第51話 未知の教科書
地下施設『ハビタ・ゼロ』の深部。古紙の匂いと、微かな機械の駆動音が漂う解析室・第一。無機質な金属の壁に囲まれたその部屋で、カイは机に広げた一冊のノートと向き合っていた。
湿気で波打ち、表紙の擦り切れた大学ノート。ソフィアの祖父であり、数十年前にこの世界へ迷い込んだ転移者、一ノ瀬賢治の遺品である『外典』だ。数時間前、地上の監視塔を破壊する作戦において、カイは確かに成果を上げた。しかし同時に、自分の力の「粗さ」も痛感していた。指示された的を壊すことはできるが、それだけで魂が摩耗し、義手は限界近い熱を帯びた「出力は申し分ない。だが、制御が甘い」という指揮官ゲルハルトの指摘は、ぐうの音も出ない正論だった。
「……で、この第2章に、その『制御』のヒントが書かれているってわけか」
カイが呟くと、向かいの席でコーヒー代わりの黒い液体を啜っていたソフィアが、コクリと頷いた。彼女は白衣姿のまま、片目に『観測鏡』をずらして乗せている。
「ええ。第1章がこの世界の物理定数や元素の対応表だとしたら、第2章はもっと核心に迫る内容よ。……教会の連中が振りかざす『聖譜』の正体についてね」
カイは息を吐き、ノートのページを捲った。そこには、日本語の几帳面な文字で、びっしりと考察が書き連ねられていた。第1章の客観的なデータとは違い、どこか執念めいた、孤独な研究者の熱を帯びた文章だ。
『彼らは祈る。すると火が出る。彼らはそれを神の奇跡と呼び、自らの信仰の証だと思い込んでいる』
その一行目から、手記は教会に対する明確な否定から始まっていた。
『だが、違う。奇跡などという曖昧なものは、この世界には存在しない。彼らが行っているのは、空間に存在するエーテルを励起させ、燃焼という物理現象に変換するまでの膨大で複雑なプロセスを、「歌」という統一されたフォーマットに無理やり押し込んでいるだけだ』
「統一されたフォーマット……」
カイは、その言葉を舌の上で転がした。スラムで見た光景が脳裏に蘇る。ガレオスが、一杯の泥水を温めるためだけに、仰々しい身振りと長い歌を紡いでいた姿。そして、それを取り囲む住人たちが、祈るように手を合わせていた光景。
「……つまり、教会の『聖譜』ってのは、誰でも動かせるように作られた、便利な乗り物みたいなもんってことか」
カイが顔を上げて言うと、ソフィアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「乗り物?」
「ああ。俺たちの世界で言えば……そうだな、『自動車』みたいなもんだ」
「ジドウシャ? 何よそれ、すごく興味深い響きね!」
ソフィアが身を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせた。クールな研究者の仮面が剥がれ、いつもの「科学オタク」の顔が覗く。
「いや、今はその仕組みの話じゃない。ただの例えだ、先生」
カイは苦笑して手で彼女を制し、説明を続けた。
「自動車ってのは、ペダルを踏めば走る鉄の箱だ。運転している人間は、ボンネットの中でガソリンがどう爆発して、どうやってタイヤに力を伝えているかなんて、全く知らなくてもいい。ただペダルを踏んでハンドルを握れば、結果が出る」
カイはノートの記述を指で叩いた。
「教会の『聖譜』も、それと同じだ。火の出し方や、氷の作り方なんていう複雑な物理法則のプロセスを隠蔽して、『この歌を歌えば魔法が出ますよ』っていう結果だけを民衆に与えているんだ」
「……なるほど。確かに、的を射た例えだわ」
ソフィアは感心したように顎に手を当てた。
「彼らは自分たちが何をしているかを知らない。ただ『教義通りに祈れば奇跡が起きる』と教え込まれ、それを疑うことすら許されない。……教会の真の恐ろしさは、現象の裏側にある『理屈』から、人々の目を逸らさせたことにあるのよ」
カイは再びノートに目を落とした。賢治の手記は、さらに残酷な事実を指摘していた。
『しかし、その規格化されたフォーマットには致命的な欠陥がある。人間の魂の形や得意な波長は、本来一人一人違うはずだ。それを、教会の定めた「七つの属性」という粗雑な規格に無理やり当てはめようとするから、莫大なエネルギーロスが発生する』 『燃費が最悪なのだ。彼らはマッチ一本で済む火を起こすために、毎回、目に見えない家を一軒燃やしているようなものだ。そして、その不完全燃焼の余り物が、「澱」となって世界を汚染していく』
