第47話 地下水路の掃除
「いい? カイ。今回の目的は二つよ」
湿った冷気と微かな腐敗臭が漂う薄暗い通路で、ソフィアが白衣のポケットに手を突っ込んだまま、指を二本立てて言った。場所は『ハビタ・ゼロ』のさらに下層、廃棄された地下水路エリア。天井からは汚水が滴り落ち、足元には正体不明の発光する苔が群生している。かつてカイがスラムで逃げ込んだ場所と似た、澱んだ空気が満ちていたが、ここはさらに深く、そして異質な静けさに包まれていた。
カイが何気なく触れた壁面は、石を積み上げたものではなく、まるで岩盤そのものを溶かして成形したような、継ぎ目のない滑らかな素材で覆われていた。
「へえ……。ここの壁、コンクリートとも違うみたいだ。つるつるしてる」
カイが壁の感触を確かめると、ソフィアが嬉しそうに眼鏡の位置を直した。
「目の付け所がいいわね。これは3000年前に滅びた超古代文明――『アルカディア』が遺したインフラよ。ヴォルグが使っていた『常温変成』技術のオリジナルね。分子レベルで結合を固定されているから、数千年経っても腐食しないし、水漏れもしない。……まさに、失われたオーバーテクノロジーの結晶だわ」
彼女はうっとりと壁を撫でている。どうやらこの場所は、彼女にとって薄暗い下水道ではなく、貴重な研究対象の宝庫らしい。
「お姫様、講義は後にしてくれよ。先客がお待ちかねだ」
前を歩くジャンが、巨大な盾を背負い直しながら苦笑した。その隣では、赤毛のヴァレリーが大型のネイルガンのような武器――魔導ライフルを点検しながら、油断のない視線を闇に向けている。
「そうそう。あたしたちは観光に来たんじゃないのよ。……ほら、目的の話をしてあげなさいよ、ナビゲーターさん」
ヴァレリーに促され、ソフィアはコホンと咳払いをし、真面目な顔に戻った。
「そうね。……目的の一つは、その新しい右腕の『慣らし運転』。ヴォルグの最高傑作が、実戦でどれだけ機能するかを確認するわ」
カイは、自分の右腕を見下ろした。黒鉄と聖銀で構成された無骨な義手。指を動かすと、わずかな駆動音と共に、内部の歯車が精密に噛み合う感触が伝わってくる。生身の腕のような温かさはないが、代わりに冷徹なまでの「硬度」がある。握りこぶしを作ると、掌の中にある感圧センサーが反応し、腕全体に微弱なエーテルの光が走るのが見えた。
「もう一つは?」
「このエリアの『掃除』よ。最近、下層からの澱の逆流が増えているの。教会の動きが活発化した影響で、地脈が乱れている証拠ね。放っておくと拠点が汚染されるわ」
「つまり、害虫駆除ってわけか」
「ええ。ただし、相手はただの虫じゃないわよ。エネルギーの残滓が凝縮して実体化した、『動く汚染物質』だと思って」
ソフィアは白衣の上から汚染防止のケープを羽織り、ポケットから取り出した無骨なゴーグル――『観測鏡』を装着した。大小様々なレンズと歯車が組み合わさったその姿は、いかにも「マッドサイエンティスト」といった風情だが、彼女がそれを着けると妙に様になっている。
「索敵開始。エーテル濃度、上昇中。……来るわよ」
ソフィアの声が低くなり、場の空気が張り詰めた。
「接敵反応あり! 前方、距離30! ……数は3、いいえ、分裂したわ。5体! 『澱』が凝縮した不定形種よ!」
闇の奥から、ズズズ……という粘着質な音が近づいてくる。懐中電灯の光が照らし出したのは、汚泥と紫色の光が混ざり合った、不定形の怪物たちだった。スラムで戦った巨大な怪物ほどのサイズはないが、その分動きが速く、獲物を溶かそうとする殺意に満ちている。壁や天井を這い回り、包囲するように展開していく。
「うわ、でっかいアメーバみたいだな。物理攻撃、効くのか?」
カイが眉をひそめると、ジャンが前に出て盾を構えた。
「試してみるさ。……お出ましだぜ! 歓迎してやろうか!」
先頭の怪物が、鞭のように触手を伸ばしてジャンを襲う。その速度は、人間の反射神経を軽く超えていた。だが、ジャンは動じない。
「『衝撃反射』ッ!」
ドォォォン!!
