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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
静寂と胎動

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第49話 過去からの手紙

 決戦の時は、刻一刻と迫っていた。地下施設『ハビタ・ゼロ』のブリーフィング・ルーム。作戦開始までのわずかな待機時間、カイは部屋の隅にあるパイプ椅子に腰掛け、膝の上に置いた一冊のノートを見つめていた。


 湿気で波打ち、背表紙が擦り切れた大学ノート。ソフィアから託された、彼女の祖父・一ノ瀬賢治の遺品である『外典』だ。数日前、このノートに書かれた元素周期表を見て、ソフィアと語り合った。科学という共通言語で、世界を解明しようとした先人の記録。カイにとって、この世界で唯一「正解」が書かれている教科書のようなものだ。


「……先輩」


 カイは小さく呟き、ノートを開いた。これまでは、この世界の魔法を物理法則に翻訳するための「辞書」として、必要な数式や図表だけを拾い読みしていた。だが今は、もっと別の何か――この過酷な世界で、たった一人で理性を保ち続けた男の「心」に触れたいと思った。これから死地に向かうにあたり、同じ絶望を見た人間の言葉が必要だった。


 ページを捲る。そこには、几帳面な文字で、日々の観測記録や考察が記されていた。


『重力の定数が、場所によって微妙に揺らいでいる。地脈の影響か?』 『こちらの植物は、光合成だけでなく、大気中のエーテルを直接代謝しているようだ』


 淡々とした記述。だが、その端々から、未知への驚きと、理解できない現象への焦燥感が伝わってくる。カイは、ページをめくる手を止めなかった。物理の式、化学反応図。そして時折挟まる、個人的な想いを綴った走り書き。


『最近は日本食が恋しい。味噌汁の味を忘れそうだ』 『今日、娘が生まれた。……この子が大きくなる頃には、世界を元に戻せるだろうか』


 胸が締め付けられるようだった。彼は、ただの研究者だったのではない。望郷の念を抱え、ここで家族を持ち、それでも絶望せずにペンを握り続けた、一人の人間だったのだ。娘――つまり、ソフィアの母。その誕生を喜ぶ記述のすぐ横に、冷徹な結界の崩壊予測式が書かれている。愛と理性が、紙一重で同居していた。


 そして、ノートの最後のページ。そこには、今までとは違う、震えるような筆跡で、日本語の文章が書かれていた。


「……これは」


 カイの目が釘付けになる。それは、研究記録ではなかった。未来の誰かに宛てた、手紙だった。






『もし、このノートを読んでいる君が、私と同じ「あちら側」から来た人間であるならば。君は今、底知れない孤独の中にいるだろう』


 その一行目を読んだ瞬間、カイの周囲の音が消えた気がした。3000年の時を超えて、いや、数十年の時を超えて、先輩からの声が直接脳内に響いてくるようだった。


『この世界は美しいが、あまりにもデタラメだ。原因と結果が結びつかない。祈り一つで物理法則がねじ曲がり、論理よりも感情が優先される。私たちのような、因果律を信じる人間にとっては、ここは呼吸をするだけで魂が摩耗する、真空よりも過酷な地獄だ』


 カイは、自分の胸を押さえた。そうだ。スラムで感じたあの息苦しさ。世界中から拒絶されているような疎外感。それを、この人も感じていたのだ。


『君の魂は、きっと「硬く」なっているはずだ。環境に適応できず、混ざり合うことを拒絶し、自分を守るために殻を閉ざした「絶縁体」。こちらの住人たちは、それを「異端」と呼び、君自身もそれを「欠陥」だと感じているかもしれない』


 図星だった。カイはずっと、自分の力を呪っていた。世界と繋がれない。魔法を使えない。ただ、そこにあるものを「解体」して壊すことしかできない、バグのような存在だと。


『だが、聞いてほしい。それは欠陥ではない。この世界において、何色にも染まらない「硬い魂」を持つということは、唯一無二の才能なのだ』


 文字が、力強くなる。


『魔法とは、世界との「共鳴」だ。彼らは世界の一部となり、流れに身を任せることで奇跡を起こす。だが、流れの中にいる魚には、川の全体の形は見えない。君は違う。君は「異物」だ。川岸に立つ観測者だ。だからこそ、君だけが、この世界の狂った流れを客観的に見定め、その淀みを指摘し、修正することができる』


『世界を定義するのは、神ではない。「観測者」である君だ』


 ――観測者。その言葉が、カイの魂に突き刺さった。昔読んだSF小説や科学雑誌のコラムにあった言葉だ。「シュレーディンガーの猫」。箱の中の状態は、誰かが観測するまで確定しない。観測者がいて初めて、世界は形を持つ。


『君の知識は、魔法を殺すための毒ではない。狂った演奏を正し、あるべき旋律を取り戻すための「調律器」だ。どうか、その孤独を誇ってほしい。君がそこにいるだけで、世界は少しだけ、正しい形に戻ろうとするのだから』


