第56話 レンズと撃鉄
「もう一丁、いくぜ!」
地下施設『ハビタ・ゼロ』の実験防護室。ジャンの野太い声が響き渡ると同時に、彼が重い足音を立てて突進してきた。彼が構えるのは、大人がすっぽり隠れるほどの巨大な金属盾。その表面には、物理法則を裏返して衝撃を跳ね返す『衝撃反射』の波紋が薄っすらと浮かび上がっている。
「よそ見してると黒焦げになるわよ!」
さらに、ジャンの背後に隠れるように動いていたヴァレリーが、横へ飛び出しながら魔導ライフルを構えた。銃身に青白いスパークが走り、『導電路』による強烈な電撃が放たれる。
カイは、その猛攻の前に立っていた。
(……二つの事象、同時進行。距離、十メートル)
カイの右腕、鋼鉄と聖銀の義手が低く唸る。隣に立つソフィアの首元の『共振盤』を経由し、本部にいるシエロとエリス、そしてソフィア自身の感覚が、圧縮されたデータとなってカイの脳へと直接流れ込んでくる。
「ジャンは囮よ! 本命はヴァレリーの電撃! ……右上!」
ソフィアの鋭い声。カイの脳内に、ヴァレリーの放った雷撃の「最も脆い結び目」が光の点として投影される。
(……そこだ!)
カイは、迫り来る雷撃に向けて義手を突き出し、魂の「針」を極限まで細く絞り込んだ。
「事象解体!」
だが――。
バチバチッ!
空を切るような手応え。光の点を弾いたはずが、コンマ数秒のズレが生じていた。ヴァレリーの雷撃は完全に無音にはならず、火花を散らしながら軌道を逸れ、実験室の壁を黒く焦がした。
「ちっ、逸れた……!」
「よそ見すんなって言っただろ!」
電撃の解体に気を取られた隙に、ジャンの盾が眼前に迫っていた。
「ぐ、おっ!」
巨大な盾の面がカイの身体を捉える。強烈な衝撃が走り、カイはボールのように弾き飛ばされて防護用マットに背中から叩きつけられた。
「……ッ、痛てぇ……」
「そこまで! 訓練中断よ!」
ソフィアが伝声管に向かって叫び、共振盤のスイッチを切る。カイの脳内から、仲間の感覚がプツリと途絶えた。
「……はぁ、はぁ……」
カイはマットに寝転がったまま、荒い息を吐いた。義手の排気口からは、処理しきれなかった摩擦熱が白い蒸気となって噴き出している。
「また失敗ね」
ソフィアがデバイスを手に、カイのそばへ歩み寄ってきた。その表情は、期待外れというよりは、原因を探る研究者のそれだ。
「イメージの『解像度』は上がっているわ。出力のバルブも絞れている。でも……タイミングが致命的にズレているのよ。私が急所の位置を伝えてから、貴方がそこに義手を突き出すまでに、平均してコンマ二秒のラグがあるわ」
「……コンマ二秒。たったそれだけか?」
カイが身体を起こしながら言うと、ソフィアは首を横に振った。
「教会の精鋭相手なら、そのコンマ二秒で首が飛ぶわ。ヴァレリーの能力は光速に近いし、相手が動き回れば、私が視た『脆い結び目』の位置も刻一刻と変化する。的が動いているのに、貴方は『私が指示した過去の位置』を撃っているのよ」
カイは自分の義手を見つめた。頭では分かっている。ソフィアが観測し、シエロとエリスが予兆を捉えている。だが、いざ敵の攻撃が迫ってくると、どうしても「自分の眼で確認してから」動いてしまうのだ。
「……俺の反射神経の問題じゃないのか」
「違うわ。これは『信頼』の問題よ」
ソフィアの言葉に、カイは顔を上げた。彼女の黒い瞳が、真っ直ぐにカイを射抜いている。
「貴方はスラムで、ずっと一人で戦ってきた。自分の五感だけを頼りに、暗闇の中で綱渡りをしてきた。だから、無意識のうちに『自分の感覚』を最終確認のフィルターにしてしまっているのよ」
