第26話 嵐の予兆
季節が変わったのか、それともこの世界に季節という概念が存在しないのか、カイには判別がつかなかった。ただ、スラムを覆う紫色の霧が、以前よりも少しだけ重く、肌にまとわりつくようになった気がする。
あばら屋の前で、カイは黙々と手を動かしていた。手元にあるのは、スラムの住人が持ち込んだ壊れた農具――くわのような鉄製の道具だ。柄の部分が折れ、金属の接合部が歪んでいる。
「ここが金属疲労を起こしてる。無理な力がかかった証拠だ」
カイは独り言を呟きながら、ポケットから取り出した「銀の針金を巻いた鉄棒」を接合部に当てた。意識を集中する。魔法を使うのではない。歪んでしまった金属の分子結合を、ほんの少しだけ緩め、正しい位置に矯正するイメージ。
「リパラ」
短く呟き、プローブを通じて微弱な「拒絶」の信号を送る。カチン、と小さな音がして、歪んでいた接合部が元の形に戻った。あとは物理的に補強すればいい。カイは手元にあった麻紐と松脂のような接着剤を使って、折れた柄を固定した。
「ほら、終わったぞ」
カイが修理した農具を差し出すと、依頼主である中年の男は、信じられないものを見るような目でそれを受け取った。
「ありがとう……。これは、魔法なのか?」
男が恐る恐る尋ねてくる。カイは首を横に振った。
「違う。技術だ」
男はまだ納得していない様子だったが、何度か頭を下げて去っていった。その背中を見送りながら、カイは小さく息を吐いた。
ヴァルガスを撃退してから、数ヶ月が過ぎていた。あの日、「数ヶ月の猶予」とガレオスが言った通り、教会からの追っ手はまだ来ていない。その間、カイはこのスラムで奇妙な立ち位置を確立していた。
魔法を消す不気味な異邦人。しかし、壊れた井戸を直し、毒水をろ過し、ガラクタを修理する修復屋。
住人たちがカイに向ける視線から、露骨な敵意は消え始めていた。もちろん恐怖はある。だが、それ以上に「生活を維持してくれる存在」としての信頼が生まれつつあった。一定の距離を保ちながらも共存するという、奇妙なバランスだ。
「カイ! 水、終わったよ!」
あばら屋の中から、元気な声が響いた。エルマだ。彼女はこの数ヶ月で、少しだけ肉付きが良くなっていた。カイが毎日水をろ過し、毒のない食料を確保しているおかげだ。頬には健康的な赤みが差し、以前のような死相は消え失せている。
「ああ、今行く」
カイは立ち上がり、腰のベルトにプローブを差した。言葉も、だいぶ不自由なく話せるようになった。ガレオスとの毎晩の勉強会のおかげだ。この世界の言葉は、かつて学校で習った英語やラテン語の語源に近い。法則さえ掴んでしまえば、あとは単語をパズルのように当てはめるだけで、日常会話レベルなら問題なく意思疎通ができる。
あばら屋の中に入ると、大量の容器が並べられていた。スラム中から集められた、一週間分の飲料水だ。
「今日は多いな」
カイが苦笑しながら左手を水瓶にかざす。数ヶ月前は、一杯の水をろ過するだけで鼻血を出して倒れていた。だが今は違う。
(イメージしろ。フィルターの目はより細かく。対象の選別はより高速に)
水の中に溶け込んでいる「紫色の粒子」だけを、物理的な異物として認識する。カイの魂は絶縁体だ。混ざらないからこそ、混ざっているものを弾き出すことができる。
「セパラ」
パチチチッ。
静電気のような音が連続して響き、水瓶の中から紫色の光が霧散していく。作業は数分で終わった。カイの額にはうっすらと汗が滲んでいたが、以前のような激しい消耗はない。魂の使い方が、より効率的になった証拠だ。
エルマが嬉しそうに水を運んでいく背中を見ながら、カイは自分の左手を見つめた。火傷の痕はまだ残っているが、痛みはない。むしろ、この火傷痕が、世界と接するための「接点」のように馴染んできている。
右手のプローブ、左手に宿る『解体』の感覚、そして現地の言葉。生きるための武器は揃った。いつ「奴ら」が来ても、戦える。
そんなことを考えていた矢先だった。あばら屋の扉が荒々しく開かれた。
「カイ! 話がある」
飛び込んできたのはガレオスだった。彼は街へ情報の収集に出かけていたはずだ。だが、その顔色は、見たこともないほど蒼白だった。いつもは穏やかな瞳が、小刻みに揺れている。
「どうした、じいさん。そんなに慌てて」
「噂だ。いや、噂じゃない」
ガレオスは杖をつく手も震わせながら、呼吸を整えようと必死だった。
「隣街の行商人から聞いた。『街道』が封鎖されたそうだ」