触手が盾に触れた瞬間、爆発音のような轟音が響いた。ジャンの能力が発動し、盾が受けた物理的な衝撃を、鏡のようにそのまま相手へと跳ね返したのだ。自分に向けられた攻撃を、そのまま相手に返すカウンター。触手は弾き返され、怪物自身の体を打ち据えた。
「オラオラ! 俺の筋肉は物理法則も弾き返すぜ!」
ジャンが豪快に笑う。だが、怪物はダメージを受けた様子もなく、ドロリとした体を再構築して再び襲いかかろうとする。
「チッ、やっぱり打撃じゃ決定打にならねえか! 中身が液体だから衝撃が抜けちまう!」
「どきな、ジャン! あたしが焼く!」
ヴァレリーが前に飛び出し、ライフルの銃口を向けた。
「……お出ましね。通電させるわよ!」
バチィッ!!
引き金が引かれると同時に、銃口から青白い稲妻がほとばしった。弾丸ではない。彼女自身のエーテルを増幅し、電気抵抗の低いルートを強制的に作り出す『導電路』の一撃だ。電撃は水路の水気を伝って拡散し、五体の怪物たちを網目のように包み込む。
「ギ、……ギギ……ッ!?」
怪物たちの体が激しく痙攣し、動きが止まる。紫色の表面が焦げ、嫌な臭いが立ち込める。
「やったか?」
「いいえ、まだよ! コアが残ってる!」
ソフィアが叫ぶ。彼女の観測鏡越しには、電撃を受けてもなお脈動を続ける、怪物の核が見えているのだ。物理は効かない。魔法も、表面を焼くだけでは再生される。完全に消滅させるには、その構造維持機能を断つしかない。
「ジャン、前衛維持! ヴァレリーは牽制を続けて! ……カイ、準備はいい?」
ソフィアがカイの方を向いた。
「ああ。……足手まといにはならないようにするよ」
カイは右腕の義手を構えた。スラムでは、たった一人で怪物と対峙した。守るべきものを背負い、自分の身を削りながら。だが今は違う。背中を預けられる仲間がいる。そして、魂を焼かずに済む「武器」がある。
「今よ、カイ! 敵の核が露出したわ! ……前方2時の方向、一番大きく脈動している箇所! 構造上の継ぎ目を狙って!」
ソフィアの指示が飛ぶ。カイの目には数値的な座標は見えないが、彼女の言葉を頼りに凝視すると、自分自身の感覚でも敵の「構造」が見えてきた。電撃によって麻痺した怪物の粘液質の体の奥、不規則に明滅するエネルギーの結び目。あそこが、この現象を維持している特異点だ。
(……見える。あそこが『急所』だ)
カイは地面を蹴った。以前なら、この距離を詰めるだけで恐怖に足がすくんだかもしれない。だが今のカイには、鋼鉄の右腕がある。
怪物が最後の悪あがきで、酸の飛沫を飛ばしてくる。カイは避けなかった。右腕を前に出し、盾にする。ジュッ、と音がして塗装が焼けるが、それだけだ。聖銀のコーティングと排熱機構が、敵の魔力を霧散させている。
(熱くない。……これなら!)
カイは怪物の懐に飛び込んだ。右手の義手が唸りを上げる。内蔵された歯車が高速回転し、カイの魂から溢れる「拒絶」のエネルギーを吸い上げて、破壊的な振動へと変換していく。ドクン。義手と魂がリンクする感覚。まるで血管が金属の中に伸びていくような、奇妙な一体感。
「事象解体ッ!!」
カイは、義手の爪を怪物の核へと突き立てた。物理的な打撃ではない。定義の書き換え。『結合』しているエネルギーを、『切断』する。
ガギィィィン!!
義手の内部で、凄まじいスパークが弾ける。本来ならカイの魂を焼き尽くすはずの反動。だが、今回は違う。
プシュゥゥゥゥ――ッ!!