図星だった。情報が流れ込んでくる。ソフィアが「ここだ」と言う。だがカイは、その情報を脳で受け取り、自分の目で現象を確認し、「よし、間違いない」と判断してから腕を動かしている。その『確認作業』が、コンマ二秒の致命的なラグを生み出しているのだ。
「……どうすればいい。癖みたいなもんだぞ」
「捨てるのよ。貴方の『眼』を」
ソフィアは、カイの目の前にスッと手を差し出した。
「私を信じなさい。私が『ここだ』と視たなら、そこには絶対に敵の急所がある。確認なんてしないで。自分の目で見てから動くんじゃなくて、私の視覚情報を、貴方自身の『網膜』だと錯覚するくらいにシンクロさせるの」
彼女は、カイの義手にそっと触れた。
「私は、貴方の『レンズ』になるわ。焦点は私が合わせる。だから貴方は、迷いなく落とされる『撃鉄』になりなさい。二つの部品が組み合わさって、一つの完璧な『機構』になるのよ」
カイは、ソフィアの真っ直ぐな視線を受け止めた。一人で生き抜くために分厚くした魂の殻。誰とも混ざり合えない絶縁体の孤独。だが、それを少しだけ開いて、彼女の存在を内側へ招き入れるということ。
「……怖くない、って言ったら嘘になるな。自分の車のハンドルを、他人に預けるようなもんだ」
「最高のナビゲーターが隣にいるのよ。事故なんて起こさせないわ」
ソフィアが不敵に微笑む。その自信に満ちた顔を見て、カイの胸の奥にあった強張りが、ふっと解けた。
「分かった。やってみるよ。俺の目は閉じておく」
カイは立ち上がり、義手の拳を軽く握り込んだ。
「ヴァレリー、ジャン! もう一回だ。今度は手加減なしで来てくれ」
カイが伝声管に向かって叫ぶと、ガラスの向こうで二人がニヤリと笑うのが見えた。
『言うじゃない、新入り! 黒焦げになっても知らないわよ!』
『おう! 今度は壁までぶっ飛ばしてやるからな!』
カイは防護ガラスの前に立ち、ゆっくりと目を閉じた。視覚からの情報が遮断され、暗闇が訪れる。怖い。本能が「目を開けろ」と叫んでいる。だが、カイはそれに逆らい、右腕の義手へと意識を集中させた。
「リンク、再開するわよ。……息を合わせて」
ソフィアの声。そして、スイッチが入る音。
ドクン。
再び、三人の感覚がカイの脳へ流れ込んでくる。だが今回は、情報の濁流に抗うのではなく、その流れに身を委ねた。シエロの耳が捉える、微細な空気の摩擦音。エリスの共感覚が描く、エネルギーのうねり。そして、ソフィアの観測鏡が捉える、世界の冷徹な構造。
(俺の眼は、いらない)
カイは、自分の視覚野を、ソフィアから送られてくる映像データで完全に上書きした。暗闇だった視界に、幾何学的な光の線が浮かび上がる。正面。ジャンが床を蹴る振動。シエロの聴覚が、その踏み込みの初速を捉える。ジャンの背後。ヴァレリーの体内で高まる電荷。エリスの感知が、黄色いスパークの波形としてそれを伝える。
『行くぞォッ!』
ジャンの怒号と共に、巨大な質量が迫る。
『絶縁破壊、最大出力……! 導電路ッ!』
ヴァレリーの銃口から、再び極太の雷撃が放たれる。
(……ジャンはフェイントじゃない。今度は本気で突っ込んでくる!)
(雷撃はジャンの盾の影から、俺の足元を狙って広がる……!)
言葉を介した会話はない。ソフィアの思考が、カイの脳内で直接再生されているような感覚。二つの攻撃が、同時にカイへと殺到する。ソフィアの呼吸が、深く吸い込まれるのが分かった。
(……今!)