「封鎖?」
「ああ。一般人の通行が禁止された。大規模な『軍隊』を通すためにな」
軍隊。その単語が出た瞬間、あばら屋の中の空気が凍りついたように重くなった。カイの心臓が、早鐘を打ち始める。
「……来たのか」
「まだだ。だが、時間の問題だ」
ガレオスは、恐怖を押し殺すように言葉を継いだ。
「目撃者がいたそうだ。金色の波が見えたと。地平線を埋め尽くすほどの、銀と黄金の鎧の軍勢が、こちらへ向かっている」
黄金の鎧。それは、ヴァルガスのような地方の徴税騎士が着ていたようなどす黒い銀色ではない。教会の威信をかけた、正規の殲滅部隊。
「レギオ……聖なる騎士団だ」
ガレオスが絶望的な声でその名を口にした。聖騎士団。異端審問の執行者。ヴァルガス一人の時でさえ、スラムは壊滅寸前だった。それが「軍団」となって押し寄せてくる。
「目的は、ここか?」
「分かっているだろう。……お前だ、カイ」
ガレオスの視線が痛い。数ヶ月前、ヴァルガスを撃退したあの日。カイはスラムを守った。だが、それは同時に、教会に対して「明確な反逆」の狼煙を上げたことでもあった。魔法を消す少年。神の理に歯向かう異端者。そんな存在を、彼らが放置するはずがない。
「逃げるなら、今しかない」
ガレオスが言った。
「地下水路を使えば、まだ包囲網を抜けられるかもしれない。街の外……『荒野』へ逃げろ。お前一人なら……」
「断る」
カイは即答した。迷いはなかった。
「逃げても無駄だ。あいつらは、俺を見つけるまで追いかけてくる。それに……俺がいなくなったら、ここは焼き払われるんだろ?」
異端者を匿った罪。見せしめの浄化。ヴァルガスがやろうとしたことを、聖騎士団がやらない保証はない。いや、正規軍だからこそ、より徹底的に、事務的に「処理」するだろう。
カイは、不安そうにこちらを見ているエルマに目をやった。彼女の笑顔。毒のない水を飲めるようになった生活。それを置いて、自分だけ逃げる? そんな選択肢は、数ヶ月前のあの日、とっくに捨てたはずだ。
「……戦うのか? あんな、化け物たちと」
「化け物じゃないさ」
カイは、腰のプローブを握りしめた。
「ただの『物理現象』だ。規模がデカくなっただけで、理屈は変わらない」
強がりだ。膝が震えそうになるのを、必死に抑え込んでいる。相手は軍隊。こちらは一人。勝算なんて、計算するまでもなくゼロに近い。だが、ゼロじゃないなら、書き換える余地はある。
その時だった。外の空気が変わった。
「……?」
カイはあばら屋の外へ出た。空を見上げる。いつもの紫色の空。だが、何かが違う。遠くの空に、黒い点のようなものが浮かんでいた。一つではない。十、二十……いや、百を超える数。
鳥の群れか? いや、違う。あんなに整然とした隊列で飛ぶ鳥はいない。それに、あの黒い点からは、生物特有の「ゆらぎ」が感じられない。もっと無機質で、冷徹な「監視」の気配。
「使い魔か」
教会の斥候だ。空からこの街を監視し、包囲網を完成させようとしているのだ。そして、風に乗ってわずかに聞こえてくる、重厚な音。
ブォォォォォォ……。
角笛の音。あるいは、巨大な質量が進軍する地響き。まだ姿は見えない。だが、確実に「それ」は近づいている。死刑執行人が、ゆっくりと、しかし確実に絞首台への階段を上ってくる足音のように。
「執行猶予は終わり、か」
カイは、迫りくる見えない重圧を正面から受け止めた。恐怖はある。だが、それ以上に頭脳は冷え切っていた。
数ヶ月の猶予は終わった。ここからは、本番だ。生か死の二つに一つ。
「ガレオス。エルマを連れて、家の奥へ。一番頑丈な場所へ隠れてろ」
カイは振り返らずに言った。ガレオスは何か言おうとして、飲み込んだ。カイの背中から立ち昇る、冷たく硬質な気配を感じたからだ。それはもう、守られるべき少年の背中ではなく、戦場に立つ戦士のそれだった。
カイは、プローブを引き抜いた。黒く錆びた鉄棒に、銀の針金が巻かれただけの、無骨な道具。黄金の軍勢を前にすれば、爪楊枝のような頼りなさだ。
だが、カイの唇には、不敵な笑みが浮かんでいた。
(上等だ。数ヶ月前とは違うぞ)
今の俺には、知識がある。道具がある。そして、守るべき日常がある。物理法則を無視したお前らの黄金の鎧が、どれだけ脆いか。その身を持って教えてやる。
遠くで響く角笛の音が、宣戦布告のようにスラムの空気を震わせた。紫色の霧の向こうから、嵐がやってくる。




