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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
審判の鉄槌

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第35話 逆位相の特異点

 その瞬間、世界から音が消えた。


 鼓膜を圧迫していた轟音も、肌を焦がす熱波の唸りも、すべてが唐突に断ち切られたのだ。


 クレドが放った最大級の魔法「プルガトリウム(煉獄)……エスト(なるは)……ディエスイレ(怒りの日なり)」。その白熱した光の奔流が、カイの掌に触れた瞬間のことだった。

 

 爆発は起きなかった。衝撃音もなかった。ただ、世界の一部が切り取られたように消失した。


フッ……。

 

 ロウソクの火を指で摘んで消すように。あるいは、スイッチを切って電球を落とすように。カイを中心とした半径数メートルの空間から、熱と光、そしてあらゆる物理的な運動エネルギーが、こつ然と姿を消したのだ。


「な、に……!?」


 光の向こう側で、クレドの驚愕の声が響いた。無理もない。彼が見ている光景は、物理法則の崩壊そのものだ。数百人分のエネルギーを束ねた戦略級の火球が、一人の少年の手前で、壁に当たるでもなく、弾かれるでもなく、ただ「吸い込まれるように」無へと帰しているのだから。


(……重い……ッ!)


 カイは歯を食いしばり、見えない圧力に耐えていた。魔法は消えている。だが、相手のエネルギーが消滅したわけではない。


 荒れ狂う波の「山」に、完璧な「谷」をぶつける。プラスとマイナスの衝突。たったそれだけで、嵐は嘘のように「凪」へと還る。


 単純な理屈だ。だが、それをこの規模で実行することは、神の御業にも等しい演算処理を意味する。カイの魂が、相手の放つ「正位相」の波と完全に真逆の「逆位相」の波を生成し、ぶつけ続けることで相殺しているのだ。その負荷は、すべてカイの魂が背負っている。


 全身の血管が沸騰しそうだ。脳の芯が、摩擦熱で焼き切れそうな悲鳴を上げている。


 魂が摩耗し、削り取られていく激痛。肉体の痛みではない。自分という存在の輪郭が、ヤスリで削られるようにボロボロと剥がれ落ちていく感覚。


(まだだ! まだ足りない! 波形を合わせろ! ミリ単位のズレも許すな!)


 相手は数百人の交響曲(シンフォニア)だ。その音圧は圧倒的だ。少しでも気を抜けば、逆位相の波が押し負け、飲み込まれる。カイは、血の涙を流しながら、目を見開いた。視界に入る情報はすべてノイズだ。目を閉じろ。耳を塞げ。ただ「波」だけを感じろ。


 クレドの指揮杖が振られるリズム。騎士たちの呼吸。大気の振動。それらすべてを「物理情報」として処理し、リアルタイムで「反転」させ続ける。


「おおおお……ッ!!」


 カイの喉から、言葉にならない咆哮が漏れる。左手が炭化し、感覚が消えていく。右手の指先が崩れ落ちる。肉体が物理的な限界を超え、魂の形へと昇華されていく感覚。


 それでも、カイは止まらなかった。押し寄せる光の濁流を、一歩も通さない。背後にいるエルマたちには、熱風ひとつ触れさせない。


「……馬鹿な。……あり得ない……」


 クレドの声が震え始めた。彼も気づいたのだ。自分の放っている最強の魔法が、何かに防がれているのではなく、「中和」されていることに。完璧なはずの聖譜(スコア)が、未知のノイズによって食い荒らされていることに。


「全軍!! 出力を上げろ!! 最大だ!!」


 クレドが叫び、指揮杖を乱暴に振る。騎士たちが呼応し、さらに声を張り上げる。黄金の光が膨れ上がり、スラム全体を飲み込もうとする。


 力比べ。単純な質量の勝負なら、カイに勝ち目はない。だが。


(残念だったな、指揮者さん)


 カイは、血まみれの口元を歪めて笑った。


(お前らが音を大きくすればするほど、俺の『沈黙』も深くなるんだよ)


 逆位相の原理。相手の波が大きければ大きいほど、それを打ち消すために生成される反転波もまた、強大になる。敵の力を利用して、敵を殺す。柔道のような、あるいは鏡のようなカウンター。


 カイは、前に出た。防御ではない。この「静寂の領域」を、敵の中心――指揮官クレドの元まで押し広げる。


シレンティウム(静寂)エクスパンド(拡散)……ッ!!」


 カイが一歩踏み込むと、静寂の領域が爆発的に広がった。火球が内側から食い破られる。炎が消え、光が失せ、熱が奪われる。


 スラムの広場に、突如として「凪」が訪れた。それは平和な静けさではない。音が死に絶えた、真空の恐怖。


「……な、……」


 最前列にいた騎士たちが、声を失って膝をついた。彼らの鎧を包んでいた強化魔法の光が、プツリと消えたのだ。カイの放つ「逆位相」の波動が、彼らの鎧の制御信号さえも中和してしまった。


