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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
静寂と胎動

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第44話 穏やかな食卓

 ソフィアと共に『解析室・第一』を出たカイを待っていたのは、鼻腔をくすぐる暴力的なほどの「芳香」だった。それは薬品の刺激臭でも、スラムの淀んだ腐敗臭でもない。もっと根源的で、かつて当たり前のように享受し、この世界に来てからは一度も嗅ぐことのなかった匂い。


「……これ、シチューか?」


 カイの腹が、返事をするかのように盛大に鳴った。隣を歩くソフィアが、くすりと笑う。


「正解よ。今日は『豊穣の日』……週に一度、備蓄庫の新鮮な野菜を使うことが許される日なの。貴方、運がいいわね」


「野菜……この地下でか?」


「ええ。地熱と紫外線ランプを使った水耕栽培プラントがあるの。味は地上の太陽を浴びたものには劣るけれど、泥水よりはマシよ」


 泥水。その単語に、カイはスラムでの日々を思い出した。毒をろ過し、硬いパンをふやかして食べた、あのギリギリの食事。あれはあれで、命を繋ぐ尊い味だった。だが、今のカイの体が求めているのは、もっと人間らしい「滋養」だった。


 二人は、配管が剥き出しの通路を抜け、開けた空間へと出た。そこは『ハビタ・ゼロ』の食堂だった。無骨な長机が並び、作業服を着た技師や、武装を解いたレジスタンスのメンバーたちが思い思いに食事を摂っている。食器が触れ合う音。話し声。笑い声。スラムの広場にあった、死を待つだけの静けさとは違う。ここには「生活」があった。


「おーい! こっちだ、カイ! お姫様!」


 部屋の奥から、野太い声が飛んできた。一番大きなテーブルで、山盛りのパンを片手に手を振っているのは、護衛役の巨漢、ジャンだ。


「……まったく。声が大きいわね、彼は」


 ソフィアが呆れ顔で溜息をつくが、その足取りは軽い。カイたちはカウンターで食事を受け取り、ジャンの待つテーブルへと向かった。


 テーブルには、ジャンの他にも数人の先客がいた。


「ようこそ、噂の『修復者』さん。随分と待たせたわね」


 声をかけてきたのは、燃えるような赤毛をショートカットにした女性だった。年齢は二十代半ばだろうか。着崩したジャケットの下には、機能的なタンクトップ。首元にはゴーグルをぶら下げている。その瞳は肉食獣のように鋭いが、口元には人懐っこい笑みが浮かんでいた。


「あ、どうも……」


 カイが挨拶しようと席に着こうとした、その瞬間だ。


「捕まえた!」


 女性が、獲物を狩るような敏捷さでカイの隣に滑り込み、いきなりその左腕に抱きついてきた。


「うわっ!?」


 カイは驚いてのけぞりそうになるが、女性の腕力は驚くほど強かった。柔らかい感触と、温かい体温が伝わってくる。だが、それ以上にカイが感じたのは、奇妙な「流動」だった。


バチッ、パチパチ……。


 彼女の体から、微弱な電気がカイの体へと流れ込んでくる。だが、痛みはない。カイの魂という「絶縁体」が、それを無害な熱として拡散させているようだ。


「はぁ〜……。やっぱり、すごいわ。アース線としては最高性能ね」


 女性はカイの腕に頬ずりし、とろけそうな溜息を漏らした。


「ちょ、ちょっと! ヴァレリー! 初対面の男になんて破廉恥なことを!」


 ソフィアが慌ててカイを引き剥がそうとするが、ヴァレリーと呼ばれた女性は離れようとしない。


「いいじゃない、減るもんじゃなし。あたし、もう帯電限界だったのよ。この子の『絶縁体』に触れてると、体の中に溜まった静電気がスーッと抜けていくの。……あぁ、極楽……」


「……あの、俺は避雷針か何かですか?」


 カイが困惑して尋ねると、向かいのジャンがガハハと笑った。


「悪いなカイ。こいつはヴァレリー。俺たちの副隊長だ。強力な『雷霆(らいてい)』の適性持ちなんだが、そのせいで常に体に電気が溜まっちまう体質でな。定期的に放電しねえと、神経が痛むらしい」


「そういうこと。教会の騎士なら黒焦げにしちゃうところだけど、貴方なら平気でしょ? よろしくね、新入り君」


 ヴァレリーはウィンクをして、ようやく体を離した。だが、その距離感は妙に近い。カイは少し赤面しながら、居住まいを正した。


「……久澄 解です。よろしく」


「知ってるわよ。あたしたちの命の恩人だもの」


 ヴァレリーは、テーブルの端で黙々とスープを飲んでいる少年と、その隣で無言を貫く男を指差した。


「そっちの根暗なのがシエロ。通信担当よ。で、その仏頂面がヴィクトル」


「……シエロです」


 ヘッドフォンをした少年、シエロが、おずおずと会釈した。線の細い、内気そうな少年だ。その耳元のヘッドフォンは、音楽を聴くためではなく、外の音を遮断するためのものに見えた。


