第30話 合唱の脅威
空が、落ちてきた。
カイの網膜に焼き付いたのは、そんな錯覚を覚えるほどの圧倒的な「赤」だった。スラムの上空を覆っていた紫色の霧が、一瞬にして消し飛ぶ。代わりに空間を埋め尽くしたのは、物理的な質量を持った熱線の雨だ。
「カ・ネ、テラ……メロディア」
指揮官クレドが振り下ろした杖を合図に、数十人の聖騎士たちが声を重ねる。それは個人の詠唱ではない。数十の喉が、完全に同じピッチ、同じリズム、同じ抑揚で聖句を紡ぐ、不気味なほどの「合唱」。
「ムンドゥス……インプルス……シニス……フィアト……」
個々の騎士から立ち昇る黄金の光が、上空で一つに束ねられる。そこには、レンズの役割を果たす黒い点が幾何学的な陣形を組んで待ち構えていた。光は使い魔を経由して拡散し、スラム全域へと降り注ぐ。
ジュッ、という音が世界から湿り気を奪った。
「あ、熱ッ……!?」
カイはとっさにエルマを抱え込み、瓦礫の影に滑り込んだ。直後、彼らが立っていた地面が、沸騰したように泡立った。泥沼化させていた地面の水が一瞬で蒸発し、ひび割れた土が陶器のように赤熱して固まる。
火球が飛んできたわけではない。空間そのものが、巨大なオーブンの中に入れられたかのように、内側から加熱されているのだ。
「カイ! 家が……!」
エルマの悲鳴。見れば、スラムの入り口付近にあったあばら屋が、発火点を超えて自然発火していた。火種などない。ただ熱すぎるという理由だけで、世界が燃え始めている。
(デタラメだ。これが、軍隊の魔法かよ……!)
カイは歯を食いしばり、右手のプローブを握りしめた。ヴァルガスとの戦いとは次元が違う。あれは単発の「点」の攻撃だった。だから、軌道を逸らしたり、供給源を断つことができた。だが、これは違う。これは「面」の制圧だ。スラム全体を巨大な鉄板の上に乗せて焼いているようなものだ。逃げ場などない。
「デコンストラクションッ!!」
カイは、目の前に迫る熱波の壁に向かって、プローブを突き出した。狙うのは、熱源となっているエネルギーの結合。ここにある熱の定義を、物理的に拒絶する。
バチィッ!!
プローブの先から青白いスパークが走る。たしかに、カイの突き出した一点だけ、熱波に穴が開いた。空気が冷え、赤熱した光が消える。だが、それだけだ。開けた穴は、周囲から押し寄せる膨大な熱量によって、瞬きする間に埋め尽くされた。
「……な、に……?」
カイは愕然とした。手応えがない。いや、ある。確かに干渉はした。だが、相手が巨大すぎる。一人の騎士の魔力を断っても、隣の騎士が、そのまた隣の騎士が、即座にエネルギーを補填してくる。
(並列つなぎかよ。こいつら、全員で一つの回路を作ってやがる!)
カイの脳裏に、理科の実験でやった豆電球と乾電池の図式が浮かぶ。数十人が手を繋いで、一つの巨大な電池になっているようなものだ。一人が欠けても、回路全体としての機能は止まらない。クレドという親機が全体を制御し、子機である騎士たちがエネルギーを提供している。
これまでのカイの戦い方は、相手の「急所」を一点突破で突くものだった。だが、このシステムには急所がない。全体が急所であり、全体が補完し合っている。
「……くそっ、キリがない!」
カイは舌打ちした。目の前の熱波を消しても、次から次へと新しい熱が供給される。プローブを持つ右手が、摩擦熱で赤く焼け始めている。このままでは、こっちの魂が先に焼き切れる。
「進め」
炎の向こうから、クレドの冷徹な声が響いた。黄金の騎士団が、一糸乱れぬ足取りで前進してくる。彼らの周囲には、熱波を遮断する防御結界が張られているのだろう。燃え盛るスラムの中を、彼らは散歩でもするかのように優雅に歩いてくる。
その足元で、逃げ遅れた住人が炎に巻かれて倒れる。騎士の一人が、邪魔だと言わんばかりにその体を踏みつけて通り過ぎる。
「……やめろぉッ!!」
カイが叫び、飛び出そうとする。だが、ガレオスがその肩を強く掴んで引き止めた。
「カイ! ならん! 無理だ!」
「離せじいさん! あいつら、人をゴミみたいに……!」
「お前が死ねば、誰がエルマを守る!? 見ろ!」
ガレオスが指差した先。建物の影に隠れていた住人たちが、熱に耐えきれずに飛び出し、次々と騎士たちの魔法に焼かれていく光景があった。戦いではない。一方的な掃除だ。カイの解体は、一対一なら無敵に近い。だが、戦争という「数とシステム」の暴力の前では、個人の武力など砂粒のようなものだ。
その時、上空の黒い点――使い魔の一つが、カイたちの隠れている瓦礫の山に反応した。ピピピ、という耳障りな音が響き、赤い光がカイの胸元に照射される。
「ターゲット、再捕捉」
遠くで、騎士たちが一斉に杖をこちらへ向けた。
「……しまっ……」
位置がバレた。数十本の杖先に、どす黒い炎が凝縮されていく。
「斉射」
ゴォォォォォォッ!!
