第39話 地下の学舎
二度目の目覚めは、驚くほど穏やかなものだった。
泥のような眠りから浮上したカイの意識を、清潔で冷ややかな空気が包み込む。スラム特有の、肺に砂が詰まるような息苦しさはない。わずかに聞こえるのは、一定のリズムで響く低い駆動音と、誰かがキーボード――いや、それに似た硬質なボタンを叩く音だけだ。
カイはゆっくりと目を開けた。視界に広がるのは、無機質な金属プレートで覆われた天井。そこには、ガラス管の中を蛍光色の液体が流れるパイプが血管のように張り巡らされ、部屋全体を淡い光で満たしている。
(……夢じゃ、ないな)
カイは、身じろぎもせず、ただ視線だけを動かして自分の右肩を見た。そこには、清潔な白い布が丁寧に巻かれている。だが、その先にあるはずの腕は、やはり存在しなかった。幻肢痛さえ感じないほどの、完全な消失。数時間前――あるいは数日前か――白衣の少女、ソフィアから告げられた言葉を思い出す。「貴方の右腕は、存在の定義ごと消失した」 その事実が、今は不思議とストンと胸に落ちていた。
「おはよう、修復者」
サイドテーブルの方から、鈴を転がすような声がした。カイが顔を向けると、そこにはソフィアがいた。以前見たときと同じ白衣姿だが、今は片目に複雑な機械仕掛けのモノクルを装着し、手元の石板に光のペンで何かを書き込んでいる。
「バイタルは安定。魂の波形も、驚くほど静かね。普通なら、身体の一部を概念ごと失えば、精神の均衡を崩して発狂してもおかしくないのだけれど」
彼女はモノクルのレンズをカシャリと回転させ、カイの全身をスキャンするように見つめた。その瞳にあるのは、患者を気遣う医師の温かさというよりは、未知の現象を前にした研究者の、冷たくも熱っぽい好奇心だった。
「俺の魂が『硬い』からか?」
カイが掠れた声で問うと、ソフィアは満足そうに口元を綻ばせた。
「ええ。貴方の魂は、この世界のどんな物質よりも強固な『絶縁体』よ。だからこそ、中身がこぼれ落ちずに済んでいる。素晴らしい検体だわ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
カイは、残った左手を使って上半身を起こした。身体の節々がきしむが、スラムで目覚めた時のような、魂を直接やすりで削られるような不快感はない。深呼吸をする。肺に入ってくる空気が美味い。
「ここは、『清浄区画』よ」
カイの疑問を察したのか、ソフィアが説明を加えた。
「古代の遺物を使って、外の『澱』を物理的に遮断しているわ。ここなら、貴方のようにデリケートな現代人でも、肺を焼かずに呼吸ができる」
「至れり尽くせりだな。……で、これから俺をどうするつもりだ? 解剖か?」
「ふふ、それも魅力的だけど、残念ながら、貴方にはもっと働いてもらわないといけないわ」
その時、部屋の自動ドアがプシューッという油圧音と共に開き、騒がしい足音が飛び込んできた。
「よう! 起きたか、英雄!」
静謐な空気をぶち壊すような豪快な声と共に現れたのは、筋肉質の巨漢だった。身長は二メートル近いだろうか。鍛え抜かれた褐色の肌に、幾何学模様のタトゥーが走り、レジスタンスの制服の上から無骨なプロテクターを装着している。男はニカっと白い歯を見せて笑い、カイのベッドに歩み寄ろうとしたが、ソフィアの氷のような視線を受けてピタリと足を止めた。
「ジャン。ここは無菌室よ。その泥だらけのブーツで入らないで」
「おっと、悪ぃ悪ぃ。……へへっ、こいつが聖騎士団の指揮官を素手で殴り倒したっていう『修復者』か? 思ったより華奢だな」
ジャンと呼ばれた男は、悪びれる様子もなく頭をかいた。その態度は粗野だが、スラムのごろつきのような陰湿さはない。陽気な兄貴分といった風情だ。
