第25話 銀の針金
痛みは、遅れてやってくる。アドレナリンの過剰分泌が収まった頃、ツケを払えとばかりに神経を焼き焦がすのだ。
スラムの広場でごろつきたちを追い払った翌日。カイはあばら屋の薄暗い一角で、自身の左手を見つめていた。見た目に大きな傷はない。だが、指先をわずかに動かすだけで、骨の髄に熱した針を突き刺されたような鋭い痛みが走る。
(やっぱり、生身じゃ限界がある)
カイは脂汗を拭い、溜息をついた。昨日の実習は成功した。酸素濃度を操作し、摩擦係数をいじることで、暴力を使わずに敵を無力化した。だが、その代償として、カイの魂は激しい摩擦熱を帯び、肉体に反動を引き起こしていた。
俺の魂は、この世界のエネルギーを通さない壁だ。だが、壁で水をせき止めれば、壁そのものに水圧がかかる。無理やり流れを変えようとすれば、その接点には凄まじい熱が発生する。電気回路で言えば、抵抗器が焼き切れる寸前の状態だ。
「このままじゃ、聖騎士団が来る前に、俺が自滅する」
必要なのは、俺の代わりに熱を受け止め、効率よくエネルギーを流すための「配線」だ。俺の意志をロスなく対象に伝え、かつ逆流してくる熱から身を守るための、安全な導体。
カイはふらつく足取りで立ち上がった。休んでいる暇はない。期限は刻一刻と迫っている。
「ガレオス。行くぞ」
カイが声をかけると、道具の手入れをしていた老人が顔を上げた。彼はカイの顔色の悪さを心配そうに見つめたが、その瞳にある決意の光を見て取ると、無言で頷き、杖代わりの鉄パイプを手に取った。
スラムの最深部には、「鉄の墓場」と呼ばれる場所があった。都市から廃棄された瓦礫、壊れた機械、そして用途不明の遺物が山のように積み上げられた、巨大なゴミ捨て場だ。紫色の霧が濃く淀み、鼻をつく金属臭と腐敗臭が混ざり合っている。
「ここなら、マ・テ・リ・アあるか?」
カイは、山積みのガラクタを見上げながら呟いた。ガレオスは、足元に転がるひしゃげた金属板を杖で突いた。
「……フォル・タッセ……。……セ・ド……プ・ル・ガ・メンばかりだ」
確かに、一見すればただの産業廃棄物だ。錆びた鉄、砕け散った石、変色したガラス片。だが、カイの眼には、それらが全く別の情報の塊として映っていた。
(いや、宝の山だ)
カイは目を細めた。この世界の物質は、長年高濃度のエネルギーに晒され続けたことで、その性質を変質させているものが多い。例えば、あそこにある赤茶けた鉄。あれはただの酸化鉄じゃない。表面に微弱な磁場を帯びている。あっちのガラス片は、光の屈折率が異常に高い。
カイは、左手をかざしながら、慎重にゴミ山を歩き回った。探しているのは、特定の性質を持つ金属だ。俺の「拒絶」の波動を、抵抗なく通すもの。電気伝導率が高いだけではダメだ。この世界のエネルギーに対して、超伝導に近い性質を持つ物質。
歩き回ること数十分。カイの額に汗が滲み、息が切れ始めた頃だった。
ゾクリ。
背筋に、奇妙な感覚が走った。寒気ではない。まるで、体の中の静電気が、一点に向かって吸い寄せられるような吸引感。
「……ん?」
カイは足を止めた。感覚の源は、足元の汚泥の中。彼はしゃがみ込み、泥にまみれた「それ」を拾い上げた。
それは、絡まり合った一本の針金だった。太さは数ミリ。長さは数メートルほど。表面は真っ黒に錆びつき、所々に青緑色の粉が吹いている。どこからどう見ても、燃えないゴミの日に出されるような、ただの古びた針金だ。
だが、カイが指先で触れた瞬間、指の腹が吸い付くような感触があった。
「へ・ヴィ。いや、違う」
物理的な重さではない。カイの体内にある微弱な生体電流――あるいは魂の波長が、抵抗なくその金属の中へと流れ込んでいく感覚。通常、金属には電気抵抗がある。だが、この黒い針金には、まるで「底がない」かのように、エネルギーが吸い込まれていく。
「ガレオス。これ、クィドだ?」
カイが針金を見せると、ガレオスは顔をしかめて首を振った。
「……ニ・ヒルな……フェ・ルムの……死骸だ」
この世界の人々にとって、これはエネルギーを吸い取ってしまう力の通らない鉄として、嫌われているらしい。だからこそ、誰も拾わず、ここに打ち捨てられていた。
だが、カイの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
(やっぱりだ。この黒い錆、酸化じゃなくて硫化に近い。あの時と同じだ)
カイは、針金の表面を爪でカリカリと削った。黒い被膜の下から現れたのは、記憶にある通りの、鈍く冷ややかな「銀色」の光沢だった。
銀。あちら側の世界でも、銀は最も電気伝導率が高い金属だ。だが、こいつはただの銀じゃない。何百年、何千年もの間、この過剰なエネルギー環境に晒され続けた結果、結晶構造そのものが組み変わり、変質してしまった「異端の金属」。
