第36話 ガラスの空
殴った感触は、なかった。骨が砕ける音も、肉が潰れる感触も、あまりに強烈な衝撃の彼方へ消し飛んでいたからだ。
カイの意識は、泥のように重く、そして焼き切れた電球のようにチカチカと明滅していた。立っているのか、倒れているのかさえ分からない。ただ、目の前にあった黄金の巨塔――指揮官クレドが、スローモーションのように崩れ落ちていく光景だけが、網膜に焼き付いていた。
ドサッ……。
重厚な音が、スラムの広場に響いた。絶対的な指導者、クレド。神の威光を背負い、数百の騎士を一つの意思で統率していた男が、今はただの物言わぬ鉄塊となって、泥の上に横たわっている。彼の顔を覆っていた黄金の仮面は、右半分が砕け散り、その下から血の気の引いた素顔が覗いていた。白目を剥き、口元からは泡混じりの血が溢れている。
終わった、のか?
カイの脳裏に、そんな疑問が浮かぶよりも早く。世界が、悲鳴を上げた。
キィィィィン……パリーンッ!!
頭上で、何かが割れる音がした。コップを落とした時のような、あるいは薄氷を踏み抜いた時のような、硬質で繊細な破砕音。だが、その音量は鼓膜を揺らすほどに巨大だった。
カイは、鉛のように重い首を上げて空を見た。そして、息を呑んだ。
「……あ、……」
空が、割れていた。
いや、正確には空ではない。スラムの上空を覆っていた、あの赤黒い熱のドーム――クレドが展開し、数百人の騎士たちが維持していた巨大な魔法陣が、まるで巨大なガラス細工のようにひび割れ、砕け散ろうとしていたのだ。
カイが叩き込んだ逆位相の波。それはクレドという中枢を破壊しただけでは止まらなかった。波は伝播する。クレドが集め、制御していた膨大なエネルギーの結合が解かれた瞬間、行き場を失ったエネルギーは「結晶化」し、物理的な質量を持った光の破片となって、降り注ぎ始めたのだ。
キラキラと、ダイヤモンドダストのように。それは残酷なほどに美しい、崩壊の雨だった。
「……が、ぁ……!?」 「……接続……エラー……!!」 「……熱の……逆流……!!」
悲鳴が上がったのは、スラムを取り囲んでいた黄金の騎士団の方だった。数百人の精鋭たち。一糸乱れぬ行軍を見せ、感情を持たないシステムの一部として機能していた彼らが、今はまるで壊れた玩具のように狂乱していた。
当然だ。彼らは全員、クレドという「指揮者」に接続し、自分たちの魔力を供給し続けていたのだから。その接続先が唐突に破壊され、さらにカイが流し込んだノイズが、回線を通じて全員にフィードバックされたのだ。
出口を塞がれた水道管の破裂。あるいは、暴走したボイラーの末路。
ドォォン!!
一人の騎士の鎧が、内側からの圧力に耐えきれず爆発した。それを合図に、連鎖的な自壊が始まった。
バチバチバチッ!! ドガァァァン!!