義手の肘部分にある排気口が開き、余剰な熱エネルギーが真っ白な蒸気となって勢いよく噴出した。ヴォルグの設計した排熱機構が、完璧に機能したのだ。
蒸気の噴出音と共に、怪物の核が粉々に砕け散った。核を失った怪物の体は、維持する力を失い、ただの汚い泥水となって地面に崩れ落ちる。
「……次ッ!」
カイは止まらない。蒸気を纏ったまま、次の標的へと転じる。ソフィアの声が響く。
「右側、天井付近! 収縮しようとしてるわ、核を逃さないで!」
ジャンの盾が敵の攻撃を弾く。
「オラよッ!」
ヴァレリーの雷撃が敵を釘付けにする。
「逃がすもんですか!」
連携。カイは、その中心で「解体」という一点に集中する。次々と核を握りつぶし、泥へと還していく。
最後の怪物が崩れ落ちた時、地下水路には静寂と、白い蒸気だけが残された。
「……ふぅ」
カイは残心し、蒸気を上げる右腕を見つめた。指先がわずかに痺れているが、以前のような「魂が削れる感覚」はない。ヴォルグの言った通りだ。この義手は、俺の過剰な出力を受け止め、熱として外へ逃がしてくれる。
「やるじゃない、新入り!」
ヴァレリーが口笛を吹いて賞賛し、バシッと背中を叩いてきた。
「あたしの雷撃でも焼き切れなかった核を、素手で握りつぶすなんてね。ホント、デタラメな力だわ」
「ナイスだ、カイ! まさか一撃で消し飛ばすとはな。俺たちの出番がなくなるぜ」
ジャンも親指を立ててニカっと笑った。
「……みんなのおかげだよ。動きを止めてくれたから、狙いやすかった」
カイは素直に答えた。一人なら、避けるのに精一杯だっただろう。だが、ジャンが守り、ヴァレリーが止め、ソフィアが視る。この分業体制があれば、カイは自身の役割に特化できる。孤独なサバイバルではない、チームとしての戦い。
「データ収集完了。……出力係数、冷却効率ともに良好よ」
ソフィアが手元のメモ帳にペンを走らせながら、満足そうに頷いた。
「ただ、少し『握り込み』が甘い気がするわね。あとコンマ二秒早く核を捉えられれば、蒸気の排出量をもっと抑えられるわ。それに、踏み込みの角度も……」
「鬼教官だな、先生は」
カイが苦笑すると、ソフィアは眼鏡の位置を直してふふんと鼻を鳴らした。
「当然よ。貴方は私たちの切り札なんだから、完璧に使いこなしてもらわないと困るわ。……でも、合格点はあげておくわ」
その言葉に、嫌味はなかった。あるのは信頼と、共に戦う仲間としての期待。スラムで感じていた孤独感――「自分だけが異物である」という疎外感は、ここにはない。異物であることを前提に、それをどう活かすかを考えてくれる場所。
(……悪くないな)
カイは、蒸気の晴れた地下水路を見渡した。澱んだ空気はまだ残っているが、少なくとも脅威は去った。
「さあ、掃除は終わりよ。戻ってゲルハルトに報告しましょう」
ソフィアが踵を返す。カイたちもそれに続こうとした時だった。
ザッ。
不意に、カイの足が止まった。地下水路の奥。闇の向こう側から、微かな風が吹いてきた気がした。それは湿った腐敗臭とは違う、どこか乾いた、人工的な匂い。そして、肌を刺すような微弱な「視線」のようなもの。
「……カイ? どうしたの?」
ソフィアが不思議そうに振り返る。
「いや……なんでもない。気のせいだ」
カイは首を振り、仲間たちの後を追った。まだ、敵の姿はない。あの『エクリプス』とやらがここを見つけるまでには、まだ時間の猶予があるはずだ。だが、右腕の義手が、微かに熱を持って疼いた気がした。それは、遠くから迫りくる嵐を知らせる、本能的な警告だったのかもしれない。
一行は『ハビタ・ゼロ』へと帰還する。束の間の勝利と安息。だが、地上の教会では、すでに決定的な歯車が回り始めていたことを、彼らはまだ知らない。




