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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
静寂と胎動

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第41話 身体機能の再定義

 ソフィアに連れられ、カイは地下施設の奥へと進んでいた。先ほどの書庫のような静謐さは消え、鼻をつく刺激臭――消毒用アルコールと、何かを焦がしたような化学的な匂いが漂い始める。


「……臭うな」


 カイが鼻をすすると、隣を歩くソフィアが肩をすくめた。


「ヘレナの領域だからね。彼女、ヘビースモーカーなのよ。この『清浄区画(クリーン・エリア)』で、唯一タバコを許されている悪癖の持ち主」


 呆れたように言うソフィアの前で、自動ドアが左右に開いた。中から吐き出されたのは、紫煙と、気怠げな女性の声だった。


「……また、面倒な検体を連れてきたわね、お嬢様」


 部屋の中は、実験室と手術室を足して二で割ったような空間だった。ステンレス製の台の上には、ビーカーやフラスコが並び、色とりどりの液体が沸騰したり、沈殿したりしている。壁には人体解剖図――ただし、血管の代わりに光のラインが走る奇妙な図面――が貼られ、部屋の隅には診察台らしき無骨なベッドが置かれていた。


 その中央、回転椅子に深く腰掛けて足を組んでいる女性がいた。紫煙をくゆらせる細い指。白衣の下はラフなシャツ一枚。目の下には濃い隈があり、見るからに不健康そうだが、その瞳だけはメスのように鋭く光っている。


「初めまして、修復者(レパラトル)。噂は聞いてるわよ。聖騎士団の鎧を紙屑みたいに引き裂いたってね」


 女性はタバコを灰皿に押し付けると、気怠げに立ち上がった。


「私はヘレナ。ここの医療主任だ。……まあ、医者というよりは、配管工に近いけどね」


「配管工?」


「ええ。ここの連中の体は、魔法の使いすぎでボロボロのパイプみたいになってるから。詰まりを取ったり、継ぎ目を塞いだりするのが私の仕事」


 ヘレナはカイの右肩――失われた腕の断面を一瞥し、鼻を鳴らした。


「……酷いもんだわ。よく生きてるわね、これ」


「そんなに悪いのか?」


「悪いなんてもんじゃない。座りなさい」


 促され、カイは診察台に腰掛けた。ヘレナは聴診器のような器具を取り出したが、それを耳に当てるのではなく、コードの先を巨大な水槽のような装置に接続した。水槽の中には透明な液体が満たされている。


「深呼吸して。貴方の魂の『排熱』を測るわ」


 ヘレナが冷たい聴診器の先端を、カイの胸に押し当てた。瞬間、水槽の中の液体が、バチバチと音を立てて激しく泡立ち、赤黒く変色した。


「……!」


 カイは驚いて身を引こうとしたが、ヘレナの手がそれを制した。


「動かないで。……やっぱりね。計測不能だわ」


 ヘレナは淡々と告げ、モニター代わりの石板に数値を書き込んでいく。


「カイ。貴方の体は今、常に『微熱』があるでしょう?」


「……ああ。風邪を引いた時みたいな、体の芯が重い感じがずっと続いてる」


「それは風邪じゃない。『魂蝕(こんしょく)』よ」


 魂蝕。聞き慣れない単語に、カイは眉をひそめた。


「貴方の魂は『絶縁体』……つまり、この世界のエーテルを通さない。でもね、通さないってことは、常に周囲の世界と『摩擦』を起こしてるってことなのよ」


 ヘレナは分かりやすく説明するために、二つの石を取り出して擦り合わせた。ガリガリと不快な音が鳴る。


「普通の住人は、水に溶けるように世界と馴染む。でも貴方は、水の中にある石ころよ。じっとしていても水流とぶつかり、動けばさらに激しい渦を作る。その摩擦熱が、貴方の魂を内側から削り、肉体を焦がしているのよ」


 カイは、自分の胸元を握りしめた。スラムで感じていた、あの鉛のような倦怠感。魔法を使おうとするたびに襲ってくる頭痛。それは、俺という異物がこの世界に存在することの「代償」そのものだったのか。


「……治療法は?」


「ないわ」


 ヘレナは即答し、新しいタバコに火をつけた。


「貴方の魂の構造を変えることはできない。それをすれば、貴方は貴方でなくなる。できるのは、『冷却』することだけ」


 彼女は煙を天井に吐き出し、部屋の奥へ声をかけた。


「エリス。出番よ。この焼けた石を、少し冷やしてあげて」


 部屋の奥、カーテンで仕切られたスペースから、一人の少女がおずおずと出てきた。修道服のような簡素な服を着ている。目元には包帯が巻かれ、手には白杖を持っていた。


「……失礼、します……」


 少女――エリスは、足音を確かめるように慎重に近づいてきた。その所作は頼りなげだが、カイの方へ向ける顔には、目が見えないはずなのに確かな焦点があった。


「初めまして、カイ様。……貴方の『音』が、とても辛そうに聞こえたので……」


「音?」


「エリスは目が見えない代わりに、『共感覚』を持っているの。生体電流や魂の波形を、音や色として感じ取れるのよ」


 ソフィアが横から補足した。エリスはカイの前に立つと、そっと両手を伸ばした。


「……触れても、いいですか?」


「……ああ。でも、静電気が起きるかもしれない」


 スラムでの経験から、カイは反射的に身構えた。俺の魂は人を拒絶する。だが、エリスはふわりと笑った。


「大丈夫です。……貴方の魂は、とても静かで、きれいな音をしていますから」


 彼女の冷たい指先が、カイのこめかみに触れた。ビクリと体が跳ねる。だが、痛みはなかった。代わりに、冷たい水が頭のてっぺんから染み込んでくるような、不思議な感覚が広がった。


