第43話 世界を記述する地図
鉄と油の匂いが充満するヴォルグの工房を後にし、カイたちは再び『ハビタ・ゼロ』の静寂な通路を歩いていた。行きとは打って変わり、帰路の空気は奇妙な高揚感に包まれていた。もっとも、そう感じているのは一人だけのようだが。
「ねえ、カイ! さっきの『ねじ』の話だけど、あれはつまり『回転運動』を『締め付け』という垂直方向の圧力に変換しているってことよね? ということは、溝の角度……ピッチを変えれば、力の伝達効率も変わるの?」
隣を歩くソフィアが、興奮冷めやらぬ様子で早口にまくしたてる。普段のクールで毒舌な研究者の姿はどこへやら、今の彼女は新しいおもちゃを与えられた子供のように瞳を輝かせていた。
「……まあ、そうなるな。ピッチが細かければ、それだけ回す回数は増えるけど、強い力で締められる」
カイが答えると、ソフィアは「素晴らしいわ!」と感嘆の声を上げて手元のメモ帳に猛スピードで何かを書き込んでいく。
「単純な構造なのに、完璧な理屈だわ。教会の聖譜なら『固定せよ』と祈ってエーテルを流し続けなきゃいけない現象を、ただの金属の形状だけで永続的に維持するなんて……! これは、聖譜よりもよほど魔法的よ!」
「お姫様、少しは落ち着けよ。カイが引いてるぜ」
後ろを歩くジャンが、やれやれといった顔で肩をすくめた。
「悪いな、カイ。こいつ、スイッチが入ると周りが見えなくなるんだ。……ま、それだけあんたの持ってきた知識が、俺たちにとっちゃ衝撃的だったってことだが」
「いや……役に立つならよかったよ」
カイは苦笑した。自分にとっては当たり前の高校物理や技術家庭科の知識が、この世界では革命的な技術として扱われる。そのギャップに戸惑いつつも、自分の持っているものが単なる「破壊の力」だけではないことに、少しだけ救われる思いがした。
一行は居住区画を抜け、再びソフィアの拠点である『解析室・第一』へと戻ってきた。重厚な鉄扉が開き、古紙の匂いが漂う書庫へと足を踏み入れる。
「さあ、座って。ヴォルグが義手を完成させるまでには、まだ時間がかかるわ」
ソフィアは白衣を翻してデスクの前の椅子に座ると、カイを向かい側の席に促した。そして、期待に満ちた瞳でカイの泥だらけの鞄を見つめた。
「約束通り、教えてちょうだい。……貴方の世界の『理屈』を」
カイは頷き、鞄から先ほど託されたばかりの一冊のノート――一ノ瀬賢治の遺した『構造解析・備忘録』を取り出した。ずしりと重いそのノートをデスクに広げ、あるページを開く。そこには、手書きのマス目が並び、アルファベットの記号が規則正しく配置された表が描かれていた。
H, He, Li, Be, B, C, N, O, F, Ne……。
「これよ。おじい様が最期まで研究していたこの図表。……貴方なら、これが何を意味するのか分かる?」
カイは、懐かしさに目を細めた。見間違えるはずがない。化学の授業で、語呂合わせで必死に覚えたあの表だ。
「『元素周期表』だ」
「ゲンソ……シュウキヒョウ?」
ソフィアが不慣れな発音で繰り返す。
「ああ。この世界にあるすべての物質が、何でできているかを示した地図みたいなものだよ」
カイは、ソフィアからペンを受け取り、表の余白に簡単な図を描き始めた。中心に原子核があり、その周りを電子が回っている、原子のモデル図だ。
「教会の教えじゃ、世界は七つの属性……『七つの聖譜』でできているんだろ? 火とか、水とか」
「ええ。熾熱、浄玻璃、蒼天……。万物は七つの音色の組み合わせで構成されているというのが、この世界の真理よ」
「俺たちの世界じゃ、違う。もっと細かくて、もっと単純な粒の組み合わせだ」
カイは、周期表の「H」と「O」を指差した。
