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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
外典の継承

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第57話 忍び寄る影

 地下施設『ハビタ・ゼロ』の居住区画。その一角にある簡素な個室で、カイはベッドの縁に腰掛け、自らの右腕――鋼鉄と聖銀で構成された義手のメンテナンスを行っていた。天井の蛍光灯に似た古代の遺物の明かりが、黒ずんだ鉄の装甲と、その表面に血管のように這い回る『聖銀』のラインを鈍く照らし出している。カイは工具箱から取り出したドライバーを手に、関節部にある各部のねじの締まり具合を一つ一つ確かめていく。カチ、カチという硬質な金属音が、静かな部屋に響く。


 各部のねじを締め終え、可動部に少量のオイルを差す。鋼鉄の指をゆっくりと握り、開く。動きは極めて滑らかだ。内部の精巧な歯車が噛み合い、わずかな駆動音を立てる。関節の隙間から、プシュッと短い排気音が漏れた。


(……悪くない。いや、完璧だ)


 カイは、冷たい金属の感触を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。スラムで孤独に戦っていた頃の、あの綱渡りの日々を思い出す。飛んでくる魔法を、自分の魂という『剥き出しの絶縁体』で真正面から受け止め、強引にへし折っていた。そのたびに魂はヤスリで削られるように摩耗し、指先は炭化し、いつ焼き切れて廃人になってもおかしくなかった。


 だが今は違う。自分の出力を最小限に絞り、仲間の眼と耳を借りて、世界の歪みをピンポイントで撃ち抜く。ソフィアを『レンズ』とし、己を『撃鉄』とする一つのシステム。そして、この義手が過剰な熱を逃がすラジエーターとして機能してくれる。異物としての「力」が、明確な「技術」へと昇華された確かな手応えが、カイの中に静かな自信を芽生えさせていた。


「よし。これなら、いつ教会の処刑部隊が来ても――」


 カイが義手の排熱ダクトのカバーをカチンと閉じ、ロックをかけた、その時だった。


 ――カン、カン、カン、カンッ!!


 個室の重厚な鉄扉が、壊れんばかりの勢いで乱暴に叩かれた。


「カイさん! いますか!? 起きてますか!?」


 廊下から響いてきたのは、通信兵であるシエロの切羽詰まった声だった。普段は外部の音を遮断するためにヘッドフォンをして、自分の世界に引きこもりがちな彼が、これほど声を荒らげて扉を叩くことは極めて珍しい。


 カイは素早く立ち上がり、扉のロックを解除して開けた。


「どうした、シエロ。そんなに慌てて」


「『幻燈(プリズム)』から、緊急の暗号通信が入りました! すでに波長は合わせてあります。至急、作戦会議室へ!」


 シエロの顔は蒼白で、息が上がっていた。プリズム。教会の研究機関『聖譜監獄(アーカイブ)』の奥深くに潜入している、レジスタンスきっての優秀なスパイ。彼から直接、しかも緊急の通信が入るということは、教会の「上層部」が何らかの決定的なアクションを起こしたということだ。


「……行くぞ」


 カイの胸の奥にあった安堵の余韻は綺麗に吹き飛び、代わりに冷たい氷塊のような緊張感が胃の腑に落ちた。カイは部屋を飛び出し、シエロと共に無機質な金属の廊下を駆け出した。






『ハビタ・ゼロ』の中枢、作戦会議室。冷たい鉄のテーブルを囲むように、指揮官のゲルハルト、ソフィア、ジャン、ヴァレリー、そして駆けつけたカイが集まっていた。部屋の隅の通信卓には、彼らを呼び出した通信兵のシエロが、大型のヘッドフォンを片耳に当て、コンソールに向かって緊張した面持ちで待機している。頭脳と手足、そして耳。このアジトの中核を担うメンバーたちが、一つの円を作っていた。


