第32話 孤立無援の突撃
夜明け前の冷気が、マンホールの隙間から地下水路の淀んだ空気へと流れ込んでくる。カイは、頭上の重い鉄蓋を数センチだけ持ち上げ、地上の様子を窺った。
そこは、スラムの広場から少し離れた瓦礫置き場の陰だった。幸運なことに、直接の監視の目は届いていない。だが、数十メートル先には、煌々と焚かれた篝火と、黄金の鎧を纏った騎士たちが壁のように整列しているのが見える。
(数は減っていない。むしろ、増えている)
カイは唇を噛んだ。敵の本隊は、スラムを完全に包囲し、内側へ向けて圧力をかけ続けている。今はまだ静かだが、これは嵐の前の静けさだ。指揮官クレドの一声があれば、いつでも「浄化」という名の虐殺が再開される。
カイは、ポケットの中にある「スマホ爆弾」を握りしめた。画面の割れたスマートフォン。その裏蓋をこじ開け、剥き出しになったリチウム電池に、地下水路で採取した発光するカビ――高濃度の澱を含んだ植物を巻き付けたものだ。
(……ごめんな。俺の青春)
カイは心の中で詫びた。あちら側の世界と繋がっていた最後の絆。だが、過去にすがりついて未来を失うよりはマシだ。
カイは、ナイフの柄でバッテリーの中心を一突きした。プシュッ、と小さな音がして、熱が発生する。リチウムと空気中の水分の反応。化学反応は待ってくれない。
「行けッ!!」
カイはマンホールの蓋を蹴り開け、煙を上げ始めた包みを、敵陣の風上――指揮官クレドがいる天幕の方角へ向かって、全力で放り投げた。
カツン。
乾いた音がして、包みが石畳の上に落ちた。見張りの騎士が、音に気づいて振り返る。
「何だ?」
その直後。
ボンッ!!
破裂音と共にバッテリーが発火した。その熱が、巻き付けられたカビを一瞬で燃焼させる。爆発的に広がったのは、炎ではない。ドス黒く、粘りつくような紫色の煙だった。
「煙!?」 「異常発生! 不浄反応、増大!」
騎士たちの動揺する声。煙は風に乗り、猛烈な勢いで広場へと流れ込んでいく。ただの煙幕ではない。このカビは、都市から排出された「澱」を濃縮して溜め込んでいる。それを一気に解放したのだ。
キィィィィン……!
騎士たちの鎧が、不快な共鳴音を上げ始めた。彼らの索敵システムは、清浄なエネルギーの流れを感知することに特化している。そこに、これほど高密度のノイズをぶちまけられれば、センサーはホワイトアウトするはずだ。
「視界喪失! 接続途絶……!」
報告の声が交錯する。完璧だった指揮系統に、致命的なラグが生じた。今だ。
カイはマンホールから飛び出した。泥だらけの体。ボロボロの衣服。闇に紛れるには好都合だ。彼は身を低くし、瓦礫の影を縫うようにして疾走した。目指すは一点。敵陣の中央、指揮官クレドの首。
(届く!)
煙に巻かれ、右往左往する騎士たちの脇をすり抜ける。彼らはカイの存在に気づいていない。あるいは、センサーの誤作動だと思っている。距離、五十メートル。三十メートル。煙の向こうに、黄金の輝きが見えた。クレドだ。彼は騒ぎの中にあって、一人だけ微動だにせず佇んでいた。
無防備な背中。カイは、右手のプローブを逆手に構え、最後の加速に入った。
だが。
クレドの背後に控えていた二つの影が、煙を切り裂いて動いた。
「敵襲ッ!!」
反応が速すぎる。センサーが潰れているはずなのに、彼らは「殺気」そのものに反応したのだ。左右から迫る銀色の刃。親衛隊だ。一般の騎士とは練度が違う。
「……ちっ!」
カイは急ブレーキをかけ、泥にまみれながらスライディングで刃を潜り抜けた。頭上で風を切る音。止まれば死ぬ。カイはそのままの勢いで、右側の親衛隊の懐に飛び込んだ。
「障害物、排除」
親衛隊が、感情のない声で剣を振り下ろす。魔法による身体強化。その速度は、カイの動体視力を遥かに超えている。だが、カイには「構造」が見えていた。剣を振るう直前、肩の装甲がわずかに発光する。エネルギー伝達の予兆。
(……そこだ!)
カイは「解体」で、剣を振るう敵の駆動系を抑え込もうとした。動力さえ断てば、重い鎧は止まるはずだ。だが、相手は手負いのヴァルガスとは違う、精鋭の騎士だ。カイが触れるよりも速く、手首が返る。刃の軌道が変わった。
ドスッ!
鈍い音がした。かわしきれなかった刃が、カイの左肩を浅く切り裂いた。鮮血が舞う。熱い痛みが走る。
「……が、ぁッ!!」
だが、カイは止まらなかった。痛みを怒りに変え、さらに踏み込む。肉を切らせて骨を断つ。あちら側の剣道で習った理屈じゃない。これは、スラムの喧嘩の作法だ。
カイの右手のプローブが、親衛隊の鎧の隙間――脇腹の関節に突き刺さる。
「デコンストラクションッ!!」
バチィッ!!