ある者は鎧の継ぎ目から火を吹き、ある者は制御不能になった身体強化魔法によって手足をあらぬ方向へねじ曲げられ、またある者はその場に凍りついたように硬直して倒れる。
統率は消えた。そこにいたのは、もはや軍隊ではなかった。ただの、規格外の負荷に焼き切れた鉄屑の山。
「……全滅、か」
カイは、その地獄絵図をどこか他人事のように眺めていた。自分がやったことだ。物理法則を無視して組み上げられた巨大なシステムに、たった一箇所、致命的な計算間違いを仕込んだ。その結果がこれだ。強固に見えた黄金の城は、基礎工事の手抜きを突かれ、自重に耐えきれずに崩壊した。
(脆いな。お前らの『完全』ってやつは)
カイは笑おうとしたが、頬の筋肉が動かなかった。代償は大きすぎた。
右腕の感覚がない。いや、感覚どころか、視覚的にも異常が起きていた。ボロボロになった制服の袖から覗く右手が、炭のように黒ずんでいるだけではない。指先が、微かに透けていた。肉体が物理的な実体を保てず、青白い光の粒子となって、サラサラと空気に溶け始めている。
魂が削れる痛み、などという生易しいものではない。これは「消失」だ。世界というシステムに深く干渉しすぎた異物は、その反作用として、世界から存在を消去されようとしているのだ。
「……は、ぁ……」
カイの膝から力が抜け、地面に崩れ落ちた。泥の冷たさが心地よい。耳の奥で鳴り響いていた不快なノイズ――騎士たちの詠唱、鎧の駆動音、空間の悲鳴――そのすべてが、嘘のように消えていく。
静かだ。本当に、静かになった。
頭上から、光の破片が雪のように降り注いでくる。熱を持たない、エネルギーの残骸。それがカイの頬に触れ、冷たく溶けていく。
「……カイ!!」
遠く、水底から響くような声が聞こえた。ああ、聞き覚えがある。あちら側の世界にはなかった、必死で、温かい声。
地下への入り口、マンホールの蓋が押し開けられ、小さな影が飛び出してきた。エルマだ。彼女は、地獄と化した広場の惨状に一瞬足をすくませたが、倒れているカイの姿を見つけると、瓦礫につまずくのも構わず駆け寄ってきた。
「カイ! カイッ!!」
彼女の後ろから、ガレオスも足を引きずりながら現れる。彼の目は、周囲に散らばる黄金の残骸と、空から降る光の雨を見て、信じられないものを見るように見開かれていた。
「……神よ……。……騎士団が……壊滅したというのか……?」
老人の震える声。無理もない。彼らにとって、聖騎士団は絶対的な恐怖の象徴であり、自然災害のようなものだったはずだ。それが、たった一人の少年の手によって、スクラップの山に変えられたのだから。
「カイ……!」
エルマがカイの元に滑り込み、その体を抱き起こそうとする。だが、彼女の手がカイの右腕に触れようとした瞬間、彼女は「ヒッ」と短く息を呑んで手を引っ込めた。
カイの右腕は、触れることすらできないほど高熱を帯び、同時に、触れれば崩れてしまいそうなほど脆い光の粒子になっていたからだ。
「……ごめん、な」
カイは、動かない口で、日本語で呟いた。驚かせてしまった。こんな、化け物みたいな体になって。
エルマは首を激しく横に振った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでもカイの左手――泥だらけだが、まだ実体の残っている方の手を、両手でぎゅっと握りしめた。
「カイ……生きて……!!」
彼女の体温が伝わってくる。それが、カイを現世に繋ぎ止める、最後のアンカーのように感じられた。
(……ああ。生きてるよ。まだ、ギリギリ)
カイは薄く目を開け、倒れているクレドの方を見た。黄金の鎧は光を失い、ただの鉄塊となっている。だが、その指がわずかに動いたのを、カイは見逃さなかった。
まだ、息があるのか。あれだけのエネルギーの逆流を受けて、なお。
クレドの砕けた仮面の奥、露出した瞳が、焦点の合わないまま虚空を彷徨い、そしてカイを捉えた。そこに、憎悪の色はなかった。あるのは、理解不能なエラーに直面したシステム管理者の、純粋な困惑。
「……なぜ、だ……」
クレドの口から、掠れた声が漏れた。
「……聖譜は……完璧、だった……。……接続に……乱れは……」