 部屋の奥には、プロメテウスの職人たちが古代の遺物を改造して作り上げた巨大な『アンテナ』が鎮座し、ヴゥゥゥンという低い唸り声を上げている。空間に満ちるエーテルの揺らぎそのものを媒質とし、そこに特定の波長を乗せるこの通信システムは、教会のどんな探知機にも「自然な環境ノイズ」にしか見えない絶対の秘匿性を持っている。


「……波長、同調しました。繋ぎます」


 シエロの合図で、ゲルハルトが手元のスイッチを弾いた。テーブルの中央に置かれた通信用の小さなガラス玉に微弱なエーテルが流れ込み、明滅を繰り返す。やがて、ノイズ混じりの、しかし飄々とした青年の声が室内に響いた。


『――感度良好かな。やあ、地下のモグラ諸君。あまり長電話はできないから、単刀直入に言うよ』


 プリズムの声だ。だが、いつもの皮肉めいた余裕は薄く、声の端々に切迫した色がはっきりと混じっていた。


『まず朗報だ。聖帝直属の処刑部隊『エクリプス』の本隊は、まだ動いていない。彼らは極端に完璧主義でね。確実に君たちを仕留めるための大規模な包囲網の構築と、出撃前の『聖儀(リチュアル)』の準備に時間をかけている。……出撃まで、あと数日はかかるだろう』


「数日か。……悪い話じゃない。迎え撃つ準備を整えるには十分だ」


 カイが呟くと、ガラス玉の向こうでプリズムが小さく鼻を鳴らした。


『だが、悲報だ。教会の連中は、エクリプスが出撃するまでの間、君たちをのうのうと休ませておく気はないらしい。……昨日から、教会の『正規聖騎士団』の別働隊が、スラムの地下迷宮に展開し始めた』


「地下迷宮だと?」


 ゲルハルトが、銀縁眼鏡の奥で鋭く目を細めた。


「教会の部隊が、あのような穢れと澱が溜まる不浄の領域に、わざわざ入り込んできたというのか。彼らにはこのアジトの正確な位置は分からないはずだが。総当たりで拠点を探す気か?」


『ああ。だからこそ、奴らの目的は拠点ハビタ・ゼロの直接的な発見じゃない。……兵糧攻めだよ』


 プリズムの言葉に、ジャンとヴァレリーがさっと顔を見合わせた。ジャンの顔に険しい皺が刻まれる。


『彼らの狙いは、君たちに食料や武器、そして何より……修復者カイ君の義手のパーツを流している、中立地帯からの『密輸ルート』だ。正規軍が、地下の未探査空間を片っ端から潰しにかかっている。ルートを特定し、完全に封鎖するつもりだ』


「……チッ。汚え真似しやがる」


 ジャンが苛立たしげに舌打ちをし、分厚い手でテーブルを叩いた。カイも、自身の右腕――先ほど丹念にメンテナンスを終えたばかりの義手を見つめて顔をしかめた。


 この地下要塞は分厚い岩盤に守られた強固な盾だが、自給自足には限界がある。特に、カイの義手を冷却するための特殊な触媒や、戦闘で激しく破損した際の予備の金属パーツは、すべて職人ギルド『プロメテウス』からの裏ルートを通じた補給に完全に依存していた。もし補給線を絶たれれば、義手は数回の戦闘でオーバーヒートを起こし、ただの重たい鉄屑になる。そうなれば、カイは戦えない。


『僕が探れたのはここまでだ。……気をつけてくれ。正規軍とはいえ、今回は大規模な制圧じゃない。閉所戦闘と封鎖に特化した、厄介な部隊が動いているって噂だ。……それじゃ、健闘を祈るよ』


 プツリ、とわずかなノイズと共に通信が切れ、ガラス玉の淡い光が失われた。アンテナの唸り声だけが残された会議室に、重苦しい沈黙が降りる。


「……厄介なことになったわね」


 ソフィアが腕を組み、壁面に投影された地下の立体地図を睨みつけた。彼女の瞳が、無数に枝分かれする地下坑道のルートを素早くトレースしていく。


「私たちの密輸ルートは、教会の公式な地図には載っていないはずよ。でも、数百人の部隊でしらみ潰しに探されれば、いずれ中継倉庫が見つかるわ。一つ潰されれば、連鎖的に他のルートも辿られる危険がある」


