第33話 黄金の信条
泥の冷たさが、火照った頬を冷やしている。全身の感覚が遠い。右腕はとっくに限界を超え、感覚がないどころか、そこにあるという事実さえ怪しい。左肩の斬り傷からは、脈打つたびに熱い液体が流れ出している。
カイは、地面に這いつくばったまま、視界の端で揺れる黄金の輝きを見つめていた。
「確保。対象、沈黙」
事務的な声が頭上から降ってくる。周囲を取り囲む親衛隊たちの剣先が、カイの首筋、背中、そして手足に向けられている。動けば刺す。いや、動かなくても、指揮官の命令一つで串刺しにする構えだ。
完全に、詰みだ。将棋なら投了する場面。テストなら白紙で出す場面。だが、カイの右手は、泥の中でまだプローブを握りしめていた。銀の針金が巻かれただけの、無骨な鉄の棒。それが、今のカイと世界を繋ぐ、唯一の接点だった。
「離せと言っている」
頭上から、冷徹な響きが落ちてきた。黄金のブーツが、カイの右手を――プローブを握る指を、無造作に踏みつける。
「ぐ、ぅ……ッ!」
激痛が走り、反射的に指が開きそうになる。だが、カイは喉の奥で悲鳴を殺し、逆に指に力を込めた。爪が剥がれそうになろうとも、これだけは離さない。これを離せば、俺はただの無力な高校生に戻ってしまう。
「……ほう」
感心とも、呆れともつかない声。踏みつける圧力がふっと消えた。カイが顔を上げると、そこには指揮官クレドが立っていた。彼は、泥まみれのカイを見下ろしているのではない。カイという「現象」を、レンズ越しに観察するように見つめていた。
「理解不能だな。調和が欠落している」
クレドは指揮杖を弄びながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「貴様の肉体は限界だ。戦力差は歴然。真理を弁えているならば、降伏こそが唯一の『解』であろう?」
その口調は、敵に対する憎しみではなく、故障した機械に対する問いかけに近かった。なぜ動く? なぜ止まらない? 規格外の動作をする部品への、純粋な疑問。
カイは、口の中に溜まった血を吐き捨て、震える腕で上体を起こした。
「……真理、か」
カイは、膝をついた状態でクレドを睨み返した。
「あいにくだが、俺の計算じゃ……ここで降伏したら、生存確率はゼロになるんだよ」
「ほう?」
「お前らは、降伏した捕虜を生かしておくような連中じゃない。役に立たなくなった部品は捨てる。そうだろ?」
カイの言葉に、クレドは仮面の奥で目を細めたようだった。否定はしない。むしろ、肯定の沈黙が流れる。
「正解だ」
クレドは短く答えた。
「世界は、巨大な楽器だ。我々は、その旋律を維持するためだけに存在する」
彼は両手を広げ、背後に広がる黄金の騎士団、そしてスラムを包囲する結界の杭を指し示した。
「一個人の命など、大いなる調和の前では塵に等しい。不協和音を出す部品は交換する。調律の狂った弦は張り替える。それが、この世界を存続させるための唯一の教義だ」
クレドの声に、熱狂はない。あるのは、氷のような確信だけだ。彼は本気で信じているのだ。人を殺すことも、街を焼くことも、すべては世界というシステムを維持するための「メンテナンス」に過ぎないと。
「……ふざけるな」
カイの口から、乾いた笑いが漏れた。
「調和? 旋律? 笑わせるなよ」
カイは、ゆっくりと立ち上がろうとした。足が笑う。体が悲鳴を上げる。それでも、彼は地面を睨みつけ、重力に逆らった。
「お前らのやってることは、音楽じゃない。ただの『ノイズ』だ」
「何?」
「祈れば怪物が生まれる。魔法を使えば澱が溜まる。そんな欠陥だらけのシステムを、無理やり回し続けるために、人を燃料にしてるだけだろうが!」
カイは叫んだ。あばら屋での生活。ガレオスの祈り。エルマの笑顔。それらを踏みにじり、消費することでしか成り立たない欠陥だらけのシステム。
「人が幸せになれないシステムなんて、壊れてるんだよ。修理するか、廃棄するしかないんだ」
カイの言葉が、スラムの夜明け前の空気に響いた。周囲の親衛隊たちが、冒涜的な言葉に色めき立つ。だが、クレドだけは動じなかった。彼は、カイの言葉を無知な子供の戯言として切り捨てるように、冷ややかに首を振った。
「修理だと?」
クレドが一歩、カイに近づく。その黄金の鎧から、圧倒的なプレッシャーが放たれる。