(見つけた。『変異した銀』。俺の解体を通すための、唯一の天然超伝導体)
人々が魔法を使う際、この金属はエネルギーを勝手に吸い取ってしまうため、邪魔者扱いされてきたのだろう。だが、俺にとっては違う。俺の「解体」の波動を、一切の減衰なしで敵の内部に送り込むための、最高の経路になる。
「もらっていくぞ、ガレオス。これが、俺の『杖』になる」
カイは黒い針金を束ね、ポケットにねじ込んだ。ガレオスは怪訝そうな顔をしていたが、カイの確信に満ちた表情を見て、それ以上は何も言わなかった。
あばら屋に戻ったカイは、すぐに作業に取り掛かった。拾ってきた変異した銀の針金。そして、手頃な長さの鉄の棒。以前、ガレオスが使っていた折れた杖の破片だ。
カイは石の床に座り込み、手頃な石を使って、銀の針金の表面を覆う黒い錆を丁寧に削り落としていく。単純作業だ。だが、今のカイにとっては、精神を統一するための儀式のような時間だった。
「……カイ。……アウ・ジ・リ・ウム……?」
横から、小さな手が伸びてきた。エルマだ。彼女はカイが何を作っているのか興味津々な様子で、自分も何か役に立ちたいと申し出てきたのだ。
カイは少し迷ったが、針金の端を彼女に渡した。
「ここを、持っててくれ。テ・ネ」
「うん! ……テ・ネ!」
エルマは嬉しそうに針金を握りしめた。彼女の小さな手が、泥だらけの針金を一生懸命に支える。その光景を見て、カイの胸の奥がチクリと痛んだ。
(妹も、こんな年頃だったか)
ふと、あちら側の世界に残してきた妹の姿が脳裏をよぎる。部活から帰ると、リビングでテレビを見ていた妹。「おかえり」とも言わず、スマホをいじっていた日常。決して仲が悪かったわけではないが、お互いに無関心で、ドライな距離感だった。あの時は、それがずっと続くと思っていた。
だが今、目の前には、言葉もろくに通じないのに、俺を信じて針金を握る少女がいる。住む世界も違う。血も繋がっていない。それでも、彼女の体温は、確かにここにある。
「……カイ? ……トリ・ス・ティス……?」
エルマが、心配そうにカイの顔を覗き込んだ。手が止まっていることに気づいたのだろう。カイは慌てて首を振り、作業を再開した。
「ノン。グラ・ティ・ア」
カイは、磨き上げた銀の針金を、鉄の棒に螺旋状に巻き付けていった。ただ巻き付けるのではない。コイルのように密に、均等に。これは杖ではない。エネルギーを増幅させるための道具ではないからだ。これは「探針」だ。回路の異常箇所に直接触れ、そこに俺の信号を流し込むための、精密な検査器具。
一巻き、二巻き。銀線が鉄棒に食い込み、一体化していく。無骨で、飾り気のない、ただの金属の棒。教会の聖騎士たちが持つ、宝石で飾られた華美な剣とは対極にある、薄汚い自作の道具。
だが、完成したそれを握った瞬間、カイの手の中で、銀線が微かに青白く脈動した。
「……よし」
カイは、試しにその先端を、床に転がっていた小さな石ころに向けた。石には、微量だがこの世界特有のエネルギーが宿っている。
意識を集中する。左手から、プローブを通じて、石の内部構造へと「干渉」するイメージ。
「デ・コン・ストラクション」
小さく呟く。プローブの先端から、目に見えない波動が走った。パチン。乾いた音がして、石ころが真っ二つに割れた。物理的に砕いたのではない。石を構成していた原子の結合エネルギーを、局所的に断ち切ったのだ。
手への反動はない。熱もない。銀線が、余剰なエネルギーをスムーズに逃がし、カイの魂への負担を肩代わりしてくれたのだ。
「いける」
カイは、プローブを握りしめた。これなら戦える。生身で触れれば火傷するような高出力の魔法でも、この絶縁体の先につけた「避雷針」を使えば、安全に処理できる。
ガレオスが、完成した武器を見て、複雑な表情で唸った。
「……グラ・ディ・ウス……ではないな。……それは、何だ?」
カイは、手の中の無骨な棒を見つめ、静かに答えた。
「ただの、道具だよ。マ・キ・ナを直すための」
修理道具。あるいは、解体用工具。英雄が持つ聖剣ではない。だが、壊れた世界を直す「修復者」には、これがお似合いだ。
窓の外では、今日も紫色の霧が世界を覆っている。遠くから、教会の鐘の音が聞こえる。だが、その音はもはや、カイを萎縮させる恐怖の対象ではなかった。
それは、これから解くべき問題の合図に過ぎない。
カイは立ち上がり、腰のベルトに自作のプローブを差した。鞄の重みと、プローブの感触。二つの武器を携えて、カイはスラムの夕暮れを見据えた。
準備は整った。あとは、本番を待つだけだ。
第2章:偽りの聖譜 「完結」




