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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
漂流の産声

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第4話 不協和音の残響

 静寂は、慈悲ではなく、剥き出しのエラーとしてあばら屋を支配した。


 銀鎧の男の指先から、あの不快極まりない火の塊が消失した瞬間、世界からすべての意味が剥ぎ取られたかのような錯覚に陥った。男たちの鎧が発していた耳障りな明滅音も、紫色の霧が瓦礫を撫でる湿った音も、すべてが俺の周囲に染み出した、あの冷たくて静かな「真空」に飲み込まれ、強制的にシャットダウンされていく。


「……、……ッ!? ……!!」


 銀鎧の男が、自分の指先を狂ったように凝視している。その唇が激しく震え、何事かを喚き散らそうとするが、喉が引きつって声にならない。当然だ。この世界の住人にとって、紡ぎ終えたはずのことわりが霧散するなど、リンゴが空へ落ちていくのと同じくらい、物理法則そのものが裏切ったに等しい衝撃なのだろう。


 だが、その「強制終了」の代償を支払わされているのは、他ならぬ俺自身だった。


(……が、あ……ッ!!)


 一拍遅れて、脳を直接沸騰した油に浸されたかのような、凄まじい「魂のきしみ」が襲いかかった。


 あちら側の世界、日本の放課後のあの穏やかさに適応していた俺の魂。それが無理やりこの世界の接続をへし折った反動は、想像を絶するほどに重い。鼻から溢れ出した熱い液体が、唇を伝って床に滴り落ち、石の床にどす黒い染みを作っていく。視界の端が古いブラウン管の故障のようにノイズで塗り潰され、自分が今立っているのか、それとも奈落へと落ち続けているのかさえ判別できなくなる。


(オーバーヒートだ。魂という名のCPUが、処理落ちを起こしてやがる)


 指先の感覚はとっくに消失し、肺はこの地の粘りつくような空気を拒絶して痙攣を繰り返す。心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに、不規則で暴力的な脈動を刻んでいた。


(成功……じゃない。今の、は……ただの自爆だ)


 俺は、震える膝を内側から無理やり突っ張り、どうにか立ち続けていた。ここで倒れれば、すべてが終わる。自分に水を差し出してくれたあの少女も、床を這って命乞いをするあの老人も、まとめて蹂躙される。俺は、霞む視界を無理やりこじ開け、銀鎧の男を射抜くように睨みつけた。


 実際には、俺にはもう一度「解体」を試みる余力など、塵ほども残っていない。バッテリーは完全に空となり、今すぐ意識の火が消えてもおかしくない限界点にある。だが、相手にこちらのステータス異常が伝わらないという「情報の断絶」が、ここでは唯一の武器となった。


 男の目には、俺が「底知れない虚無を操り、奇跡を消し去る未知の異端者」に見えているはずだ。魔法を消したという事実は、この世界の住人にとって、死よりも根源的な恐怖を植え付ける。彼らは強い攻撃を恐れるのではない。自分たちが神聖視し、信じ込んでいる世界の法則が通用しない「虚無」そのものを恐れているのだ。


「……、……!! ……、……!!」


 銀鎧の男が、一歩、たじろぐように後ずさった。その顔に浮かんでいるのは、高潔な騎士の誇りなどではなく、正体不明の怪異に遭遇した子供のような、剥き出しの戦慄だった。彼は背後の部下たちに向かって、引きつった怒号を浴びせる。俺から視線を外さず、腰に差した剣に手をかけながらも、その指先は目に見えて震えていた。


 老人がその様子を見て、何事かを叫びながら再び地に額を擦り付けた。少女は、俺の服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめたまま、彫像のように固まっている。


 男は、腰のポーチから奇妙な紋様が刻まれた金属の板――何らかの通貨か、あるいは証明書のようなものだろうか――を苛立たしげに老人の前に叩きつけると、俺に向かって唾を吐きかけるように、最後に一段と鋭い叫びを投げつけた。


 それが呪詛なのか、あるいは「次は軍勢を率いてくる」という警告なのかは、今の俺には翻訳できない。ただ、向けられた殺意の純度だけが、冷たい風のように肌を刺した。


 男たちは少女を連れ去ることも、俺に刃を向けることもせず、まるで呪われた場所から逃げ出すようにあばら屋を去っていこうとした。


 だが、その去り際。男の一人が、床に転がっていた「あるもの」に気づき、足を止めた。


「……?」


 男は、それを汚らわしいものでも見るようにつま先で蹴り上げ、無造作に掴み取った。艶のあるエナメル質の青い生地。銀色のファスナー。


 俺の、通学鞄だ。


(……待て)


 あの中には、あちら側の世界の「証拠」が入っている。画面の割れたスマートフォン。書きかけのノート。そして、ここが異世界であることを証明する物理の教科書。俺が俺であるための、唯一の、そして最後の外部記憶装置。


(返せ……。それに、触るな……!)


