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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
審判の鉄槌

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第31話 泥の中の計算式

 頭上のマンホールが重い音を立てて閉ざされた瞬間、世界から赤と黄金の色が消えた。代わりに訪れたのは、鼻を突く腐敗臭と、肌にまとわりつくような湿気。そして、絶対的な闇だった。


「……はぁ、……はぁ、……ッ」


 カイは、背中をコンクリートの壁に預け、泥水の中に座り込んだ。震えが止まらない。恐怖ではない。魂が摩耗しきったことによる、肉体的な拒絶反応だ。右手のプローブは焼け焦げ、指先の感覚は麻痺している。先ほどまでの「合唱(コーラス)」による熱波の余韻が、幻痛となって全身を苛んでいた。


「カイ、大丈夫?」


 暗闇の中から、エルマの小さな声がした。彼女はガレオスの服の裾を握りしめ、怯えたように息を殺している。ここはスラムの地下水路。都市から排出された汚水と、行き場を失った魔力の残滓――「澱」が吹き溜まる、世界の掃き溜めだ。


「ああ。なんとか、生きてる」


 カイは短く答え、闇に目を凝らした。ここには光がない。あの黄金の騎士たちが放つ、目が眩むような輝きも、焼き尽くす熱もない。あるのは、ドブ川の臭いと、冷たい静寂だけだ。


 だが、今のカイにとって、この劣悪な環境こそが唯一の救いだった。


「ガレオス。あいつら、入ってこないな」


 カイが天井を見上げて呟くと、老人は重々しく頷いた。


「ああ。ここは、不浄だからだ」


「不浄?」


「教会の眼は清浄な流れしか見えん」


 教会の「眼」――あの上空を飛ぶ使い魔や、兜のセンサーは、きれいなエネルギーの流れを感知することに特化している。だが、この地下水路はどうだ。都市中から排出された澱が沈殿し、ドロドロに渦巻いている。地上よりも遥かに「ノイズ」が酷い場所だ。


「なるほど。ここは天然の『ジャミングエリア』ってわけか」


 カイは納得した。高感度のマイクほど、雑音のひどい場所では役に立たない。彼らの精密すぎるセンサーは、この地下に充満する「澱」の嵐に邪魔されて、カイたちという微弱な信号を拾えないのだ。彼らにとってこの場所は、真っ暗な嵐の海のようなもの。そして、潔癖な彼らは、わざわざ汚いドブ川に足を浸してまで、ネズミを探そうとはしない。


「騎士団は来ない。浄化が終わるまでは」


 ガレオスが言った。彼らは外側から焼き払って、中身が出てくるのを待つ気だ。それは一時的な安全を意味すると同時に、完全な「袋のネズミ」であることも意味していた。


 だが。カイの脳裏に、ある閃きが走った。


(……待てよ。ノイズが酷くて『見えない』なら……)


 カイは、先ほどの戦闘を脳内で再生した。敵の指揮官クレド。彼が指揮杖を振ると、数十人の騎士が一糸乱れぬ動きで魔法を放った。あれは単なる訓練の成果じゃない。彼らは「同じ波長」を共有している。指揮官を親機として、兵士たち全員が無線で繋がっているような状態だ。だからこそ、個人の意思を排した完璧な「合唱(コーラス)」ができる。


 だが、無線通信には弱点がある。混線だ。


(きれいな音楽ほど、雑音に弱い)


 カイは、足元を流れるドロドロとした汚水を見つめた。ここには、騎士たちが最も嫌う「不浄」が満ちている。もし、この汚いノイズを、彼らの完璧な演奏の中に無理やり割り込ませたらどうなる?


 指揮者のタクトが見えなくなる。お互いの音が聞こえなくなる。同期がズレれば、あの巨大なシステムは自壊するはずだ。


(俺の魂は『絶縁体』だ。電気を通さないゴムみたいなもんだ)


 これまでは、その性質を「防御」に使ってきた。敵の魔法を弾くために。だが、ゴムは電気を通さないが、「静電気」を溜め込むことはできる。そして、溜め込んだノイズを一気に放出すれば、精密機器の回路を焼き切ることだってできる。


