第37話 祈りと別れ
意識が浮上するよりも先に、世界との接続が希薄になっていく感覚があった。
痛みではない。痛みを感じるための神経そのものが、どこか遠くへ置き去りにされたような、恐ろしいほどの軽さ。重力という、この世界で最も基本的な物理法則から、自分だけが切り離されていくような浮遊感。
カイは、泥沼の底から水面を見上げるように、重いまぶたをこじ開けた。視界は砂嵐のような白いノイズで覆われている。色彩が死んでいた。音も遠い。まるで、接触不良を起こした古いブラウン管テレビを通して、現実を覗き見ているようだ。
そこは、見慣れたあばら屋の天井ではなく、瓦礫の陰だった。頭上には、つい先程までカイ自身が解体しようとしていた、巨大な魔法陣の残骸――ガラス細工のようにひび割れ、今にも崩落しそうな空が広がっている。
「……連れて行くと言うのか。……どこへ?」
すぐ側で、押し殺したような老人の声がした。ガレオスだ。彼の声は震えていた。それは怒りか、悲しみか、それとも理解の範疇を超えた現象への畏怖か。
「我々のアジトだ。今の彼を修復できるのは、この世界で我々しかいない」
答えたのは、若く、理知的な男の声だった。現地の言葉ではない。ガレオスの古風な訛りとも違う。もっと機能的で、無駄を削ぎ落とした響き。カイが意識を手放す寸前に聞いた、「日本語」を話す謎の男だ。
カイは、鉛のように重い首を、ギギギと錆びついた蝶番のように巡らせた。視界のノイズの中に、灰色のフードを目深に被った人影が立っていた。顔は見えない。だが、フードの奥で、機械仕掛けのモノクルが、カメラのレンズのように赤く明滅しているのが分かった。
男は、カイが目覚めたことに気づくと、片目のモノクルをカシャリと鳴らして一瞥しただけで、再びガレオスに向き直った。それは、患者を心配する医者の目ではない。壊れた精密機器の損壊率を見積もり、修理か廃棄かを天秤にかける職人の、冷徹な観察眼だった。
「時間は惜しい。教会の再編はすでに始まっている」
男の声は、脅しではなく、確定した未来の天気予報のように淡々としていた。
「騎士団は敗北した。指揮官クレドは倒れ、進行中だった『聖儀』は一時的に中断した。だが、不協和音を吐き出した組織はどうするか? 『穢れ』の源を特定し、その領域ごと『浄化』する。それが彼らの流儀だ」
「……何が、言いたい」
ガレオスが、警戒心を露わにして問う。男は、崩壊したスラムの入り口――未だ撤去されていない「結界の杭」の方角を指差した。
「カイがいる限り、ここは『異端の発生源』として、地図から消されるということだ」
その言葉が、冷たい刃物のようにガレオスの胸に突き刺さるのが、カイにも分かった。教会は面子を潰された。数百人の騎士団が、たった一人の少年に敗北したのだ。この事実は、彼らの教義にとって許されざる汚点であり、全力で抹消すべきスキャンダルだ。必ず報復に来る。だが、その報復の規模と質は、カイがいるかいないかで変わる。
「彼がここに留まれば、教会は最大戦力を持って即座に『焼却処分』に来る。原因が特定されている以上、調査の必要はない。ただ焼き払えばいい。生存率はゼロだ」
男は、瓦礫の山を見渡した。そこには、戦火を逃れたスラムの住人たちが、不安そうに身を寄せ合っている。
「だが、もし『異端の元凶』が消えればどうなる? 教会の目的は『殲滅』から『捜索』へと切り替わる。異端の原因が見つからなければ、組織は再構築に時間を要する。ほとぼりが冷めるまでの時間稼ぎにはなる」
それは、あまりにも残酷な引き算だった。カイがいてもいなくても、教会は報復に来るだろう。だが、カイがいなくなれば、即時の全滅は免れるかもしれない。住人が逃げ散る時間か、あるいは教会が「誤報だった」と判断するまでの猶予が生まれる可能性がある。
ゼロか、わずかな可能性か。その確率のために、命の恩人を差し出せと言うのか。
「……ッ、」
