第38話 黒い瞳の観測者
深い、泥のような微睡みの中にいた。
揺られている。ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。一定のリズムで刻まれる振動。鉄の車輪がレールを噛む、低く重い音。それは遠い昔に置き去りにしてきた、あちら側の世界の記憶のようだった。
部活帰りの電車。夕暮れのオレンジ色に染まる車内。窓枠に頭を預け、流れる単調な景色を眺めていた日々。明日も、明後日も、変わらない日常が続いていくと信じて疑わなかった、退屈で幸福な時間。
(……ああ、帰りたいな)
ふと、そんな弱音が漏れた。放課後の教室の埃っぽい匂い。コンビニの廃棄弁当の味。湿っぽい夏の風。あちら側の世界では無意味だと思っていたすべてが、今は宝石のように輝いて思い出される。
だが、その微睡みは唐突に、しかし静かに断ち切られた。
プシューッ……。
気圧が調整されるような、密閉空間が開く音。同時に鼻孔を突いたのは、埃っぽいスラムの土の匂いでも、焦げ臭い戦場の煙でもなかった。
油と、薬品と、冷たい鉄の匂い。
カイは、重いまぶたをこじ開けた。
「……っ、……」
眩しい。最初に網膜を焼いたのは、無機質な白い光だった。焚き火のような暖かみのあるオレンジ色ではない。太陽のような圧倒的な熱量でもない。フィラメントが発光する、人工的な照明の白さ。
カイは反射的に目を細め、右手を顔の前にかざして光を遮ろうとした。だが、手は上がらなかった。感覚がない。右肩から先が、空気の中に溶けてしまったかのように軽い。
(……ああ。そうだった)
急速に、記憶が巻き戻る。砕け散ったガラスの空。崩れ落ちる黄金の巨塔。そして、泣き叫ぶエルマの顔と、頭を下げてくれたガレオスの姿。
俺は、置いてきたのだ。あの温かい食卓を守るために、自分からその場所を捨てた。右腕と一緒に。
「気がついた?」
ふいに、鈴を転がしたような声が降ってきた。スラムの女性たちが話す、生活感のある訛りとは違う。もっと洗練されていて、それでいてどこか懐かしい響きを含んだ、現地の言葉。
カイは、鉛のように重い首を巡らせた。
そこに、少女がいた。
年齢はカイと同じくらいだろうか。色素の薄い金髪が、人工灯の光を浴びて白銀のように輝いている。肌は陶器のように白く、血の気が薄い。だが、何よりも目を引いたのは、その瞳だ。この世界の住人が持つ、魔力の色を宿した瞳ではない。吸い込まれるような漆黒。カイと同じ、夜の色をした瞳。
彼女は、この世界には不釣り合いなほど清潔な、真っ白な白衣を羽織っていた。
少女は、目覚めたカイを見ると、安堵したように微笑んだ。それは、マッドサイエンティストが実験の成功を喜ぶような不気味な笑みではない。怪我をした迷い猫が、ようやくミルクを飲んでくれた時のような、純粋な労りに満ちた笑顔だった。
「気分は、どう? まだ、体は重いでしょう」
彼女はカイの枕元にあるサイドテーブルに、水差しを置いた。
「……ここは……」
カイは、乾いた唇を震わせて声を絞り出した。喉が張り付いて痛い。
「……病院、じゃなさそうだな」
視線を巡らせる。そこは、石造りのあばら屋でも、教会の聖堂でもなかった。壁は、継ぎ目のない滑らかな金属で覆われている。天井には、複雑な配管が血管のように這い回り、低い唸り声を上げている。部屋の隅には、用途の分からない巨大なシリンダーや、複雑な計器類が並び、規則的な明滅を繰り返している。
まるで、巨大な機械の腹の中だ。
「ええ。ここは病院ではないわ」
少女は白衣のポケットから、複雑な機械仕掛けのモノクルを取り出した。カチリ、と小さな音を立ててそれを右目に装着すると、彼女の雰囲気は一変する。柔らかな少女から、冷徹な観測者へ。
彼女は手にした石板のようなデバイスを操作しながら、モノクル越しにカイの体――特に、失われた右腕のあたりを注視した。
「エーテル侵食率、低下。魂の波形も安定域に入ったわ。……驚いた。魂の三割を摩耗しておいて、もう自己を再定義できるなんて」
彼女は感心したように呟くと、すぐにモノクルを外し、再び素顔の瞳でカイを見た。
「ようこそ、ハビタ・ゼロへ」
ハビタ・ゼロ。聞いたことのない名だ。
「スラムの地下深く。教会の眼も届かない、世界の盲点よ」
少女は大げさに両手を広げ、この無機質な空間を指し示した。
「そしてここは、アカデミア・ロゴス。この狂った世界で唯一、神への祈りではなく『理屈』を信じる者たちの隠れ家」
アカデミア・ロゴス。スラムで俺を助けた、あの灰色の男が所属する組織か。カイは、部屋の隅に控えている人影に気づいた。灰色のフードを被った男。スラムでカイを回収したあの男だ。彼もまた、無言でカイを見つめている。
「……俺を、どうするつもりだ」
カイは警戒心を露わにした。命を助けられたとはいえ、彼らの目的は分からない。俺を「再利用」すると言っていた。実験台にされるのか、あるいは兵器として利用されるのか。