数十発の火球が、雨あられと降り注いだ。回避不能。迎撃不可能。カイはとっさにエルマとガレオスを押し倒し、自身の体を盾にするように覆いかぶさった。
(……防げない。受け止めるしかない……!)
カイは、右手のプローブを捨て、両手を天に突き出した。自分の魂を、極限まで硬化させる。絶縁体の殻を、最大出力で展開する。
「ヴァクア……インシュレーションッ!!」
カイの周囲数メートルだけ、音と熱の伝導が物理的に途絶えた。直後、着弾。
ドガガガガガガッ!!
鼓膜が破れそうな轟音。熱波がカイの背中を焼く。衝撃が内臓を揺らす。だが、直撃は免れた。カイが作り出した「真空の壁」が、熱エネルギーの伝導を物理的に遮断したのだ。
「……ぐ、ぅぅぅ……ッ!」
カイの口から血が噴き出す。防ぎきれていない。あまりの圧力に、魂がミシミシと音を立てて削れていく。周囲の瓦礫は蒸発し、地面はガラス状に溶解している。クレーターの底で、カイたちは辛うじて息をしていた。
「カ、イ……?」
腕の中で、エルマが震えている。彼女は無事だ。ガレオスも、煤だらけだが生きている。だが、カイの背中は限界だった。制服は焼け焦げ、皮膚が赤くただれている。
(……強い。強すぎる)
これが、聖騎士団。ヴァルガスのような田舎騎士とは、出力の桁が違う。システム化された暴力。
煙が晴れる。クレーターの縁に、黄金のブーツが現れた。クレドだ。彼は、瓦礫の底で虫の息になっているカイたちを、無感情に見下ろしていた。
「しぶといな、エラー個体」
その声には、称賛も侮蔑もない。ただ、燃え残ったゴミを見るような事務的な響き。
「だが、聖譜の檻からは出られない。終曲だ」
クレドが指揮杖を掲げる。周囲の騎士たちが、再び詠唱を始める。今度は、先ほど以上の密度。とどめの一撃。
カイは、霞む視界で周囲を見渡した。逃げ場はない。戦う力も残っていない。
(考えろ。止まるな)
カイの脳が、死の淵で異常な回転を見せる。正面からは勝てない。防御もジリ貧だ。なら、どうする? 相手の強みは連携だ。指揮官の号令一つで、手足のように動くシステム。そして、その連携を支えているのは……。
カイの目が、上空に浮かぶ「黒い点」を捉えた。あいつだ。あの使い魔が、正確な位置情報を騎士たちに送っている。あれが「目」であり、通信網の結節点だ
(目を潰せば、狙いは狂うはずだ)
だが、どうやって? あの高さには届かない。石を投げても届かない。
その時、カイの視界の端に、崩れかけた高い塔――かつてのスラムの監視塔が映った。先ほどの爆撃で基部が破壊され、今にも倒れそうに傾いている。その倒壊予測地点は……騎士団の陣形の中央。
(これだ)
カイは、ガレオスに耳打ちした。
「じいさん。俺が合図したら、全力で走れ。『地下』へ」
「カ、カイ……お前は……」
「俺も行く。道を、作るから」
カイは、残った最後の力を振り絞り、立ち上がった。フラフラする体。だが、その瞳だけは、クレドを射抜くように睨みつけている。
「まだだ。『手』は、まだある」
カイは、左手を瓦礫の山――監視塔の、かろうじて残っている支柱の根元に向けた。距離、十五メートル。干渉できるギリギリの範囲。
「デタッチッ!!」
カイが叫ぶと同時に、支柱の分子結合が弾け飛んだ。物理的な支えを失った数十トンの石塔が、重力に従って傾いていく。
ギギギ、ゴォォォ……ッ!!
巨大な質量が、頭上から降り注ぐ。狙いは騎士団ではない。彼らの頭上、低空を飛行していた使い魔の群れだ。
「……!?」
クレドが初めて表情を変えた。崩落する瓦礫の雨が、空中の使い魔を巻き込んでいく。予期せぬ物理攻撃。使い魔たちは回避行動を取ろうとするが、瓦礫の密度が高すぎて逃げ場がない。
ガシャァァァン!!