「例えば水だ。教会なら『水の属性』一言で片付けるかもしれないけど、俺たちの世界では、この『水素』二つと『酸素』一つがくっついて水になる」
「……性質の違う二つの粒が、結合して別の物質になる?」
「そうだ。そして、さっきヴォルグのところで話した『熱』もそうだ。熱っていう属性があるわけじゃない。この粒たちが、激しく振動してぶつかり合ってる状態を、俺たちは『熱い』と感じるんだ」
カイの説明を聞きながら、ソフィアの表情が凍りついたように真剣なものへと変わっていく。それは理解できないからではない。あまりにも深く、腑に落ちてしまったからの衝撃だった。
「振動……。だから、貴方はあの時言ったのね。『熱を逃がすには表面積が必要だ』と」
ソフィアは震える指で、ノートに書かれた祖父の走り書きをなぞった。
『聖譜は現象の上書きではない。ミクロな世界への干渉だ』
「おじい様が言いたかったのは、こういうことだったのね……。教会は『火よ出ろ』と神に祈って、結果だけを求めている。でも、この表は『なぜ火が出るのか』という、世界の根源的な仕組みそのものを説明しているわ」
彼女は、一枚の紙きれに描かれた周期表を、まるで世界地図か、あるいは神の設計図を見るような瞳で見つめた。
「美しいわ……。たったこれだけの表で、森羅万象を記述できるなんて」
感動に打ち震えるソフィアを見て、カイは不思議な感覚を覚えた。学校の授業では、ただの退屈な暗記対象でしかなかった周期表。だが、この世界においては、それは宗教的な教義を打ち砕く、あまりにも鮮烈な「真理の剣」なのだ。
「……すべての現象が『粒子の振動』で説明できるなら、私たちの魂が放つ『波形』も、同じ理屈で説明できるかもしれない」
ソフィアはふと顔を上げ、何かを思いついたようにカイを見た。
「カイ。さっきヘレナのところで、エリスに治療してもらった時、どう感じた?」
「え? ……ああ、すごく楽になったよ。頭痛が引いていくような……不思議な歌声だった」
「そう、歌声。彼女は『音』で貴方の魂の振動を整えたのよ」
ソフィアはペンを手に取り、周期表の横にギザギザとした乱れた波線を描いた。
「怪我や痛みがある時、魂の波形はこんな風に乱れているわ。教会の聖譜なら、ここに『治れ』という命令を上書きして無理やり塞ぐけれど、エリスの力は違う」
彼女は乱れた波線の上に、もう一本、滑らかな曲線を重ねて描いた。二つの線が寄り添い、やがて一本のきれいな線へと収束していく図。
「彼女は教会の教えを介さず、自分の魂が生まれつき持っている『固有の音色』を共鳴させて、乱れた波形を本来の形へと誘導したの。……熱が粒子の振動なら、癒やしは『調律』よ」
「調律……」
「そう。ピアノの音を整えるように、貴方の魂のノイズをきれいな和音に変えた。……私たちはこれを、聖譜と区別して『能力』と呼んでいるわ」
ソフィアは、傍らで退屈そうにあくびをしていたジャンを指差した。
「ジャンの『衝撃反射』もそうよ。聖譜みたいに複雑な手順を踏んで障壁を作るんじゃなくて、自分に向けられた運動エネルギーを、鏡みたいにそのまま跳ね返すだけ。単純だけど、だからこそ強い」
「おいおい、単純って言うなよ。俺だってタイミングとか気にしてんだぜ?」
ジャンが苦笑する。カイは納得した。エリスの調律、ジャンの反射。どちらも、教会の「聖譜」というアプリを使わず、魂の特性をそのまま物理現象として出力している。
「そして、貴方の『事象解体』もね」
ソフィアは、カイの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺の力は、エリスのみたいに優しいもんじゃない。もっとこう、無理やり止めるような……」
「ええ。エリスが『調律』なら、貴方の力は『停止』よ」