絶縁のスパーク。親衛隊の動きが止まる。エネルギー供給を断たれた鎧が、自重で硬直したのだ。カイはその体を盾にするようにして、もう一人の親衛隊の攻撃を防いだ。
ガギンッ!
仲間の鎧に剣が弾かれる。その隙に、カイは拘束された親衛隊を蹴り飛ばし、さらに奥へと突っ込んだ。
「貴様か」
煙が晴れた先に、クレドがいた。彼は驚いていなかった。むしろ、この混乱こそが想定内であるかのように、冷徹な瞳でこちらを見下ろしている。指揮杖を軽く振り、周囲の煙を風圧で払いのける。
「羽虫が。光に焼かれに来たか」
クレドが指揮杖を向ける。その先端に、圧縮された高密度の熱量が集束していく。詠唱はない。指揮官クラスともなれば、予備動作なしで魔法を行使できるのか。あるいは、杖そのものに術式が保存されているのか。
距離、五メートル。プローブの射程外。
(計算外だ。こいつ、速すぎる!)
カイの脳内で、死の警報が鳴り響く。だが、引くわけにはいかない。ここで引けば、地下のエルマたちが殺される。スラムが焼かれる。
「システムごと、落ちろッ!!」
カイは、ヘドロにまみれた左手を振りかざし、最後の賭けに出た。プローブを投げるのではない。彼が掴んだのは、腰にぶら下げていた汚染された泥団子――先ほど水路でかき集めた、高濃度の「澱」の塊だ。
物理的な攻撃? 違う。これは、精密機械に対する「水掛け論」だ。議論などいらない。ショートして黙りやがれ。
「汚れろ!!」
泥団子が、クレドの顔面――兜のバイザーを目掛けて飛ぶ。クレドは反射的に杖を振って泥を弾こうとした。
ボッ!
杖の熱で泥が蒸発する。だが、その瞬間、爆発的に広がった不浄な蒸気が、クレドの周囲の清浄な魔力場を汚染した。清潔な手術室に、肥溜めをぶちまけたようなものだ。環境そのものがエラーを吐き出す。
キィィィィン……!
クレドの鎧が、不快なノイズを上げて明滅する。わずかな出力低下。魔法の照準がズレる。
(今だ!)
その一瞬の隙を突いて、カイは肉薄した。右手のプローブを、クレドの心臓――黄金の胸甲の中央へ突き出す。
だが。
ガキンッ!!
硬質な音が響いた。プローブは、クレドの胸に届く前に止められていた。クレドの左手が、カイのプローブを「素手」で掴み止めていたのだ。
「……な、に……!?」
カイは愕然とした。プローブを、素手で? 見れば、クレドの手甲は、カイの放つ拒絶の波動を受けて赤熱し、ジュウジュウと音を立てていた。だが、彼は眉一つ動かさず、万力のような力で握りしめている。
「ぬるいな、異端者」
クレドの声が、至近距離で響いた。
「小賢しい『理屈』に頼りすぎだ。痛みを受け入れる『献身』が足りない」
メキメキッ……。 カイのプローブが、クレドの握力によって曲げられていく。圧倒的な身体能力。魔法だけじゃない。こいつ自身が、信仰によって痛覚さえも遮断した怪物だ。
(こいつ、自分の手が焼けるのを無視して……!)
カイの戦術は「相手が嫌がることをする」だ。だが、相手が「痛み」を神への供物として切り捨てているなら、その前提は崩れる。
ドォォォン!!
クレドの右足が、カイの腹に突き刺さった。内臓が潰れるような衝撃。カイの体はボールのように吹き飛ばされ、泥の上を転がった。
「が、ぁ……ッ!?」
呼吸ができない。視界が明滅する。だが、カイはプローブを手放してはいなかった。泥を噛み締めながら、体を起こそうとする。
見上げれば、クレドが泥を払うような仕草で、ゆっくりと歩み寄ってくる。周囲には、煙幕から立ち直った親衛隊たちが、剣を構えて包囲網を敷いていた。
完全に、詰みだ。
「捕縛せよ」
クレドが冷たく命じた。
「殺すな。その『異質な魂』の構造、聖遺保管所にて解剖する必要がある」
兵士たちが迫ってくる。カイは、泥に顔を埋めたまま、指先を痙攣させた。動かない。体が、言うことを聞かない。
薄れゆく意識の中で、地下に残したエルマの笑顔がよぎった。ごめん。守れなかった。俺の計算は、あいつらの「黄金の理」には届かなかった。
(……いや、まだだ)
兵士の手が伸びてくる。だが、カイは泥の中で、ぐっとプローブを握り直した。折れていない。俺の魂も、この鉄の棒も。
「まだ、終わってない……」
カイは、這いつくばったまま、クレドを睨みつけた。その瞳には、敗北の色ではなく、不完全な数式を見つめるような、執拗な解析の光が残っていた。
スラムの夜明け前。泥の中の計算式は、まだ未完成のまま、圧倒的な暴力の前に放り出されていた。