数体の使い魔が瓦礫に叩き潰され、火花を散らして墜落した。瞬間、騎士たちの動きが止まる。照準が狂ったのだ。詠唱のリンクが乱れ、集束しかけていた火球が空中で霧散する。
「……目潰しか。小賢しい」
クレドが舌打ちをする。その一瞬の隙。
「走れェッ!!」
カイが叫んだ。ガレオスがエルマを抱え、瓦礫の粉塵に紛れて走り出す。目指すはスラムの最深部、地下水路への入り口。カイもまた、泥にまみれながらその後を追う。
「追え! 見失うな!」
背後でクレドの怒号が響く。だが、崩落した塔が物理的なバリケードとなり、騎士団の進軍を阻んでいる。粉塵が煙幕となり、視界を塞ぐ。
カイたちは、瓦礫の迷路を抜け、マンホールの蓋を開けて暗闇の中へと滑り込んだ。重い鉄蓋を閉じた瞬間、地上の喧騒が遠のく。腐臭と湿気に満ちた、暗い地下道。だが、今の彼らにとっては、そこだけが唯一の安息の地だった。
「……はぁ、はぁ、……」
カイはその場に座り込んだ。手が震えて止まらない。逃げ切ったわけではない。ただ、死刑執行を数時間先延ばしにしただけだ。地上は完全に包囲されている。出口はない。
「カイ、大丈夫?」
エルマが、暗闇の中でカイの手を握った。冷たくて、小さな手。カイは、彼女の手を握り返した。
「ああ。まだ、生きてる」
カイは頭上のマンホールを見上げた。この一枚の鉄板の向こうには、あの黄金の悪魔たちが待っている。システム化された軍隊。圧倒的な火力。そして、個を許さない冷酷な指揮官。すぐに見つかるはずだ。あんな高精度のセンサーを持っている連中だ。熱源探知でも魔力探知でも、今の俺たちを見つけることなんて造作もないはずだ。
だが、数分経っても、追っ手が蓋を開ける気配はない。
「ガレオス。あいつら、入ってこないのか?」
カイが尋ねると、暗闇の奥で老人が荒い息を整えながら答えた。
「ここは、不浄だ」
「不浄?」
「教会の眼は、清浄な流れしか見えん」
ガレオスの言葉を、カイの脳が翻訳する。教会の「眼」――つまりあの使い魔や兜のセンサーは、きれいなエネルギーの流れを感知することに特化している。だが、この地下水路はどうだ。都市中から排出された澱が沈殿し、ドロドロに渦巻いている。地上よりも遥かに「ノイズ」が酷い場所だ。
「なるほど。ここは天然の『ジャミングエリア』ってわけか」
カイは納得した。高感度のマイクほど、雑音のひどい場所では役に立たない。彼らの精密すぎるセンサーは、この地下に充満する「澱」の嵐に邪魔されて、カイたちという微弱な信号を拾えないのだ。彼らにとってこの場所は、真っ暗な嵐の海のようなもの。
「騎士団は来ない。浄化が終わるまでは」
ガレオスが言った。彼らは汚い場所には入ってこない。外側から焼き払って、中身が出てくるのを待つ気だ。それは一時的な安全を意味すると同時に、完全な「袋のネズミ」であることも意味していた。
だが。カイの脳裏に、ある閃きが走った。
(待てよ。ノイズが酷くて『通信』ができないなら……)
カイは、先ほどの戦闘を脳内で再生した。使い魔を物理的に潰した瞬間、彼らの連携が一瞬乱れた。彼らは「情報共有」に依存している。そして今、この地下は「強力な電波障害」が発生しているような状態だ。
もし、このノイズだらけの環境を、敵の陣地まで引き上げることができたら? あるいは、敵の指揮官と兵士の間にある「きれいな通信波」に、この汚いノイズを無理やり割り込ませたら?
(繊細な指揮者は、雑音を嫌う)
カイの中で、冷徹な計算式が組み上がっていく。防衛戦は終わりだ。ここからは、潜入と工作。敵の懐に飛び込み、その完璧な連携に、致命的な「不協和音」を叩き込む。
カイは、懐から壊れかけたプローブを取り出した。銀の針金は焼き切れ、鉄棒はひしゃげている。だが、まだ使える。俺の魂が折れていない限り。
「ガレオス。ここなら、しばらくは見つからないんだな?」
「ああ。教会の地図にはない、古い通路がある」
「よし。少し休んだら、俺は出る」
「何処へ行く気だ?」
カイは、暗闇の中で目を光らせた。
「地上だ。あいつらの『指揮者』を、引きずり下ろしに行く」
地上の炎が、マンホールの隙間から微かに漏れ出し、地下道の天井を揺らしている。泥の中の計算式。ノイズという名の武器を見つけた修復者は、絶望的な戦力差を覆すためのたった一つの解法を求めて、思考の海へと深く潜っていった。