「そんなに警戒しないで。私たちは、貴方に感謝しているの」
少女は、悪戯っぽく、しかし真摯に言った。
「貴方が派手に『聖儀』を止めてくれたおかげで、スラムの多くの命が救われた。そして、私たちにとっても貴重なデータが取れたわ」
彼女は少し身を乗り出した。その瞳には、純粋な知的好奇心が輝いている。
「位相干渉によるエネルギーの相殺。理論上は可能でも、誰も実践できなかった『神殺し』の数式。貴方はそれを、あの一瞬で計算し、実行した」
彼女は、まるで美しい絵画か、難解なパズルを解いた友人を称賛するかのように言った。
「すごいわ。貴方のその、『硬い魂』」
「……ああ。知ってるよ。何とも混ざれない、欠陥品の『絶縁体』だろ」
「いいえ。それは『欠陥』じゃない。この世界で唯一、エーテルに汚染されない最強の『武器』よ」
彼女はカイの胸元に手をかざした。触れてはいない。だが、そこにある温かさを確かめるような仕草。
「教会の連中は、それを『異端』と呼んで排除するでしょうね。でも、私には分かる。それこそが、この窒息しそうな世界に風穴を開けるための、最強の『武器』だってことが」
彼女はそこで言葉を切り、少し寂しげな顔をした。
「……でも、代償は大きかったわね」
カイは、視線を自分の右肩に向けた。そこには、あるはずの腕がなかった。清潔な白い布が巻かれているが、その下は平坦だ。肩から先が、ごっそりと消失している。だが、不思議と喪失感は薄かった。まるで最初からそうであったかのように、傷口は綺麗に塞がっている。
「切断、したのか?」
「いいえ。『消えた』のよ」
ソフィアは淡々と、しかし優しく事実を告げた。
「貴方の魂が、世界律を無理やりねじ曲げた反動で、構成情報ごと消し飛んだのよ。今は、仮の術式で存在を縫い止めているだけ」
消失。その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。ショックはない。ただ、妙に納得している自分がいた。あれだけのエネルギーを叩き込んだのだ。代償がないはずがない。
「……そうか」
カイは、ベッドの上で小さく息を吐いた。後悔はなかった。あの腕一本で、エルマたちを守れたなら、安いものだ。
「泣かないのね」
少女が、意外そうにカイの顔を覗き込んだ。
「泣いて、戻るならな」
「ふふ。合理的ね。嫌いじゃないわ、そういう思考」
少女は嬉しそうに微笑むと、背筋を伸ばして自己紹介をした。
「私の名前は、ソフィア。……ソフィア・イチノセ」
イチノセ。その響きに、カイの思考が一瞬停止した。異世界の言葉の中で、唐突に現れた日本人の姓。
「……イチ、ノセ……?」
「ええ。貴方と同じ、異邦人の血を引く者よ」
ソフィアと名乗った少女は、カイの反応を楽しんでいるようだった。
「私のおじい様がね、この世界に迷い込んだ『漂流者』だったの。貴方のように、向こう側の理屈を持ったまま、ここで生き抜いた人」
おじい様。ということは、彼女自身はこの世界の生まれか。だが、その黒い瞳と「イチノセ」という名は、彼女がカイと同じルーツを持つことを雄弁に物語っていた。この世界で初めて出会う、言葉の通じる「同類」。
「そうか。だから、日本語が……」
「片言だけどね。文献と、古い録音機で勉強しただけだから」
ソフィアは肩をすくめると、白衣のポケットから何かを取り出した。それは、泥と煤にまみれた、カイの通学鞄だった。スラムから回収してくれたのだろうか。
「中身は、見たわ。『ブツリ』の教科書」
彼女は鞄をカイの枕元に置いた。その手つきは、聖遺物を扱うように丁寧だった。
「とても興味深い『外典』ね。私には、そこに書かれている数式が、どんな詩よりも美しく見えたわ」
彼女は鞄を優しく撫でた。
「休みなさい、修復者。貴方には、これからたくさんのことを教えてもらうわ」
彼女の笑顔は、美しく、そしてどこか頼もしかった。ここは病院ではない。研究所だ。そして俺は、患者ではなく、貴重な「サンプル」としてここにいる。だが、不思議と不快感はなかった。「異端」として排除されるより、「理解者」として必要とされる方が……ずっと、救われる気がした。
それに、この少女の瞳には、あの狂信的なクレドの瞳にはなかった、「知りたい」という純粋な光があった。それなら、付き合ってやってもいい。この世界の仕組みを解き明かし、いつか帰る方法を見つけるまでは。
(……上等だ)
カイは、天井を這う無機質な配管を見つめながら、意識を手放した。
心地よい静寂の中で、カイは思った。スラムでの戦いは終わった。だが、それは「生き延びた」というだけに過ぎない。世界はまだ、何も解決していないのだ。
失った腕の感覚。砕け散った鞄。そして、遠い異国の地で出会った、黒い瞳の少女。新しいカードは揃った。次は、読み解く番だ。
泥だらけの生存競争は幕を下ろし、この世界の歪んだ理を静かに紐解く日々が、その扉を開こうとしていた。
第3章:審判の鉄槌 「完結」




