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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
静寂と胎動

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第40話 外典との対面

 ゲルハルトとの契約を済ませた直後、カイはソフィアに促され、病室を出た。後に続くのは、護衛役の巨漢、ジャンだ。


「歩けるか? 無理なら担いでやるぞ」


「遠慮しとくよ。自分の足で確かめたいんだ。この場所の広さを」


 カイは、渡された杖代わりの鉄パイプを突きながら、ゆっくりと歩を進めた。『ハビタ・ゼロ』。スラムの地下深くに作られたこの拠点は、カイの想像を遥かに超える規模だった。天井を這う無数の配管からは、蒸気がシューシューと音を立てて漏れ出している。壁面には巨大な歯車がゆっくりと回転し、どこからか重低音の駆動音が響いてくる。スラムのあばら屋で見かけたような、祈りによって発動する神秘的な魔導具とは違う。ここにあるのは、もっと無骨で、油臭く、そして馴染み深い「物理法則」に従って動く機械たちだ。


「ここにある機械のほとんどは、3000年前の地下遺跡から発掘したものを、私たちが修理して使っているの」


 前を歩くソフィアが、カイの視線に気づいて説明した。


「地熱を利用した発電機。水を循環させるポンプ。教会の連中は汚れた古代の遺物として忌み嫌うけれど、私たちにとっては命綱よ」


「祈らなくても動くからか?」


「ええ。スイッチを入れれば動く。信仰心がなくても、誰にでも平等に恩恵をくれる。それって、とても素敵なことだと思わない?」


 ソフィアが振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


 やがて三人は、通路の奥まった場所にある、重厚な鉄扉の前で立ち止まった。扉には、『解析室・第一』と記されたプレートが掲げられている。


「入って。ここが私の城であり……貴方の先輩が眠る『墓標』でもあるわ」


 ソフィアが電子ロックのようなパネルを操作し、扉が開く。中から漂ってきたのは、古紙特有の乾いた匂いと、わずかな埃っぽさだった。


 そこは、研究室というよりは書庫に近かった。壁一面を埋め尽くす本棚には、羊皮紙の束や石板だけでなく、明らかに異質な――紙で作られた本やファイルが、所狭しと並べられている。部屋の中央には大きなデスクがあり、その上には、スラムのガラクタ市でも見かけないような「奇妙な物体」が鎮座していた。


「……これは」


 カイは、吸い寄せられるようにデスクへ近づいた。そこに置かれていたのは、魔法の杖でも水晶玉でもない。プラスチックのボディが黄ばみ、角が欠けた長方形の機械。そして、分厚いケースに入った、ボタンだらけの計算機。

「カセットテープレコーダー。それに、関数電卓か」


 カイの口から、懐かしい単語が漏れた。どちらも、あちら側の世界では博物館でしか見かけないような旧式の代物だ。祖父の家の押し入れの奥で、埃を被っていた記憶がある。だが、ここでは、ガラスケースの中に大切に飾られ、スポットライトを浴びている。


「分かるのね、これが何なのか」


 ソフィアが、愛おしそうにレコーダーの再生ボタンに触れた。カチリ、と音がしたが、リールは回らない。


「『記憶の再生機(レコーダー)』と、『神の演算機(オラクル・エンジン)』。ここにあるのは全て、数十年前にこの世界へ迷い込んだ『漂流者』が遺したもの。……私のおじい様、イチノセ・ケンジの遺産よ」


「イチノセ……ケンジ」


 異世界の地下深くで聞く日本人の名前。その響きは、カイの胸を奇妙な郷愁で締め付けた。


「彼もまた、貴方と同じだったわ。魔法が使えず、言葉も分からず、それでも『知恵』だけで生き抜こうとした」


 ソフィアは、デスクの引き出しから一冊のノートを取り出した。湿気で紙が波打ち、表紙はボロボロになっているが、そこにはマジックペンで力強く『構造解析・備忘録』と書かれている。


「見てくれる? ……私たちには、解読できない箇所が多すぎるの」


 手袋をはめた手で、慎重にページが開かれる。カイは、恐る恐るその紙面を覗き込んだ。


 そこにあったのは、見慣れた日本語の走り書きだった。


『○月×日。今日も雨。紫色の雨だ。リトマス試験紙があれば酸性度を測れるのに』 『教会の連中は、これを神の涙だと言う。バカげている。これはただの汚染物質の降下だ』 『詠唱のパターンを記録した。……非効率だ。あまりにも』