ガレオスが、苦渋の表情で押し黙る。握りしめた拳が震えている。彼にも分かっているのだ。自分たちの手には、ボロボロになったカイを救う技術も、次に押し寄せる教会の本隊から彼を守る力もないことが。
カイは、自分の体を見下ろした。右腕がない。いや、あるのだが、そこにあるはずの「肉体としての質量」が失われている。ボロボロになった制服の袖から先が、黒く炭化し、青白い光の粒子となってサラサラと空気に溶け出している。痛覚はない。ただ、そこにあるはずの「自分」が削り取られていく、根源的な喪失感だけがある。
(……ああ。やっぱり、代償は安くなかったな)
自分の魂を爆薬にして、世界の理をねじ曲げたのだ。無傷で済むはずがない。俺の魂は「絶縁体」だ。だが、絶縁体にも耐圧限界はある。許容量を超えたエネルギーを受け止め、さらにそれを逆流させて叩きつけた。回路が焼き切れるのは当然だ。
このままここにいれば、俺は消滅する。そして、スラムのみんなも道連れになる。答えは、最初から決まっていた。
「……分かってるよ」
カイは、掠れた声を絞り出した。喉が張り付いて、音を出すだけで激痛が走る。肺の中で、乾いた砂が擦れ合うような音がした。ガレオスと男が、ハッとしてカイを見る。
「……俺が行けば、いいんだろ」
カイは、動かない右肩を庇いながら、瓦礫に手をついて上半身を起こした。視界がぐらりと揺れる。世界が遠い。自分の体が、風船のように頼りなく浮いている気がする。
「……カイ」
ガレオスが、悲痛な声で呼ぶ。
「……すまない。……我々には、お前を治す薬も、隠す場所もない……」
老人の目から、涙がこぼれ落ちた。それは悔し涙だった。命を救われ、生活を取り戻してもらいながら、最後にはその恩人を追い出さなければならない、自分たちの無力さへの絶望。彼は知っているのだ。カイがどれだけこの「日常」を守りたがっていたかを。泥水をろ過し、硬いパンを柔らかくして食べた、あのささやかな食卓を、どれだけ大切にしていたかを。
「……いいんだ、じいさん」
カイは、力なく首を振った。
「元々、俺は『異物』だ。……ここにいちゃいけない人間なんだよ」
あのあばら屋での生活。泥水をろ過して飲んだ、冷たい水の味。硬いパンをふやかして食べた、質素な食事。エルマの笑顔。ガレオスの祈り。それは、あちら側の世界では決して味わえなかった、温かくて、確かな「居場所」だった。ここにいたい。ずっと、この人たちと暮らしたい。そんな甘えた願いが、胸の奥で燻っている。
だが、俺がいるだけで、その場所が壊れてしまうなら。俺が去ることが、最後の「修復」になるなら。
それが、俺にできる最後の仕事だ。
「……カイ!!」
その時、小さな影がカイの胸に飛び込んできた。エルマだ。彼女は会話の内容を完全には理解できていないようだったが、不穏な空気と、カイの体から漂う「死の予感」、そして別れの気配を敏感に感じ取って震えていた。
「……行かないで。……カイは、家族だよ!?」
エルマが泣き叫ぶ。彼女の体温が、冷え切ったカイの体に伝わってくる。行くな。ここにいて。そう言ってくれている。その温かさが、カイを現世に繋ぎ止めるアンカーだった。
カイは、残った左手を動かした。泥だらけの、感覚のない手。それを、エルマの頭に乗せる。髪の毛の感触。小さな頭の丸み。それを指先の記憶に刻み込むように、ゆっくりと撫でた。
「……ごめん、な」
カイは、動かない口で、音にならない言葉を紡いだ。俺は、お前の家族になりたかったよ。異世界の迷子じゃなくて、ただの「カイ」として、お前たちの隣にいたかった。もっと色々なことを教えてやりたかった。水のろ過の仕方だけじゃなく、あちら側の世界の料理とか、面白い話とか。もっと、笑わせてやりたかった。
だが、現実は残酷だ。俺がここにいれば、全員が確実に死ぬ。俺が去れば、わずかな可能性が生まれる。答えは一つしかない。
「……エルマ。……生きろ」
カイは、指先に残った最後の力を込めて、彼女の髪を撫でた。そして、灰色の男の方を見た。