「俺はジャン。ここ『アカデミア・ロゴス』の実働部隊長だ。お前をここまで運んだヴィクトルの旦那は今、外で『後始末』をしてる。だから俺が代わりに見舞いに来てやったってわけだ」
「……ヴィクトル?」
「ああ、あの愛想のない『灰色の男』さ。感謝しなよ? あの人がいなきゃ、お前は今頃教会の実験台だ」
ジャンの言葉に、カイはスラムを去る直前の記憶を反芻した。灰色のフード。機械仕掛けの瞳。あの男が、ここまで運んでくれたのか。
「無駄口はその辺にしておけ、ジャン」
ジャンの背後から、温度のない冷ややかな声が響いた。巨漢の後ろから現れたのは、神経質そうな銀縁眼鏡の男だった。整えられた銀髪に、仕立ての良いシャツとスラックス。スラムの埃っぽさとは無縁の、清潔で合理的な空気を纏っている。その鋭い瞳は、カイを人間としてではなく、興味深い「未解析のデバイス」として値踏みしているようだった。
「初めまして、異邦人。私はゲルハルト。この組織の代表を務めている」
ゲルハルトは、カイのベッドの足元に立ち、感情の読めない顔で告げた。
「君に感謝はしない。我々が君を回収したのは、慈悲でも善意でもない。君に利用価値があるからだ」
単刀直入な物言いに、カイは逆に好感を抱いた。変に同情されたり、英雄扱いされたりするより、よほど信用できる。ここでは「感情」ではなく「理屈」が優先される。そのドライな空気が、今のカイにとっては心地よかった。
「分かりやすくていいな。俺の何を利用する気だ?」
「全てだ。君のその『魔法を殺す力』。そして、君が持っている『あちら側の知識』」
ゲルハルトは懐から小さなリモコンのようなデバイスを取り出し、壁面のスクリーンに向けて操作した。投影されたのは、衛星写真のように精巧な、この大陸の全図だった。大陸の中央には巨大な塔がそびえ、その周囲をドーム状の薄い膜が覆っている。そしてその外側には、何もない漆黒の闇が広がっている。
「これが我々の世界。『隔離領域』……かつて『アトランティス』と呼ばれた大陸の成れの果てだ」
「……アトランティス?」
カイは耳を疑った。その名は、元の世界では伝説の超古代文明として、オカルト雑誌やゲームの中で語り継がれている。
「そうだ。3000年前、古代文明の暴走事故によって、この大陸は地球の空間軸から切り離された。以来、我々は閉じた箱庭の中で、汚染されたエネルギーを循環させながら、緩やかな滅びに向かっている」
ゲルハルトの説明は、カイがスラムで感じていた違和感の正体を次々と暴いていった。なぜ空に亀裂があるのか。なぜ魔法を使うと澱が溜まるのか。それは、この世界が「換気扇のない密室」だからだ。祈れば祈るほど、排熱が溜まり、世界を汚染していく。スラムで戦ったあの怪物は、まさにその「排気ガス」の塊だったのだ。
「教会の連中は、この結界を『神の守護』と崇めている。だが実際は、ただの牢獄だ。我々の目的は、この結界を破壊し、世界を本来あるべき『外側』へ還すこと」
ゲルハルトは、スクリーンの中央、大陸を覆うドーム状の膜を指し示した。
「だが、我々には決定的な力が欠けている。結界を維持している『楔』を破壊するには、この世界の理に縛られない『外部からの干渉』が必要なのだ」
そして、彼はカイを真っ直ぐに見据えた。眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を放つ。
「それが、君だ。コードネーム『修復者』」
「……修復者?」
「そうだ。君のその『絶縁体』の魂なら、結界の理を解体できる可能性がある。君は、我々が待ち望んだ唯一の『修理装置』なのだよ」
救世主ではない。勇者でもない。ただの、壊れた世界を直すための工具。