「……あ……」


 カイの口から、自然と安堵の息が漏れた。頭痛が引いていく。体の奥で燻っていた熱が、彼女の手を通じて吸い取られていくようだ。


「……これが、『聖慈(せいじ)の譜』……?」


 カイが呟くと、エリスは首を横に振った。


「いいえ。これはただの『波形干渉』です。貴方の魂が上げている悲鳴に、私がハミングを合わせて、打ち消しているだけ」


 彼女の声は、雨音のように静かだった。教会の魔法のような、押し付けがましい「感謝」や「奇跡」の演出はない。ただ、そこにある痛みに寄り添い、静かに撫でるような優しさ。


「……すごいな。すごく、楽になった」


 カイが正直に礼を言うと、エリスは包帯の下で頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。貴方の魂は、とても硬くて、孤独な音がします。……まるで、深海にある岩のような。でも、その中心には、とても温かい熱があります」


 彼女の手が、カイの胸元へ滑り落ちる。


「……無理を、なさったんですね。誰かを守るために、ご自身を削って……」


 その言葉に、カイの脳裏にスラムでの光景が蘇った。エルマ。ガレオス。守りたかった日常。そのために失った右腕。誰にも理解されないと思っていたその痛みを、この初対面の少女は、指先一つで感じ取ってくれた。


「……ありがとう」


 カイの声が、少しだけ湿った。この地下世界に来て、初めて「武装」を解いた気がした。


「はいはい、感動の対面はそこまで」


 パン、と乾いた音が空気を変えた。ヘレナが手を叩き、現実に引き戻す。


「エリスの力で一時的にクールダウンはできる。でも、それは対症療法に過ぎないわ。カイ、貴方が戦うたびに、魂は摩耗し続ける。次に『解体』を全力で使えば、貴方は燃え尽きて消滅するわよ」


 ヘレナの言葉は冷酷な事実だった。エリスが悲しげに手を離す。再び、体の奥で微熱が燻り始めるのを感じた。


「……じゃあ、どうすればいい? 戦うなってことか?」


「まさか。貴方には働いてもらわないと困るわ」


 ヘレナは、デスクの上に置かれていた一枚の設計図をカイに投げ渡した。そこには、複雑な機械仕掛けの「義手」の図面が描かれていた。


「これよ。貴方専用の、『排熱口ラジエーター』」


「……義手?」


「ただの義手じゃない。貴方の魂とリンクして、過剰な熱を外部へ逃がすための冷却装置。そして、貴方の出力を制御するための『拘束具(リミッター)』も兼ねている」


 ソフィアが図面を指差して解説した。


「貴方の魂は『剥き出し』すぎるのよ。だから、あちら側の世界の知識で作った『蓋』が必要なの。この義手があれば、貴方は自滅することなく、その力を振るえるようになる」


 カイは図面を食い入るように見つめた。無骨な金属の骨格。蒸気を逃がすための排気ダクト。そして、指先には、あの「変異した銀」らしき素材が使われている。魔法の杖ではない。これは、科学の力で制御された、精密機械だ。


「……これを作れる奴がいるのか?」


「ええ。最高の職人がね」


 ヘレナがニヤリと笑った。


「『鉄血職人ギルド・プロメテウス』の親方、ヴォルグ。頭の固い頑固ジジイだけど、腕は確かよ。ま、貴方のその『理屈っぽい』性格なら、案外気が合うかもしれないけど」


 カイは、自分の失われた右肩に手を当てた。ここにあるはずだった腕。それを失った代わりに、新しい「武器」を手に入れる。それは、もはや人間であることを半分辞めるような選択かもしれない。だが、元の世界に帰るためなら、そして、この世界の間違いを直すためなら、機械の腕だろうと構わない。


「頼む。その親方に会わせてくれ」


 カイが顔を上げると、ソフィアが満足そうに頷いた。


「ええ。アポは取ってあるわ。行きましょう、カイ。貴方の新しい『牙』を造りに」


 カイは診察台を降りた。体はまだ重い。だが、エリスの癒やしと、ヘレナの提示した解決策のおかげで、視界はクリアだった。


「エリスさん。ありがとう。また、頼むかもしれない」


 カイが声をかけると、エリスは深々とお辞儀をした。


「はい。いつでも、お待ちしています。……どうか、ご無事で」


 その祈るような声を背に、カイは医務室を後にした。次は、工房だ。この世界で生き抜くための、鋼鉄の身体を手に入れるために。

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