ソフィアが「結節点」を視認し、光の点として脳内に投影した瞬間。いや、それよりも早く。
カイの右腕は、すでにそこへ向かって動いていた。ソフィアの視線の動き、呼吸のリズム、筋肉の僅かな緊張。感覚を完全に共有しているカイの身体は、ソフィアが「ここだ」と判断するプロセスそのものをトレースし、同時に動作を開始していたのだ。
確認のプロセスはない。迷いもない。ソフィアという「レンズ」がピントを合わせた瞬間、カイという「撃鉄」が振り下ろされる。
「事象解体ッ!」
カイは目を閉じたまま、右手の指先を、空間に浮かび上がった二つの点へと滑らせた。一つ。床を這うように迫るヴァレリーの雷撃の、エネルギーの分岐点。二つ。突進してくるジャンの盾の表面に展開された、衝撃反射の要となる魔力の結び目。
流れるような一つの動作で、ピアノの鍵盤を弾くように、二つの点を正確に弾く。
シュッ……!
音が、消えた。カイの足元を焼くはずだった雷撃は、音もなく霧散し、ただの完全な静寂へと変わった。そして。
「……なッ!?」
ジャンの驚愕の声。彼の盾に展開されていた『反射』の力場が、シャボン玉が割れるようにあっけなく消失した。反射の力を失ったただの重い金属の盾。カイは目を閉じたまま、その盾の縁を左手で軽く撫でるように受け流し、ジャンの突進の方向を横へと逸らした。
ドサァッ!
勢い余ったジャンが、そのまま防護マットの上に無様に転がる。
「……ええっ!?」
ヴァレリーが、信じられないという顔で銃を下ろした。
実験室が、静寂に包まれる。義手の排気口からは、ほんのわずかな蒸気がフワリと立ち昇っただけだ。オーバーヒートの兆候は全くない。最小限の力で、最大の効果を引き出した完璧な「解体」。
カイは、ゆっくりと目を開けた。現実の視界に映ったのは、ひっくり返ったジャンと、呆然とするヴァレリー。そして、隣で観測鏡を押し上げ、誇らしげに微笑むソフィアの姿だった。
「……完璧よ。誤差、ゼロ。私の視た位置と、貴方の撃ち抜いた点が、完全に一致したわ」
ソフィアの声が、興奮でわずかに震えている。
「カイさん、すごいです……! 二つの音が、全く同時に消えました……!」
通信機越しに、シエロが歓声を上げる。
「私も感じました。二つの波形が、まるではじめから一つの流れだったかのように、きれいに重なり合って……」
エリスも、安堵の混じった声で同調した。カイは、自分の右腕を見つめた。
「……ああ。俺も、見えた気がした。あんたの眼を通して、世界の形が」
スラムで戦っていた時の、すべてを自分で背負い込み、力任せに壊すしかなかった孤独な戦い。それはもう過去のものだ。自分の弱さを補ってくれる眼がある。自分が信じて振るうことのできる盾と矛がある。
「へっ、完敗だぜ」
ジャンが頭を掻きながら起き上がってくる。
「俺の反射を一瞬で剥がして、いなすたぁな。これなら、教会の処刑部隊がどんなエグい連携を仕掛けてきても、真正面からぶち破れるぜ」
「本当ね。あんたたち、完全に一つの生き物みたいだったわよ」
ヴァレリーも、感心したように肩をすくめた。ソフィアが、カイの方へ向き直る。
「これで、戦術連携の基礎は完成ね。私の『レンズ』と、貴方の『撃鉄』。……この機構があれば、教会の理なんて、ただの解きやすいパズルよ」
「ああ。どんな複雑な式でも、俺たちが解き明かしてやる」
カイは、鋼鉄の右拳を軽くソフィアの方へ突き出した。ソフィアは一瞬目を丸くしたが、すぐに意図を察し、自身の小さな拳を作って、カイの義手に軽くコツンと合わせた。
冷たい金属と、温かい体温。本来なら交わることのない二つの存在が、今、確かな一つの力として結びついた。