 カイの目が、ある一節に釘付けになった。ページいっぱいに、怒りを叩きつけるような筆圧で書かれた数式と、その横に添えられた言葉。


『魔法は奇跡ではない。物理現象への干渉だ』 『詠唱は、儀式化された作動手順(プロセス)だ。それも、恐ろしく旧式で、冗長な』


「……プロセス……」


 カイは呟いた。現代風に言えば、マニュアルや手順書といったところか。この人は、スマホもパソコンもない時代に、紙とペンだけでこの世界の魔法を「仕組み」として解読しようとしていたのだ。


(……すごいな)


 カイはページをめくった。そこには、元素記号の周期表と、この世界の「七つの聖譜(セプテット)」を対応させた比較図が描かれていた。


 熾熱(イグニス)の譜 = 急激な酸化反応。浄玻璃(グラキエス)の譜 = 分子運動の停止。雷霆(フルグル)の譜 = 電荷の偏り。


 教会の神秘的な教えが、冷徹な化学式へと翻訳されている。それは、カイがスラムで本能的に行っていた「解体」の理論的裏付けそのものだった。


「ゲルハルトたちは、これを『神殺しの兵法書』と呼んでいるわ。でも、一番肝心な部分が、私たちには計算できない」


 ソフィアが、悔しそうにノートの後半部分を指差した。そこには、複雑な微積分の方程式が並んでいた。魔法の出力係数と、大気中のエーテル濃度の相関関係を導き出すための式だ。


「この式が解ければ、教会の結界の『ほころび』を数値的に予測できるはずなの。でも、この世界の数学じゃ、この概念を扱いきれない。……カイ、貴方なら読める?」


 ソフィアが、すがるような瞳でカイを見つめる。カイは、数式を目で追った。高校の数学で習った範囲だ。いや、一部は大学レベルかもしれないが、基礎的な物理法則が分かっていれば理解できる。


「……ああ。読めるよ」


 カイが答えると、ソフィアの表情がパッと輝いた。


「本当!? じゃあ、この『関数電卓』を使えば、答えが出るのね!?」


 彼女は、ガラスケースの中の黄色い電卓を指差して身を乗り出した。


「おじい様は言っていたわ。この『神の演算機』があれば、星の動きさえ計算できると。……でも、電池という動力が切れてしまって、もう二度と動かないの」


 カイは苦笑した。彼女の中では、この古びた電卓はスーパーコンピューター並みのオーパーツとして認識されているらしい。実際には、ただの計算機だ。だが、この世界の人々が紙とペンだけで何日もかけて解く計算を、一瞬で終わらせる魔法の道具に見えるのも無理はない。


「こいつは動かないけど、俺が代わりに計算するよ」


 カイは、自分の頭を指差した。


「式と変数が分かれば、あとは解くだけだ。……時間はかかるかもしれないけどな」


「貴方が……演算機の代わりを?」


 ソフィアは驚愕し、それから震える手でカイの手を握った。その手は冷たかったが、汗ばんでいた。


「……お願い。助けて。私たちは今まで、地図もなしに霧の中を歩いていたの。……貴方の知識が、私たちの『羅針盤』になるわ」


 彼女の熱意に押され、カイは頷いた。だが、ふと疑問がよぎる。これほどの知識を持っていた先人が、なぜ志半ばで倒れたのか。


「……この人は、どうなったんだ? 元の世界に、帰れたのか?」


 カイの問いに、ソフィアの表情が曇った。彼女は視線を落とし、静かに首を振った。


「いいえ。……処刑されたわ」


「処刑……」


「異端の首謀者として、広場で火刑に処された。おじい様の理論は、教会の権威にとって最も危険な『毒』だったから」


 ソフィアは悲しげに、しかし誇らしげに言った。


「でも、おじい様は最期まで笑っていたそうよ。燃え盛る炎の中で、こう言い残して」


「なんて?」


「『世界は閉じても、法則は閉じない』……って」


 カイは息を呑んだ。結界によって世界が物理的に閉じ込められようとも、そこで働く物理法則までは捻じ曲げられない。真理は、どんな権力者にも、神にさえも消すことはできない。それは、感情論で動くこの世界に対する、最も痛烈な皮肉であり、物理学者としての揺るぎない勝利宣言だった。


