第24話 瓦礫の教室
あばら屋の床に、黒い木炭で描かれた歪な図形が散乱している。円、三角、矢印。そして、この世界の人間が見れば眉をひそめるであろう、無機質な化学反応式のような記号の羅列。
「違う。イグ・ニスは、結果だ。俺が知りたいのは、その手前の『プロセス』だ」
カイは、石板に向かってぶつぶつと独り言を呟いていた。ヴァルガスを撃退してから、一週間が過ぎていた。右腕の包帯はまだ取れない。先日の戦闘で負った過剰供給による火傷の痕は酷く、指先を動かすだけで、神経が焼き切れるような痛みが走る。だが、カイはその痛みを無視して、動く左手で木炭を走らせ続けていた。
彼の目の前には、先生役のエルマが座っている。彼女は、カイが描いた図を不思議そうに眺め、それから自分の口を大きく開けて見せた。
「カイ、見て。……カ・ル」
彼女は、身振り手振りで「熱い」という感覚を伝えようとしている。カイは頷き、その音を脳内の辞書に書き込む。
「カル。英語の『カロリー』か? あるいは、ラテン語の『カロール』」
カイの脳内で、いくつかの単語がリンクする。この一週間、ガレオスたちと会話して気づいたことがある。この世界の言葉は、デタラメな異音ではない。生物の授業で習った学名や、物理の単位、英単語の語源に、妙に響きが似ているのだ。偶然にしては出来すぎている。まるで、遠い昔に同じ根っこから枝分かれした言語であるかのように。
(理由は分からない。だが、法則があるなら翻訳は可能だ)
「ガレオス。次だ」
カイは、部屋の隅で道具の手入れをしていた老人に声をかけた。ガレオスは、カイの熱意に苦笑しながらも、手にした小さな石を掲げた。
「テ・ラ。スタ・ビ・リス」
ガレオスが短く詠唱すると、石がわずかに光り、傾いたテーブルの上でピタリと静止した。重力魔法の一種、あるいは固定魔法か。だが、カイの目には、その魔法が全く別の数式として映っていた。
カイは木炭を走らせ、床に書かれた『スタ・ビ・リス』という文字の横に、物理の公式を書き殴った。
『 F = μN 』 (最大静止摩擦力)
(『安定』と唱えることで、対象の座標を神に固定してもらっているわけじゃない。この魔法の本質は、対象物と接触面の『静止摩擦係数(μ)』を一時的に増大させているだけだ)
カイの思考が加速する。ガレオスが『ム・タ』と唱えれば、泥が水のように柔らかくなる。それは状態遷移。『ヴィ・ス』と唱えれば、物が飛ぶ。それは運動エネルギーの付与。
(やっぱりだ。こいつらの魔法は、物理現象を『物語』や『感情』というオブラートに包んで出力している)
例えば「火」を出したい時、彼らは「怒り」や「情熱」を込めて詠唱する。だから、感情が乗らないと威力が落ちるし、無駄なエネルギーが「光」や「熱」となって漏れ出す。彼らはマッチを擦るのに、いちいち火の神様にダンスを捧げているようなものだ。だが、現象の本質はもっとシンプルだ。
「感情なんていらない。必要なのは、物理的な『定義』だけだ」
カイは、左手の指先で、床に転がっていた小さな鉄屑を弾いた。この世界の住人は、魂を世界と「共鳴」させて魔法を使う。歌うように、波に乗るように。だが、カイの魂は「絶縁体」だ。世界と混ざり合えない。だからこそ、波に流されることなく、強引にその場に留まり、流れをせき止めるダムになることができる。
システムの外側にいる異物だからこそ、システムの中身を外から書き換えることができるのだ。
カイは鉄屑に指を当て、イメージする。移動ではない。加速だ。運動エネルギーは、質量と速度の二乗に比例する。指先のわずかな力でも、速度という変数をいじれば、破壊力は桁違いになる。
「ア・ク・セ・ラ」
カイが短く呟くと、鉄屑は指先に触れた瞬間、パチン! と乾いた破裂音を立てて弾き飛ばされ、数メートル先の土壁に深々とめり込んだ。
「……!!」
エルマが目を丸くし、ガレオスが息を飲む。カイは、じんと痺れる左手を強く握りしめた。たかだか小石一つ飛ばすだけで、腕の神経が悲鳴を上げている。世界との摩擦熱だ。
(できる。だが、痛い)
祈る必要はない。ただ、命令すればいい。だが、その命令を通すたびに、俺の魂は摩耗していく。効率はいい。だが、代償は決して安くない。
「……カイ。……ス・ト・マ・クス……ヴァ・ク・ス……?」
エルマが、心配そうにカイの顔を覗き込んだ。カイの額には脂汗が滲んでいる。気づけば、日は高く昇っている。朝から何も食べていない。カイは苦笑して、腹をさすった。