 カイの中で、泥だらけの計算式が組み上がっていく。もはや「解体」ではない。「汚染」だ。敵の清潔なネットワークに、この地下の汚泥をぶちまける。


「ガレオス。ここの出口は?」


 カイが尋ねると、老人は水路の奥を指差した。


「通路がある。おそらくその先は敵陣の裏だ」


「上等だ」


 カイは立ち上がろうとした。足がよろめく。激痛が走る。だが、その瞳だけは冷たく燃えていた。


「カイ……? 行くの?」


 エルマが、カイの袖を掴んだ。その手は震えている。彼女は分かっているのだ。カイが今から行こうとしている場所が、死地であることを。


「……ああ。ちょっと、忘れ物を取りにな」


 カイは、エルマの手を優しく、しかし強引に解いた。


「忘れ物?」


「『日常』だよ。あいつらに奪われたままじゃ、寝覚めが悪い」


 嘘だ。日常なんて、とっくの昔に灰になった。鞄の中の教科書も、あのあばら屋での生活も、もう戻らない。これはただの意地だ。システムに組み込まれることを拒絶した、一人の人間としての、最後の悪あがき。


「ガレオス。二人はここでじっとしてろ。絶対に、音を立てるなよ」


「……カイ。死ぬ気か?」


 ガレオスの問いに、カイは答えなかった。代わりに、壁面を這っている「発光するカビ」のようなものに目を留めた。


(……こいつは)


 カイは以前、ガレオスから聞いた話を思い出した。『光る苔には触るな。澱を溜め込んで、刺激すると爆発して胞子を撒き散らす』。スラムの住人にとっては地雷のような厄介者だ。だが、今のカイにとっては、これ以上ない「武器」に見えた。


(使える。高濃度の『不浄』の塊だ)


 カイは、ナイフ代わりの鉄片を使い、慎重にカビを削り取った。刺激を与えないように、そっと布切れの上に集める。これを敵陣のど真ん中で起爆させれば、強力な煙幕になるはずだ。


 だが、どうやって起爆する? マッチもライターもない。魔法も使えない。


 カイの手が、ポケットの中の「遺物」に触れた。画面の割れたスマートフォン。あちら側の世界から持ってきた、唯一の通信機器。もちろん、圏外だ。電源も入らない。ただの黒い板。


(……ごめんな。お前には、もう一度だけ働いてもらう)


 カイは、スマホの裏蓋をナイフでこじ開けた。中にはリチウム電池が入っている。理科の実験動画で見たことがある。リチウム電池は、物理的に破損させて空気に触れさせれば、激しく発熱・発火する。


 カイは、集めたカビの塊の中にバッテリーを埋め込み、布できつく縛った。あちら側の文明の遺産と、こちらの世界の汚れ。そのハイブリッド爆弾。これが、俺の全財産だ。


「行ってくる」


 カイは、泥を顔に塗りたくった。臭い。汚い。だが、これで俺の波長は、この地下のノイズと完全に同化する。


「カイ……!」


 エルマが泣きそうな声で呼ぶ。カイは一度だけ振り返り、不器用に笑ってみせた。


「大丈夫だ。計算は合ってる」


 暗闇がカイを飲み込んでいく。背中でエルマが泣く声が聞こえたが、彼はもう振り返らなかった。振り返れば、足が止まる。今はただ、冷徹な「機能」になりきらなければならない。


 地下水路の構造は複雑だった。教会の地図には載っていない、遥か昔の文明が遺した排水システムなのだろうか。壁面には見たこともない滑らかな素材のパイプが走り、時折、生き物のような唸り声を上げている。


 カイは、足音を殺して進んだ。進むにつれて、空気中の「澱」の濃度が増していく。普通の人なら発狂しかねない瘴気だ。だが、カイの「硬い魂」にとっては、むしろ都合が良かった。この濃密なノイズが、カイの存在を覆い隠す迷彩になってくれる。


(……ここだ)


 頭上のマンホールから、微かな光と音が漏れている。ザッ、ザッ、ザッ……。規則正しい行軍の足音。そして、微かに聞こえる詠唱の声。


 カイは、錆びついた梯子に手をかけた。ここから先は、敵の喉元だ。一歩間違えれば即死。心臓が早鐘を打つ。恐怖で指が震える。だが、カイは深呼吸を一つし、その震えを「武者震い」だと定義し直した。


(イメージしろ。俺はただの『異物』だ。精密機械に紛れ込んだ、一粒の砂利だ)


 カイは、梯子を登り、マンホールの蓋に手をかけた。重い。だが、開かない重さではない。


 隙間から、夜風が入ってくる。それは戦場の匂いを含んでいた。焦げた臭い。金属の臭い。そして、圧倒的な魔力の臭い。


(待ってろよ、指揮者さん)


 カイは、ポケットの中の「スマホ爆弾」を握りしめ、冷たく光る瞳で頭上の世界を睨みつけた。


 きれいな音しか聞こえないお前の耳に、このドブ川のノイズを聞かせてやる。


 カイは、静かに、しかし力強く、マンホールの蓋を押し上げた。

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