「防衛を固めるって? いや、外に出られなくなったら終わりよ。干上がっちゃうわ」


 ヴァレリーが苛立たしげに自身の赤い髪を掻き回す。教会は、カイたちが「打って出てこないこと」を逆手に取ったのだ。圧倒的な武力で拠点をこじ開けるのではなく、外部との繋がりを一つずつ物理的に切断し、呼吸を止める。神の奇跡を盲信する狂信的な集団だと思っていたが、やっていることは理詰めで冷酷、そして合理的だ。


「ゲルハルト」


 カイは、静かに指揮官を見据えた。


「防衛戦のフェーズは終わったんだろ。……あいつらがルートを探しているだけなら、見つけられる前にこっちから先回りして追い払えばいい」


「……危険だぞ、カイ。敵の規模も正確な位置も不明な状態での強行出撃は、罠に飛び込むようなものだ。閉所での遭遇戦となれば、地の利はあっても数で押し切られる可能性が高い」


 ゲルハルトが冷静な指揮官としての視点から反論する。だが、カイは引かなかった。


「待っててもジリ貧だ。俺の義手の冷却液が底を突けば、本命のエクリプスが来た時に戦える奴がいなくなる。それに……」


 カイは、スラムの方角――分厚い天井の向こう側を睨みつけた。


「ここで俺たちが干上がったら、いつかエルマたちの元へ帰って、あの日常を取り戻すっていう約束も果たせなくなる」


 あちら側の平和な世界では、食料はコンビニに行けばいくらでも手に入った。水は蛇口をひねれば無限に出た。だが、ここでは違う。日々の水とパンを確保すること自体が、命懸けの闘争なのだ。エルマやガレオスたちと囲んだ、あのささやかな食卓。それを守り抜くと決めたのだ。隠れて待っているだけでは、何も守れない。


「……分かった。君の言う通りだ」


 ゲルハルトは小さく息を吐き、眼鏡の位置を直すと、立体地図の一点を指差した。


「第3ルートの地下中継倉庫。現在、プロメテウスからの物資運搬を請け負う『影渡り』が、そこを経由してこちらへ向かっているはずだ。彼は腕の立つ運び屋だが、正規軍の一個小隊を相手に単独で立ち回るのは厳しい。まずはそことの合流を目指す」


 ゲルハルトが実働部隊に視線を向け、出撃の号令をかけようとした、その時だった。


ビーッ! ビーッ! ビーッ!


 会議室の天井に設置された警報ランプが、唐突に赤く点滅し始めた。それは魔法的なエーテルの波形を受信した際のアラートではない。物理的な、有線の非常アラートだった。聖譜が主流のこの世界で、あえて有線の物理回線を引いているのは、絶対に妨害されない確実なSOSを伝達するためだ。


「な、何事だ!?」


 通信卓に座っていたシエロがコンソールに飛びつき、発信源を特定する。モニターの波形を見た瞬間、彼の顔色が先ほどよりもさらに蒼白になった。


「……第3ルート、地下中継倉庫からです! 『影渡り』から……物理SOS信号が届いています!」


「なんだと!?」


 ジャンが吼えた。あの抜け目ない『影渡り』が、逃げる間もなくSOSを叩き込む事態。それは、敵の包囲がすでに完了していることを意味していた。


「遅かった……!」


 ソフィアが歯噛みする。教会の行動速度は、彼らの予測を遥かに上回っていたのだ。兵糧攻めの冷たい手は、探りを入れる段階をとうに過ぎ、すでに彼らの喉元まで伸びて、その爪を深く食い込ませていた。


 カイは、義手の拳をギリリと握り込んだ。嫌な予感が、急速に現実のものとなって迫りつつあった。

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