、片目には観測鏡を装着している。カイもまた、肌を刺すような冷気を感じていた。日本の真冬の寒さなど比ではない。骨の髄まで凍りつくような、生命活動そのものを拒絶するような人為的な極寒。


「シエロ、エリス。感度はどうだ?」


 カイが呼びかけると、隣を走るソフィアの首元に下げられた『共振盤レゾナンス・プレート』を通じて、本部の二人から声が返ってきた。


『……はい、シエロです。音声波形、クリアに受信しています。……前方約三百メートルの地点から、金属の擦れる音と、複数の詠唱音が聞こえます』


『エリスです。……冷たい、とても冷たい波形が、前方の空間を完全に塞いでいます。……生命反応は、奥の方に一つ。とても弱くなっていますが、生きています』


 本部にいるシエロの『聴覚』と、エリスの『共感覚』が、分厚い岩盤越しに敵の状況とシュバルツの生存を正確に伝えてくる。言葉を介した通信だが、いざ戦闘が始まれば、彼らの知覚情報は直接カイの脳へと『戦術連携』として流れ込んでくる手ずだ。


「シュバルツは生きている。急ぐわよ」


 ソフィアの合図で、四人は足音を殺して速度を上げた。通路の角を曲がると、突然視界が開けた。そこは、かつて地下鉄の駅か巨大な貯水槽だったと思われる、広大な地下空間だった。プロメテウスからの物資が山積みになっていたはずの中継倉庫。


 だが、その光景は、カイたちの想像を絶するものだった。


「……なんだ、こりゃあ」


 ジャンが、思わず足を止めて呻いた。広大な空間のすべてが、青白く輝く『絶対零度の氷』によって覆い尽くされていたのだ。壁も、床も、積み上げられた木箱も、すべてが分厚い氷の層に閉じ込められている。


 そして、その氷の広場の中央には、十数名の教会の正規聖騎士たちが、円陣を組んで静かに立っていた。彼らが纏うのは、スラムで見た黄金の鎧ではない。白銀の装甲に、淡い水色のラインが走る、寒冷地仕様の魔導鎧。彼らは微動だにせず、ただ杖を地面に突き立て、低い声で『浄玻璃の譜』の詠唱を続けている。


「……浄玻璃(グラキエス)……凝結の理(コンデンセ)……」 「……魂の渇きを(アニマ・シチス)……静謐にて封ぜよ(クィエト・クローデ)……」


 彼らが一節を紡ぐたびに、空間の温度がさらに下がり、空気中の水分が凍りついてキラキラとダイヤモンドダストのように舞い落ちる。


「……あれが、教会の一個小隊……。環境そのものを書き換えてるのね」


 ヴァレリーが、ライフルの銃身を撫でながら忌々しげに呟く。敵はカイたちの接近に気づいているはずだ。だが、彼らは陣形を崩さず、こちらに攻撃を仕掛けてくる様子もない。


「待ち構えてるんだ。……俺たちが、この氷の檻に足を踏み入れるのを」


 カイは、鋼鉄の右腕を軽く振りかぶった。氷の結界の入り口。目に見えない境界線が、そこにある。一歩でも踏み込めば、全身の血液まで凍りつくような極寒の世界。


「ソフィア。見えるか?」


 カイの問いに、ソフィアは観測鏡のレンズを回転させ、冷徹な瞳で氷の世界を睨みつけた。


「ええ。見えるわ。……彼らの聖譜の『構造』が」


 その言葉を合図に、彼女は共振盤のスイッチを入れた。


ドクン。


 本部からの情報リンクが確立し、カイの脳内に、シエロとエリス、そしてソフィアの三人の感覚が、圧縮されたデータとなって直接流れ込んでくる。視界が切り替わる。ただの冷たい氷の塊が、熱量の分布と、エネルギーの移動経路を示す「立体的な構成図」へと変貌する。


「行くぞ」


 カイは、絶対零度の檻へ向かって、迷いなく一歩を踏み出した。

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