「貴様ごときに何が分かる。……この世界が、どれほどの『犠牲』の上に成り立っているかを」
クレドの声色が、初めて変わった。冷徹さの中に、昏い情熱のようなものが混じる。
「3000年だ。神は3000年間、この『アルカ』を漂流させてくださった。外に広がる、神のいない『虚無』から。……終わりのない崩壊から!」
彼は指揮杖を地面に突き立てた。
「個の自由? 幸福? そんなものは、生存が保証された後に許される贅沢だ。我々には、そんな余裕はない。全員が同じ音を奏で、同じ歩幅で歩まねば、この世界は一瞬で崩れ去る!」
クレドの言葉には、カイの知らない歴史の重みがあった。彼らにとっての全体主義は、支配のための道具ではなく、絶滅を回避するための切実な生存戦略なのだ。個を捨て、システムの一部となること。それだけが、この過酷な世界で人類が生き残る道だと、彼らは信じ込んでいる。
(……なるほどな)
カイは理解した。こいつらは悪人じゃない。ただの、狂信的な「管理者」だ。壊れかけた機械を、無理やり動かし続けるために、使える部品を次々と使い潰している。そのことに何の疑問も抱いていない。
「だから、俺に従えと言うのか」
「そうだ。貴様のその『異質』な魂。その硬度。解析すれば、新たな『楔』として役に立つかもしれん」
クレドはカイに手を差し伸べた。
「降伏せよ、異端者。個を捨て、聖譜の一部となれ。それが、貴様に与えられる唯一の救済だ」
救済。部品としての採用通知。それを断れば、死。受け入れれば、自我の死。
カイは、差し出された黄金の手を見つめた。その手は、血で汚れていない。汚れ仕事はすべて、システムが自動的に処理してきたからだ。
カイは、自分の左手を見た。泥と血と、煤で真っ黒に汚れた手。火傷の痕が痛々しく残る、ボロボロの手。だが、この手は、エルマに水を飲ませた手だ。ガレオスの農具を直した手だ。
「断る」
カイは、静かに、しかしはっきりと告げた。
「俺は、部品じゃない。エルマも、ガレオスも、ここにいる誰もお前らの使い捨ての電池じゃない!」
カイは、右手のプローブを構え直した。切っ先が、クレドの喉元を向く。
「システムが人を食い殺すなら、そんなシステム、俺が解体する」
その言葉は、宣戦布告だった。教会という巨大な権威に対し、たった一人の「個」が突きつけた、明確な拒絶。
「……残念だ」
クレドが、ゆっくりと手を下ろした。その仮面の奥から、感情の色が消え失せる。
「対話は終了だ。エラー個体、および汚染区域の全消去を実行する」
クレドが指揮杖を高く掲げた。その瞬間、周囲の親衛隊たちが一斉に下がり、距離を取った。カイを囲む包囲網が解かれる。逃がすためではない。ここを、更地にするためだ。
「総員、接続。最大出力」
クレドの声が、朗々と響き渡る。スラムを包囲していた数百の騎士たちが、一斉に杖を掲げる。彼らの鎧が共鳴し、膨大な光の粒子が立ち昇る。それらの光は、すべて中央にいるクレドへと集まっていく。
親機であるクレドが、数百人の騎士からエネルギーを吸い上げ、一つの巨大な砲台となろうとしているのだ。
(来るぞ。今までの比じゃない)
カイの肌が、静電気で粟立つ。大気中のエネルギー密度が、致死量を超えて跳ね上がっていく。呼吸をするだけで肺が焼けるような感覚。
「イグニス」
クレドの頭上に、太陽のような火球が生まれ始める。それはヴァルガスが放ったものとは桁が違う。物理法則をねじ曲げ、空間そのものを融解させるような、圧倒的な熱量。
(逃げ場はない)
後ろには、地下に隠れたエルマたちがいる。ここで俺が退けば、あの火球は地下まで貫通し、すべてを蒸発させるだろう。
カイは、震える足を地面に突き刺した。逃げない。避けない。
「上等だ。その自慢の『合唱』、俺一人で受け止めてやる」
カイは、プローブを握る右手に、残った全ての精神力を注ぎ込んだ。絶縁体の魂を、極限まで圧縮する。防御のためではない。あの巨大なエネルギーの塊に、たった一本の針を突き立て、その構造を崩壊させるために。
「見せてみろよ、お前らの『神の理』とやらを」
カイの瞳が、青白く燃え上がる。対するクレドは、神の如き威容で、断罪の炎を膨れ上がらせていく。
「斉射の用意」
スラムの夜明け。黄金の太陽と、青白い針。相反する二つの理が、今まさに衝突しようとしていた。