カイの背筋に、冷たいものが走った。スラムの地下から這い出してきた、あの紫色の怪物。あれは、人々が救いを求めて祈った結果生み出された、システムの「排気ガス」だった。教会は、その事実を知りながら、あえて非効率な「型」を押し付けている。自分たちの権威を保つために。人々をシステムに依存させ続けるために。
「……悪趣味にも程があるな」
カイは吐き捨てるように言った。
「安全装置をつけてるふりをして、実はわざと燃費の悪い『ポンコツ車』を売りつけてる。そうやって人々から余分なエネルギーを搾り取って、自分たちの結界を維持する燃料にしてるってわけだ」
「その通りよ。だからこそ、私たち『アカデミア・ロゴス』は、その偽りの奇跡を否定する」
ソフィアは立ち上がり、黒板の前に歩み寄った。彼女はチョークを手に取り、真っ直ぐな線を一本引いた。
「教会が隠しているその『鉄の箱』の中身。それは、原因があって結果が生まれるという、極めて当たり前の『物理法則』よ。おじい様は、それを『構成式』と呼んだわ」
ソフィアは線の途中に、いくつかの結び目のような丸を描き込んだ。
「聖譜が発動するまでには、必ずプロセスがある。エネルギーを集める。空気を圧縮する。熱を奪う。……どんなに歌や光で着飾っていても、その根底にある手順を飛ばすことはできないわ」
彼女は振り返り、カイを真っ直ぐに見据えた。
「カイ。貴方が今までやってきた『解体』は、相手の聖譜という結果を、真正面からハンマーで叩き壊そうとするものだった。だから、貴方の魂は激しく摩耗したのよ」
図星だった。監視塔での戦いでも、カイは敵の魔法を消すために、自分の魂という絶縁体を全開にしてぶつけていた。走ってくる車を、生身で受け止めるような荒技だ。
「……じゃあ、どうすればいい?」
「結果を壊すんじゃないわ。結果に至るまでの『構成式』を読み取りなさい」
ソフィアはチョークで、線の上に描かれた一つの丸――結び目をピンポイントでバツ印で消した。
「相手がどんな物理法則を呼び出そうとしているか。そのプロセスの中で、一番脆い『継ぎ目』はどこか。そこを、貴方のその右腕で、正確にほどいてやるのよ」
カイは、自らの右腕――鋼鉄と聖銀で構成された義手を見つめた。指先を動かすと、わずかな駆動音と共に、冷たい金属の感触が脳にフィードバックされる。ヴォルグが作り上げたこの腕は、ただの鈍器ではない。世界の不具合をこじ開けるための、精密な工具だ。
「……中身の配線を一本抜くだけで止まる機械を、俺はわざわざ爆破していたようなものだってことか」
「そういうこと。教会の聖譜は、マニュアル通りにしか動かない分、途中のプロセスに物理的な『楔』を打ち込まれれば、途端にエンストを起こすわ」
ソフィアは黒板消しでチョークの線を一息に消し去り、満足そうに微笑んだ。
「貴方はもう、ただの破壊者じゃない。世界の歪みを的確に直し、偽りの奇跡を停止させる、最高の『修復者』になるのよ」
「……修復者、ね」
カイは苦笑しつつ、ノートのページをそっと撫でた。数十年前、この文字を書いた一ノ瀬賢治も、きっと同じように世界を観察し、この狂った理屈に立ち向かおうとしていたのだろう。彼にはそれを実行する力がなかった。だが、俺にはある。
「分かったよ。力任せの喧嘩は卒業だ。……相手の『構成式』を読み解く。そういうことだな」
「ええ。でも、言うほど簡単じゃないわよ。実戦の中で、コンマ数秒で相手のプロセスを逆算しなきゃいけないんだから」
「だから、あんたがいるんだろ。ナビゲーター」
カイが口角を上げて言うと、ソフィアは少しだけ目を丸くし、それからふわりと笑った。
「ええ、任せて。私の眼で、この世界のどんな聖譜も、丸裸にしてあげるわ」
カイはノートを閉じ、立ち上がった。右腕の義手が、主の意志に応えるように、プシューッとわずかな排気音を立てる。
教会の聖譜は、ただの「燃費の悪いパッケージ」だ。その中身さえ分かれば、恐れることはない。聖譜という虚飾を剥ぎ取り、物理法則という絶対のルールの前に引きずり出せば、勝機は必ずある。
「さあ、実習の続きといこうぜ。……俺の『解像度』を上げるための訓練だ」
カイの言葉に、ソフィアが嬉しそうに頷き、外典の次のページを捲った。
地下の解析室に、紙の擦れる乾いた音が響く。外でどれほどの脅威が迫っていようと、今はただ、目の前の数式を一つずつ解き明かすことだけが、彼らにとっての確かな戦いだった。