ソフィアは、先ほど描いた波線の上に、定規で引いたような一直線を書き込んだ。全ての波を断ち切り、ゼロにする線。
「貴方の魂は『絶縁体』……つまり、振動そのものを拒絶する性質を持っている。だから、相手の聖譜がどんなに複雑な和音でも、貴方が触れれば、弦そのものを押さえ込んで音を止めてしまう」
ソフィアの説明は、カイの中で燻っていた疑問を氷解させた。エリスは波に寄り添い、カイは波を止める。真逆だが、どちらも「教会の用意した聖譜」を使わず、魂の特性だけで現象に干渉している点では同じだ。
「……なるほどな。俺は、魔法使いにはなれないわけだ」
「悲観することはないわ。魔法使いは、用意された呪文しか唱えられない。でも貴方は、物理法則という『言語』を使って、自分で呪文を作ることができる」
ソフィアは、机の上の周期表を指先で叩いた。
「この表が、貴方の魔導書よ。……ねえ、カイ。私にもっと教えて。貴方の世界の『物理』を」
彼女の瞳は、知識への渇望で燃えていた。
「貴方が『エンジン』なら、私は『ナビゲーター』になるわ。貴方の出力を、この世界で最も効果的に振るうための理論を、私が組み立ててあげる」
カイは、目の前の少女を見た。彼女は、この異世界で初めて、カイの知識を「異端」ではなく「武器」として認めてくれた。孤独だった異邦人の魂が、初めて「役割」というソケットにカチリと嵌まる音がした気がした。
「……ああ。分かったよ、先生」
カイはニヤリと笑った。
「まずは『原子』の構造からだ。ここを理解しないと、電気も熱も語れないからな」
「望むところよ。朝まで付き合ってあげる」
そこから、奇妙な講義が始まった。講師は、片腕を失った異世界の少年。生徒は、教会の教えに反逆する異端の研究者。教科書は、ボロボロの大学ノートと、一枚の周期表。
原子核。電子軌道。共有結合。カイが語るたびに、ソフィアは感嘆の声を上げ、それを自分たちの世界の魔導理論へと翻訳していく。
「……信じられない。水を電気で分解すると、水素と酸素に戻る? つまり『水属性』は『火属性の原料』を含んでいるということ?」 「そうなるな。だから、水を掛けても消えない火災ってのがあるんだ」 「なんてこと……。教会の『属性相克』の図式が、根底から覆るわ……!」
時間は瞬く間に過ぎていった。窓のない地下室で、二人は時間を忘れて「世界の解剖」に没頭した。それは、来るべき戦いに備えた作戦会議であり、同時に、異なる世界に住む二人の魂が、知識という共通言語を通じて共鳴し合う、静かで熱い儀式でもあった。
グゥゥゥ……。
不意に、間の抜けた音が静寂を破った。カイの腹の虫だ。緊張が解け、頭を使ったことで、身体が猛烈にエネルギーを欲し始めたのだ。
「……あー、悪い」
カイが赤面して頭をかくと、ソフィアもきょとんとした後、クスクスと笑い出した。
「ふふっ。そうね、エンジンには燃料が必要だわ。……そろそろ食堂に行きましょうか。ジャンたちも待っているはずよ」
ソフィアは名残惜しそうにノートを閉じた。その顔には、研究者の冷徹さはなく、年相応の少女の柔らかな表情が浮かんでいた。
「ありがとう、カイ。……貴方のおかげで、霧が晴れた気がするわ」
「こっちこそ。……話が通じる相手がいるって、こんなに楽なんだな」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。部屋を出る。次は食事だ。スラムの泥水とは違う、まともな食事が待っているはずだ。そして、そこには新しい仲間たちがいる。
カイの足取りは、ここに来た時よりも、ほんの少しだけ軽くなっていた。失った右腕の代わりとなる「鋼鉄の牙」が完成するまで、あと少し。反撃の準備は、着々と整いつつあった。