彼はまだ、自分の計算式のどこが間違っていたのかを問うている。カイは、痛む肺に空気を送り込み、答えた。
「完璧すぎるんだよ」
声になっているかは分からない。だが、クレドはこちらを見ていた。
「遊びのないハンドルは、路面の凹凸ひとつで事故る。……お前らの音楽には、息継ぎをする隙間がなさすぎたんだ」
人間は機械じゃない。完璧な正円を描くことなんてできない。だからこそ、歪みやズレを許容する「ゆとり」が必要なんだ。それを排除して、全員を同じ型にはめ込もうとした時点で、お前らのシステムは破綻していた。
「……隙間……だと……?」
クレドは虚空を掴むように手を伸ばし、そして力なく落とした。
「……エラー……。……我々は……間違って……」
その言葉は最後まで続かなかった。クレドの意識が途切れたのか、彼はそのまま泥の中に沈むように動かなくなった。死んではいないだろう。だが、彼の信仰という名の「理」は、致命的な破綻を迎えた。再び組み上げるには、長い時間がかかるはずだ。
カイは、空を見上げた。魔法陣が砕け散り、紫色の霧も晴れた空。そこには、この世界に来て初めて見る、「色」があった。
深い、透き通るような群青色。亀裂の向こう側に広がる、本物の夜明け前の空。そして、薄れゆく星々の輝き。
ガラスのように砕け散った偽りの空の向こうに、懐かしい「理」で動く宇宙が見えた気がした。
(……きれいだ)
カイは、初めてこの世界を美しいと思った。魔法という装飾を剥ぎ取り、エネルギーという毒を洗い流した、素顔の世界。
「……見ろ、ガレオス。……空が」
カイが呟くと、老人も空を見上げていた。その目からは、とめどなく涙が溢れていた。
「……光……。……真実の……」
老人は震えながら、空に向かって祈りを捧げた。それは、あの非効率な魔法の詠唱ではない。ただの人間が、美しいものを見て感動し、感謝する、素朴な心の震えだった。
スラムの住人たちも、恐る恐る物陰から出てきていた。彼らは、倒れ伏す黄金の騎士たちには目もくれず、ただ呆然と、頭上に広がる「ガラスの空」と、その向こうの群青を見つめていた。
恐怖は消えていた。代わりにそこにあるのは、長い嵐が去ったあとの、静かな安堵。
カイは、役目を終えた安堵と共に、急速に意識が遠のくのを感じた。もう、指一本動かせない。思考の処理速度が低下していく。
(……眠いな)
これで、少しは休めるだろうか。あばら屋の硬い床でもいい。泥水のようなスープでもいい。今はただ、何も考えずに、深い「凪」の中に沈んでいきたい。
カイのまぶたが、重く閉じていく。エルマが何かを叫んでいる。ガレオスが体を支えてくれている。だが、その感覚さえも、薄い膜の向こう側へ遠ざかっていく。
完全に意識が途切れる直前。カイの耳に、不思議な音が届いた。
ザッ、ザッ、ザッ。
足音だ。だが、あの騎士たちの重厚な金属音ではない。もっと軽く、隠密で、それでいて洗練された、布と革の足音。
一人ではない。数人の気配。彼らは、スラムの住人ではない。騎士団でもない。この戦場の外側から、ずっとこの結末を「観測」していた者たち。
「見事な『解体』だ」
頭上から、若い男の声がした。現地の言葉ではない。ガレオスの古風な言葉とも違う。もっと流暢で、機能的な響き。
カイは、最後の力を振り絞って薄目を開けた。ぼやけた視界の中に、灰色のフードを目深に被った人影が立っていた。その顔は見えない。だが、フードの奥で、機械仕掛けのモノクルが、カメラのレンズのように赤く光ったのが見えた。
「……誰、だ……」
カイが日本語で問うと、人影は、驚くべきことに、たどたどしいながらも「日本語」で答えた。
「迎え、に、来た」
(……え?)
思考が停止する。日本語? なぜ? 男は、カイの顔を覗き込み、モノクルをカシャリと鳴らした。
「君は、壊しすぎた。教会が、君を放っておかない」
それは警告であり、同時に勧誘だった。
「来るんだ。『外典』を継ぐ者よ」
男が手を差し伸べる。その手を取る力は、今のカイには残っていない。だが、その言葉の意味を理解する前に、カイの意識は完全にシャットダウンした。
広場に降り注ぐガラスの雨。倒れ伏す黄金の残骸。そして、静寂を取り戻したスラムに、新たな「理」の介入者が、静かに足を踏み入れていた。