(……連れて行け。……俺を、直して使うつもりなら)
カイの視線を受け、男は微かに頷いた。男がカイに歩み寄り、その体を抱き上げる。驚くほど軽い。肉体としての質量が失われつつあるのだ。魂が削れ、存在が希薄になり、物質として世界に留まる力が弱まっている。
「離して! カイを連れて行かないで!」
エルマが男の足にしがみつく。男は困ったように立ち尽くす。無理に引き剥がせば、彼女を傷つけてしまうからだ。
「……エルマ。離せ」
ガレオスが、背後からエルマの肩を抱き、優しく、しかし強く引き剥がした。
「……ジ、イ……?」
「カイを行かせてやるんだ。……それが、彼が生きた証を守る、唯一の道だ」
老人の声は震えていたが、そこには揺るぎない覚悟があった。彼は知っているのだ。カイが何を思って戦い、何を思って去ろうとしているのかを。この少年の尊厳を守るために、老人は涙を飲んで、別れを選んだ。
ガレオスは、カイに向かって深く、深く頭を下げた。それは、異端者への畏怖ではない。神の使いへの崇拝でもない。対等な友人へ贈る、最大級の感謝と惜別の儀礼。
「……ありがとう。我が友よ」
その言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥で、張り詰めていた何かが解けた気がした。友。異世界で、言葉も通じない異物だった俺を、この人は「友」と呼んでくれた。それだけで、ここで戦った意味はあった。痛みも、喪失も、すべて報われた気がした。
灰色の男は、驚くべき身体能力で瓦礫の山を飛び移り、スラムの外へと向かっていく。カイの体は揺れ、視界が明滅する。意識のシャットダウンまで、あと数秒。
男の背中越しに、カイは遠ざかるスラムを見つめた。破壊された広場。燃え尽きた瓦礫。そして、泣き叫ぶエルマを抱きしめるガレオスの姿。あばら屋の影から、他の住人たちも出てきているのが見えた。彼らは、カイに向かって手を合わせていた。それは恐怖からではない。自分たちの街を守ってくれた、名もなき修復者への祈りだった。
空を見上げる。そこには、カイがクレドの魔法を打ち消した余波で砕け散った、ガラスの空の破片がキラキラと舞い落ちていた。そして、亀裂の向こう側に広がるのは、いつもスラムを覆っていた毒々しい紫色の霧ではない。深く、透き通るような群青色。あちら側の世界で見たのと変わらない、夜明け前の本物の空。
(……きれいだ)
カイは、薄れゆく意識の中でそう思った。魔法という虚飾を剥ぎ取り、エネルギーという毒を洗い流した、素顔の世界。俺が壊した空。俺がこじ開けた風穴。
それは、間違いじゃなかったはずだ。
「……カイ」
風に乗って、エルマの声が聞こえた気がした。
「戻ってきて……!!」
約束はできない。今の俺は、壊れかけた部品だ。次に目が覚めたとき、俺が俺である保証すらない。魂が修復できるのか、それともこのまま消滅するのか。自分の名前さえ覚えているかどうか怪しい。それでも。
(……ああ。必ず)
カイは、心の中で応えた。この理不尽な世界の修理が終わったら。すべての歪みを取り除いて、当たり前の日常を取り戻したら。その時は必ず、あの食卓に帰る。
男が、さらに速度を上げる。スラムの風景が、光の帯となって後ろへ流れていく。意識の限界。
カイは目を閉じた。暗闇の中に浮かぶのは、物理の公式でも、敵の構造図でもない。泥だらけの少女の笑顔と、不器用な老人の祈り。そして、三人で囲んだ、あのささやかな食卓の温もり。
それだけを、唯一のよすがとして、カイは深い眠りへと落ちていった。
広場には、砕け散った黄金の鎧の残骸と、降り注ぐガラスの雨。そして、静寂を取り戻したスラムに、新たな「理」の介入者が、静かに足を踏み入れていた。
泥の中から拾い上げられた異物は、今、世界の裏側へとその身を沈める。瓦礫の中での「生存競争」は終わり、神の理そのものと向き合う、冷徹な「解析」の日々が、静かに始まろうとしていた。