 手を伸ばそうとしたが、脳からの命令信号が筋肉に届かない。指先は石のように固まったままだ。泥棒を追いかけるどころか、声を上げることさえできなかった。


 男は鞄を戦利品、あるいは「異端の証拠品」として小脇に抱え、あばら屋を出ていった。彼らの足音が遠ざかり、代わりに再び不快なノイズに満ちたこの世界の日常が、静寂の隙間を埋めるように戻ってくる。


 俺の手元には、何も残らなかった。日常も、武器も、帰るための手がかりさえも。


 あばら屋の入り口、吹き破られた扉の向こう側に、スラムの住人たちが集まり始めているのが見えた。彼らは俺が騎士を追い払った英雄だと讃えるために集まったのではない。瓦礫の影から覗く彼らの瞳に宿っているのは、純粋な「恐怖」と「嫌悪」だ。


 この世界で最も忌むべきもの――教会の定めた「聖譜」に従わない、正体不明のエラー。そんなものが自分たちの隣に現れたことへの、生存本能的な拒絶。誰も入ってこようとはしない。ただ、遠巻きに、この呪われた小屋を監視するように沈黙を守っている。


 その無数の視線が、針のように俺の肌を突き刺した。助けたはずの者たちからも、俺は「異物」として排斥されている。その事実に、胃の奥が冷たく凍りつくような感覚を覚えた。


(……そうかよ。俺は、排除されるべき『異物』ってわけか)


 苦笑しようとして、顔の筋肉が動かないことに気づく。張り詰めていた糸が、音を立てて千切れた。


「……は、ぁ……。……、……っ……」


 俺の体は、支えを失った操り人形のように床へと崩れ落ちた。石材の硬い感触が肩に伝わるが、もはや痛みさえ遠い霧の向こう側の出来事だ。視界は完全に砂嵐へと没し、世界から輪郭が失われていく。


「……、……!! ……、……!!」


 誰かが自分を呼んでいる。必死に、縋るように。少女の小さな手が、俺の頬に触れた。


 その瞬間。


 バチリ、と。


 まだ高熱を帯びたままの俺の魂が、外部からの異質なエネルギーを拒絶して、青白い火花を散らした。


「あ……っ」


 少女が短く悲鳴を上げ、手を引っ込める気配がした。静電気などではない。明確な「拒絶」のスパーク。


(……すまない)


 喉まで出かかったその言葉は、声にはならず、ただの掠れた吐息として消えた。助けたかったはずの相手にさえ、触れることを許さない「絶縁体」としての自分。あちら側の世界から持ち込んだロジックを剥き出しの武器にした代償として、俺はこの世界のすべてと摩擦を起こし、拒絶し合う異物になったのだ。


(寒い……。いや、熱いのか……?)


 感覚が混濁し、記憶の断片が脈絡なく脳裏をよぎる。学校の屋上から見た夕焼け。黒板を滑るチョークの乾いた音。コンビニの自動ドアが開く時の、あの何の変哲もないチャイムの音。それらすべてが、手の届かない銀河の彼方へと吸い込まれていく。


 俺は薄れゆく意識の中で、あばら屋の屋根の隙間から、遠い空を見上げた。そこには、相変わらず世界の隠しきれない傷跡のような亀裂が、不気味な光を湛えて横たわっている。あそこから落ちてきた。だが、あそこへ帰る方法は、この音に満ちた世界では見つかりそうにない。


(水……ろ過しなきゃ……。酸素……遮断……、……)


 脳が、意識を手放す直前まで、強迫観念のように現象の解体を続けようとする。消えていく意識の淵で、最後に感じたのは、失われたスマホへの未練でも、死への恐怖でもなかった。ただ、あの日本の教室に流れていた、退屈なほどに静かな空気への、狂おしいほどの郷愁だった。


 やめてくれ。今はただ、この耳鳴りから逃げたい。この世界の不快な音が届かない、あの無音の放課後へ、一瞬だけでもいいから戻らせてくれ。


 老人が、俺の傍らに膝をつき、何か古びた旋律を口ずさみ始めた。それは俺を鎮めようとする、祈りか、あるいは鎮魂の歌だったのかもしれない。だが、意識の底に落ちていく俺にとっては、その慈愛に満ちたはずの響きさえも、神経を逆なでする不快な周波数として響いた。


 老人の手が、俺の額を覆うように差し出される。その瞬間、再び小さな火花が散る。老人は眉を顰めながらも、その手を引かなかった。熱を帯びた俺の魂が、老人の慈悲という名のエネルギーを削り、傷つけ、それでもなお老人はノイズを奏で続ける。


 その光景は、もはや救済というより、互いを削り合う残酷な儀式のようにさえ見えた。


 徹底的な言葉の不在。そして、理解を拒む絶望的なまでの孤独。


 俺は、その暗い凪の中で、完全に自分という形を失った。スラムに立ち込める、毒のように重苦しい紫色の霧が、倒れ伏した異邦人の体を、無慈悲に、そして静かに飲み込んでいった。


 遠くで再び、あの冷徹な鐘の音が鳴ったような気がした。それは世界のルールを維持するための、終わりのない監視の音。


 久澄 解の、長い、長い一日の終わりだった。そしてそれは、あちら側の穏やかさから切り離された彼が、この不快な音の溢れる世界で、唯一の修復者として生きていくための、地獄のような始まりでもあった。


 暗転していく世界で、最後に見えたのは、少女が零した一滴の涙が、俺の頬を濡らし、そこで瞬時に拒絶されて蒸発していく、儚い光景だった。


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