 カイはノートの最後のページを開いた。そこには、走り書きでこう記されていた。


『もし、私以外の誰かがこれを読んでいるなら。君もまた、あちら側から来た漂流者だろう』


 カイの心臓が跳ねた。時を超えた、私信。


『絶望するな。ここは地獄だが、解けないパズルじゃない。世界を定義するのは神ではない。観測者である君だ』


 そして、その下には、日本語で短く。


『君が、この世界の間違いを直してくれることを願う』


 カイは、ノートを閉じた。指先が震えていた。恐怖ではない。責任の重さと、そして先輩からバトンを渡されたような、静かな使命感。


「……ソフィア」


「な、何?」


 カイは、彼女の目を真っ直ぐに見た。黒い瞳。それは、この世界で唯一、カイと同じ色をした鏡だ。


「俺は、魔法使いにはなれない。祈り方も、歌い方も分からない」


 カイは、失われた右腕の断面に左手を添えた。


「でも、このノートの続きなら書ける。この人がやり残した『計算』の続きなら、俺が解けるかもしれない」


 ソフィアは息を呑んだ。彼女にとって、祖父のノートは解読不能なバイブルだった。だが、目の前の少年は、それを「ただの計算ドリル」だと言い放ったのだ。


「……本当?」


「ああ。……その代わり、手伝ってくれ。俺には『理論』はあるけど、この世界の『定数』が分からない。……あんたの眼が必要だ」


 カイが言ったのは、事実だった。あばら屋での生活で、水のろ過や発火の阻止はできた。だが、それはあくまで目に見える範囲の現象への干渉だ。結界を壊すような大規模な術式を組むには、この世界のエーテル濃度や、地脈の流れといった「現地データ」が不可欠だ。それを観測できるのは、カイではなく、この世界の住人である彼女だ。


「……交渉成立ね、修復者(レパラトル)。……いいえ、カイ」


 彼女は、カイの手を両手で包み込んだ。その手は、冷たい地下室の中で、驚くほど温かかった。


「私のことは、ソフィアでいいわ。よろしく頼むわね、私の『先生』」


 クールな研究者の仮面が剥がれ、年相応の少女の顔が覗く。その時、部屋の入り口で控えていたジャンが、わざとらしく咳払いをした。


「お楽しみのところ悪いが、お姫様。そろそろ時間だぜ」


「……あ、ごめんなさい」


 ソフィアが慌てて手を離し、頬を赤らめて白衣の襟を正した。彼女は一度深呼吸をして冷静さを取り戻すと、机の上のノート――『構造解析・備忘録』を、まるで聖遺物でも扱うかのように丁寧に閉じた。そして、それを両手で持ち、カイへと差し出した。


「持って行って」


「え……いいのか? これは、あんたのおじいさんの形見だろ」


 カイが戸惑うと、ソフィアは静かに首を振った。


「形見として棚に飾っておくより、貴方に使ってもらった方が、このノートも喜ぶわ。……それに、ここにある言葉を本当に理解できるのは、世界で貴方一人だけよ」


 彼女の瞳には、先人への敬意と、それを継ぐ者への期待が込められていた。


「それが、貴方の『教科書』であり、この世界と戦うための『地図』になるはずよ。読み解いてちょうだい、カイ」


「分かった。責任重大だな」


 カイは、ずしりと重い大学ノートを受け取った。紙の束ではない。数十年前にこの世界で足掻いた、一人の物理学者の魂の重さだ。


 カイはノートを、泥だらけの通学鞄の中に――物理の教科書の隣に、そっとしまった。二つの世界の知識が、一つの鞄の中で並ぶ。


「さて、行きましょうか」


 ソフィアが空気を変えるように手を叩いた。


「感動の継承式は終わりよ。次はヘレナのところで精密検査だわ。貴方の体の『現在地』を、医学的に正確に把握しないとね」


「検査か……。手短に頼むよ」


「それは貴方の体の状態次第ね。……悪い予感が当たらなければいいけれど」


 ソフィアの意味深な言葉に、カイは微かな不安を覚えた。だが、今は前へ進むしかない。先人の知恵は手に入れた。次は、それを使うための器の問題だ。


 カイは、鞄の重みを感じながら、心の中で呟いた。


(……引き継ぎましたよ、一ノ瀬さん。……この『計算』の続きは、俺が解きます)


 研究室を出る際、カイはもう一度だけデスクを振り返った。ガラスケースの中で、黄色い電卓が、地下の照明を反射して一瞬だけ輝いた気がした。それはまるで、遠い後輩に向けた、無言のエールのように見えた。

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