「……ヴィクトルだ」


 灰色のフードを被った男が、短く答えた。スラムでカイを回収してくれた、あの男だ。彼の片目には、ソフィアと同じような機械仕掛けの義眼が嵌め込まれている。


「彼らがあたしの自慢のチーム、『アカデミア・ロゴス』の実働部隊よ。ま、頭脳労働はそこのお姫様に任せて、あたしたちは泥仕事専門だけどね」


 ヴァレリーがソフィアを顎でしゃくると、ソフィアは不満そうに鼻を鳴らした。


「誰がお姫様よ。……さあ、カイ。冷めないうちに食べなさい。エンジンの暖機運転には、良質な燃料が必要よ」


 促され、カイはスプーンを手に取った。目の前には、湯気を立てるクリームシチューと、焼きたてのパン。シチューの中には、ゴロゴロとしたジャガイモや人参、そして鶏肉のような塊が入っている。


 一口、スープをすくって口に運ぶ。


「……!」


 温かい。そして、味がする。塩気。ミルクの甘み。野菜の旨味。スラムで食べた「毒を抜いただけの泥水」や「化学実験で柔らかくしただけのパン」とは違う。これは、誰かが「美味しくあれ」と願って作った、料理の味だ。


「……美味い」


 カイの口から、自然と声が漏れた。すると、テーブルの全員が、どこか安堵したような表情を浮かべた。


「そうだろう? ここの飯は、地上の高級レストランにも負けねえよ」


 ジャンが自分の皿の肉を豪快に頬張りながら言った。


「しっかり食えよ。片腕なくしたばかりで、血が足りてねえんだろ。これからは俺たちが背中を守ってやるが、立つのは自分だからな」


「……ああ」


 カイはパンをちぎり、シチューに浸して食べた。胃の中に温かいものが落ちていく。その熱が、手足の先まで染み渡り、スラムでの戦いで凍りついていた何かを溶かしていくようだった。


「ねえ、カイ」


 ヴァレリーが、頬杖をついてカイを見つめた。


「あんたのその『解体』って力、すごかったらしいわね。クレドの魔法を真正面からぶち破ったって?」


「……破ったんじゃない。ただ、波長を合わせて打ち消しただけだよ」


「それを『破った』って言うのよ。……あたしたちはね、ずっと苦戦してたの。教会の連中は、システマチックに魔法を使ってくる。個人の力じゃ勝てても、軍団で来られると押し負ける」


 ヴァレリーの目が、真剣な色を帯びた。


「あたしの電気も、ジャンの反射も、強力だけど『燃費』が悪い。長期戦になるとジリ貧なのよ。でも、あんたがいれば話が変わる」


 彼女は、カイの左手――スプーンを持つ手を指差した。


「あんたは、相手の魔法そのものを『無効化』できる。それって、あたしたちにとっちゃ最高の盾であり、最強の矛になるわ」


「……責任重大だな」


「そうよ。だから、しっかり食べて、早く体を治しなさい。あたしの『避雷針』役も兼ねてね」


 ヴァレリーが再びカイの肩に手を回し、静電気を流し込んでくる。カイは苦笑したが、拒絶はしなかった。スラムでは、カイの「絶縁体」という性質は、他者を傷つけ、拒絶する呪いだった。エルマに触れることさえ躊躇われた。だがここでは、その性質が仲間を助け、必要とされる理由になっている。


(……アース、か)


 過剰なエネルギーを逃がし、全体を安定させる役割。悪くない響きだ。


「……あの」


 それまで黙っていたシエロが、ボソリと口を開いた。


「カイさんの……声」


「え?」


「カイさんの魂の音……すごく、静かです。……ホワイトノイズみたいで、落ち着きます」


 シエロはヘッドフォンの位置を直しながら、はにかむように笑った。


「僕、耳が良すぎて……みんなの『音』がうるさくて疲れるんですけど。……カイさんの周りだけ、静寂なんです」


「……そうか。なら、いつでも側にいていいぞ」


「は、はい……!」


 シエロが嬉しそうに頷く。ヴィクトルも、無言のまま自分のパンを半分にちぎり、カイの皿に置いた。


「……食え。身体を作る」


「あ、ありがとう……」


 不器用な優しさ。カイは、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。ここは、レジスタンスのアジトだ。明日をも知れぬ反逆者たちの巣窟。だが、ここには確かに「食卓」があった。ガレオスたちと守りたかった温もり。その続きが、形を変えてここにあった。


「さて、食事の手を止めて悪いけれど」


 ソフィアが、食べ終わった食器を片付けながら切り出した。その表情は、先ほどまでの穏やかなものから、研究者の顔に戻っている。


「ヴォルグから連絡があったわ。素材の精製が終わったそうよ」


「……もうか?」


「ええ。彼も興奮していたわ。『あんな純度の高い聖銀は見たことがない』ってね。……カイ、食事が済んだらすぐに行くわよ。貴方の新しい腕の、『調整』をしにね」


 カイは、自分の右肩を見た。失われた腕。だが、もう絶望はない。そこには新しい「可能性」が接続されようとしている。ヴォルグが作り、ソフィアが設計し、この仲間たちが背中を守ってくれる。


「ああ。行こう」


 カイは、シチューの最後の一滴まで飲み干し、力強く立ち上がった。腹は満たされた。精神も温まった。次は、身体を完成させる番だ。

 

 カイたちは食堂を後にし、再び地下通路へと歩き出した。

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