「……機能……停止……」 「……接続……断絶……」


 騎士たちがバタバタと倒れていく。物理的な攻撃を受けたわけではない。自分たちを動かしていた「ルール」そのものを剥奪され、ただの鉄屑に戻ったのだ。


 カイは歩く。ボロボロの体を引きずりながら。その周囲だけ、魔法が存在しない「空白地帯」が移動していく。


 目指すは一点。丘の上で、呆然と指揮杖を構えている、黄金の指揮官。


「貴様……! 何をした!?」


 クレドが叫んだ。その声には、初めて「恐怖」の色が混じっていた。自分の理解を超えた現象。神聖な交響曲を、汚らわしい沈黙で塗りつぶす悪魔の所業。


「……言っただろ」


 カイは、掠れた声で答えた。


「お前らの音楽は、ノイズだってな」


 カイは、残った左手をクレドに向けた。もう、指の感覚はない。肘から先が、青白い光の粒子になって崩れかけている。魂の酷使による肉体の崩壊。だが、あと一撃ならいける。


「終わらせようぜ。その退屈な演奏会を」


 カイの瞳が、青白く燃える。クレドは、歯ぎしりをして杖を構え直した。


「……おのれ……! 悪魔め……!!」


 クレドの鎧が、限界を超えて輝く。部下の魔力供給が途絶えた今、彼自身の生命力を燃やして、最後の魔法を放とうとしているのだ。


ソロ(独唱)……! ウルティマ(終焉の)……!」


 速い。個人の魔法なら、詠唱のラグは少ない。クレドの杖先に、圧縮された光の槍が生まれる。


 だが、カイには見えていた。その光の「波長」が。焦り、恐怖、そして怒りによって乱れた、醜い波形が。


(隙だらけだ)


 あんな乱れた波なら、打ち消すのは容易い。


 クレドが光の槍を放つ。カイは、それを避けなかった。正面から、左手を突き出す。


 接触。


 パリンッ。


 硬質な音が響いた。光の槍は、カイの手前でガラス細工のように砕け散った。カイの放った「拒絶」の波が、魔法の構成定義を破壊したのだ。


「……な、に……!?」


 クレドが目を見開く。その隙に、カイは肉薄していた。距離、ゼロ。


 カイは、崩れかけた左手で、クレドの胸ぐら――黄金の装甲を掴んだ。魔法による防御はない。カイの左手が、クレドの鎧の魔力を中和しているからだ。そして、右手の拳を振り上げた。プローブも、武器もない。ただの、人間の拳。


 だが、その拳はただの肉体ではなかった。極限まで硬化したカイの魂が、右拳を覆うように凝縮されている。それは物質としての硬度を超え、触れるものの「分子結合」そのものを緩める、物理的な『崩壊の起点』となっていた。


「これは、『理屈』じゃない」


 カイは、叫んだ。


「ただの、『意地』だぁぁぁッ!!」


 ドゴォッ!!


 鈍い音が響いた。カイの拳が、クレドの顔面――黄金の仮面を直撃した。


 バキバキバキッ……!


 不快な破砕音が響き渡る。カイの拳の骨が砕ける音。そして――「解体」の波動によって分子レベルで脆くさせられた黄金の仮面が、泥人形のように粉々に崩れ落ちる音。


 肉と鉄が、互いに壊れ合いながら衝突する。


「……が、ぁ……ッ!?」


 絶対的な指揮官が、仮面の破片を撒き散らしながら仰け反る。その素顔が露わになり、白目を剥いてたたらを踏む。


 ドサァッ……。


 クレドの体が、重い音を立てて地面に倒れ込んだ。黄金の鎧は光を失い、ただの沈黙した鉄塊となって横たわっている。


 カイは、拳を振り抜いた姿勢のまま、動かなかった。動けなかった。


 右拳は砕け、左腕は消えかけている。全身の力が、切れた糸のように抜けていく。


 視界が急速に暗転する。心臓が、早鐘のような鼓動を最後に、ふっと静かになるのを感じた。


(……静かだ)


 膝から崩れ落ちる。地面の冷たさが、心地よかった。


 あのうるさい鐘の音も、騎士たちの詠唱も、すべて消えた。凪いだ海のような、完全な静寂。


 カイは、薄れゆく意識の中で、ぼんやりと空を見上げた。紫色の霧が晴れ、亀裂の入った空の向こうに、懐かしい「星」が見えた気がした。


 ああ、静かだ。これなら、ゆっくり眠れそうだ。


 カイの意識は、深い闇の底へと沈んでいった。

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