 文章はそこで途切れていた。最後の日付は、彼が処刑される数日前になっている。彼は知っていたのだ。自分が志半ばで倒れることを。そして、いつか自分と同じように迷い込む後輩が現れることを信じて、このメッセージを残したのだ。


「……カイ?」


 ふと、声をかけられた。顔を上げると、ソフィアが心配そうに覗き込んでいた。彼女はすでに白衣の上から防護用のケープを羽織り、首元には『観測鏡スペクトル・スコープ』を下げている。


「……ああ。分かったよ、先輩」


 カイは日本語で呟き、静かにノートを閉じた。俺は、迷子じゃない。ただの被害者でもない。この世界が間違っているなら、それを「間違いだ」と指摘するために来たんだ。


「ソフィア。……おじいさんは、すごい人だったんだな」


「ええ。……何か、ヒントは見つかった?」


「ヒントどころじゃない。……『答え』をもらったよ」


 カイは立ち上がった。右手の義手が、駆動音と共に強く握り込まれる。絶縁体上等だ。異物で構わない。俺が世界と混ざり合えないのは、俺が世界を「外側」から修理するための、そういう仕様なんだ。


「行こう、ソフィア。みんなが待ってる」


 カイの顔から、悲壮感は消えていた。あるのは、これから行う大仕事に臨む職人のような、静かで確かな自信だけ。






 作戦室の中央には、立体的な光の地図が浮かび上がっていた。指揮官のゲルハルトが、厳しい表情で地図上の一点を指し示す。


「目標はここだ。スラムの北東、廃棄された教会の監視塔」


 地図上の赤い点が点滅している。


「シエロの解析により、ここが敵の探査術式『ソナー』の中継点であることが確定した。塔の内部には、高密度のエーテル結晶が埋め込まれ、増幅器として機能している」


「つまり、その結晶をぶっ壊せば、敵の耳は聞こえなくなるってわけね」


 ヴァレリーが魔導ライフルの弾倉を確認しながら言う。


「ああ。敵の包囲網に穴が開く。その隙に、我々はこの拠点の遮蔽周波数を変更し、再び潜伏する」


 ゲルハルトが頷き、カイの方を向いた。


「カイ。君の任務は、塔への侵入と『核』の解体だ。塔の周囲には結界が張られている。通常の魔法では干渉できないが、君の『右手』なら物理的にこじ開けられるはずだ」


「了解」


 カイは右手の義手をさすった。ヴォルグの最高傑作。そして、一ノ瀬賢治から受け継いだ「観測者」としての意志。それらが揃った今、不可能なことなどないように思えた。


「俺が囮になって引きつける。その隙に、カイとソフィアが塔へ接近してくれ」


 ジャンが巨大な盾を背負い直して前に出る。


「僕は……ここからジャミングを行います。敵の通信を少しでも遅らせます」


 シエロもヘッドフォンを押さえて言った。全員が、自分の役割を理解し、命を懸ける覚悟を決めている。これが、組織。これが、チームだ。スラムで一人、孤独に戦っていた時とは違う。


「総員、装備を確認せよ。……作戦開始は、5分後だ」


 ゲルハルトの号令で、全員が動き出す。カイは、部屋の隅で待機していたヴォルグに声をかけた。


「親父さん。いい腕を、ありがとう」


「フン。礼を言うのは生きて帰ってからにしな」


 ヴォルグは照れ隠しのように顔を背けたが、その手には予備の冷却カートリッジが握られていた。


「オーバーヒートだけは気をつけるんだぞ。……壊したら、修理代は高くつくからな」


「肝に銘じておくよ」


 カイは苦笑して、ソフィアの方を向いた。彼女はすでに準備を整え、片目に観測鏡を装着していた。そのレンズの奥の黒い瞳が、まっすぐにカイを見つめている。


「……私の計算式は完璧よ。あとは、貴方がその通りに動けるかどうかだわ」


 いつもの減らず口。だが、その声は微かに震えていた。彼女もまた、祖父の無念を晴らす戦いに臨もうとしているのだ。


「ああ。あんたの計算に、間違いがないことは知ってる」


 カイは、鋼鉄の右拳を軽くソフィアの肩に当てた。


「俺が証明してやるよ。あんたの理論が、この世界で一番正しいってことを」


 ソフィアが、ハッとして目を見開く。そして、ふわりと柔らかく微笑んだ。


「……ええ。頼んだわよ、私の『証明者(ソルバー)』さん」


 カイとソフィア。異邦人と現地人。狙い定める照準スコープ撃鉄トリガー。二つの異なる歯車が、今、目的のためにガッチリと噛み合った。


「出撃!」


 重厚な隔壁が開く。その先にあるのは、見えない敵が潜む闇と、取り戻すべき自由への道。カイは、鋼鉄の右腕を握りしめ、力強く地面を蹴った。


(見ていてくれ、一ノ瀬さん。……あんたが信じた『観測者』の力、ここからが本番だ)


 地底の研究所が、静寂を破り、反撃の狼煙を上げる。それは、世界を修復するための、最初の一撃だった。

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