カイは、自分の右肩を見た。失われた腕。そこにはもう、元の生活に戻れる可能性など残っていない。学校へ通い、部活をして、進路に悩む。そんなありふれた日常は、あのスラムの泥の中で、燃え尽きてしまった。だが、ここには「目的」がある。このふざけた鳥籠をぶち壊し、元の世界へ帰るという、明確なゴールが。
「取引だな」
カイは、乾いた唇を舐めた。
「あんたたちは、俺を元の世界へ帰す手助けをする。その代わり、俺はあんたたちの『工具』として、結界を壊す」
「その通りだ。君にとっても悪い話ではないはずだ。このまま外へ出れば、君は教会に『最大級の異端』として焼却処分される。だが、我々と手を組めば、生き延びるための知識と装備を提供しよう」
ゲルハルトが手を差し出した。契約だ。善意ではない。相互利益に基づく、冷徹な契約。だが、スラムで感情任せの暴力に晒されてきたカイにとって、この理屈で動く関係は何よりも信頼に足るものだった。
「いいだろう。乗った」
カイは、残った左手で、ゲルハルトの手を握り返した。冷たい手だった。だが、力強い握手だった。
「交渉成立ね」
それまで黙って聞いていたソフィアが、満足そうに頷いてモニターのスイッチを切った。
「詳しい作戦は後よ。まずは、そのボロボロの体を治すのが先決。それに、貴方にはまず、知っておいてもらわなきゃいけないことがあるわ」
ソフィアは白衣のポケットに手を入れ、意味深な笑みを浮かべた。
「貴方のその『異質な力』の正体。そして、かつて貴方と同じ場所から来て、この世界に『論理』の種を蒔いた先人のことを」
「先人……?」
「ええ。貴方がこれから背負うものの重さを、理解してもらう必要があるわ。……私の研究室へ来なさい。見せたいものがあるの」
カイはベッドから体を起こした。まだ足元はおぼつかない。右腕はない。だが、一人ではない。
理論を説くソフィア。道を示すゲルハルト。背中を守るジャン。ここには、役割がある。
カイは、一歩を踏み出した。ハビタ・ゼロの無機質な通路へと。
窓――マジックミラーになっている壁面のブラインドの隙間から、外の景色が見えた。そこは、巨大な地下空洞だった。天井には無数のパイプが血管のように張り巡らされ、蒸気を上げている。壁面には、教会で見かけるような祭壇ではなく、黒板や計器、そして大量の書物が並ぶ研究室が蜂の巣のように並んでいる。
そこは、魔法の国に作られた、秘密の科学基地だった。
「ようこそ、アカデミア・ロゴスへ。この狂った世界で、唯一『なぜ』を問うことを許された場所よ」
ソフィアの言葉に、カイは胸の奥が熱くなるのを感じた。スラムでは、「なぜ」と問うことは許されなかった。なぜ祈るのか、なぜ水が汚れているのか。すべては「神の御心」として処理され、思考停止を強要された。だが、ここは違う。ここは、理屈が通じる場所だ。
「悪くない」
カイは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。泥だらけで、片腕を失い、ボロボロの制服を着た少年。だが、その瞳には、スラムで怯えていた頃の色はなかった。
教会の連中は、この世界の理を『聖典』と呼んでいるらしい。神が決めた絶対の記述。誰も逆らえない完璧な脚本。だが、そんなふざけた物語は、もう終わりだ。
俺は、ここで生きる。道具として使い潰されるつもりはない。逆に、こいつらの知識も、技術も、全部利用してやる。そして、必ずあの結界を叩き割り、あちら側の世界へ帰るのだ。
「案内してくれ、ソフィア。あんたたちの『武器』とやらを見せてもらおうか」
カイは、失った右腕の代わりに、左の拳を強く握りしめた。反撃の準備は整いつつある。泥だらけの生存競争は幕を下ろし、この世界の歪んだ記述を静かに紐解く「解析」の日々が、その扉を開こうとしていた。
(……行こう。奴らが勝手に決めた『シナリオ』の結末を、俺が書き換えてやる)