「……ああ。腹減ったな」
日本語で答える。まだ、流暢な会話はできない。だが、意思の疎通はできる。エルマが嬉しそうに、布に包んだ木の実を差し出した。カイはそれを受け取り、慣れた手つきで左手をかざした。
「セ・パ・ラ」
パチリ。静かな音がして、木の実から紫色の毒気が弾き出される。カイは、毒の抜けた木の実を口に放り込み、咀嚼した。味気ない。だが、栄養にはなる。
「……おいしい」
カイが覚えたての現地語で言うと、エルマは花が咲くように笑った。その笑顔を見るたび、カイの胸の奥にある硬い殻が、少しだけ柔らかくなる気がした。
だが、平穏な時間は長くは続かない。窓の外。スラムの広場の方から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「……ノ・リ! ……ア・ク・アが……!!」
悲鳴に近い声。ガレオスの顔色が変わる。カイは無言で立ち上がり、壁に立てかけてあった「杖」を手に取った。それは以前、ガレオスが使っていた折れた鉄パイプだ。今はカイが歩くための支えとなっている。
「行こう、ガレオス」
カイは、あばら屋の扉を開けた。外には、相変わらず紫色の霧が立ち込めている。だが、今のカイにとって、それはただの気象条件の一つに過ぎなかった。
予習は終わりだ。ここからは、実習の時間だ。
広場の中央にある古井戸。スラムの住人たちにとって唯一の水源であるその場所で、いざこざが起きていた。数人の男たちが、井戸を取り囲み、他の住人たちを威圧している。彼らはスラムのごろつきだ。ヴァルガスがいなくなり、教会の監視が一時的に消えたことで、力による支配を目論んでいるのだろう。
「……ト・リ・ブ・トだ! 水を飲みたければ、ラ・ピスを出せ!」
男の一人が、錆びた剣を振り回して叫んでいる。住人たちは遠巻きに震えているだけだ。カイは、その光景を冷ややかに見つめた。
(どいつもこいつも。重石が取れると、すぐにこれだ)
権力の空白地帯。そこでは、最も原始的な暴力が幅を利かせる。カイは、ガレオスを制して、一人で前へ進み出た。
「シ・レン・ティ・ウム」
カイが低く呟くと、ごろつきたちがギョッとして振り返った。彼らの目に映ったのは、ボロボロの異国風の服を着て、右腕を包帯で吊った、ひ弱そうな少年。だが、次の瞬間、彼らの顔色が恐怖に変わった。
「あ、あいつだ……!」 「騎士様を、裸にして追い出した『解体屋』……!」
噂は広まっていたらしい。カイの姿を見ただけで、男たちの足がすくむ。だが、リーダー格の男だけは、虚勢を張って剣を構えた。
「……ラ・ットが……! 右腕が使えないんだろ? やっちまえ!」
男が、下手な詠唱と共に、剣に小さな火を灯そうとする。カイはため息をついた。
(……遅い。発動まで3秒。詠唱によるタイムロス。感情によるエネルギーの拡散。……欠陥だらけだ)
カイは、杖代わりにしていた鉄パイプを、左手で軽く持ち上げた。戦う必要さえない。彼らの「現象」を、少しだけいじればいい。
男が火を放とうとした瞬間。カイは鉄パイプの先端を、男の足元の地面に向けた。
「ヴァ・ク・ア」
カイが定義したのは、男の足元周辺の「酸素濃度」の低下。火が燃えるには酸素が必要だ。そして、人間が呼吸をするのにも。
フシュッ……。
男の剣に灯っていた火が、一瞬でかき消えた。それだけではない。男自身が、突然喉を押さえて苦しみ始めたのだ。
「……ご、……ぁ……!?」
酸欠。カイは、局所的に空気を薄くしただけだ。魔法の火を消すついでに、人間の活動限界を少しだけ超えさせた。
「魔法じゃない。ただの窒息だ」
カイは冷たく告げた。男はその場に膝をつき、激しく咳き込んだ。他のごろつきたちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。彼らの目には、カイが指先一つで「空気そのものを殺した」ように見えただろう。
「ア・ビ」
カイが鉄パイプを向けると、男たちは這うようにして逃げ去っていった。広場に静寂が戻る。住人たちが、恐る恐るカイを見る。そこにあるのは、やはり「恐怖」だ。魔法を消し、人を窒息させる力。それは救済者のものではない。
だが、その中の一人、子供を連れた母親がおずおずと進み出て、カイに向かって深々と頭を下げた。
「……グラ・ティ・ア……」
その言葉を聞いた瞬間、カイの肩の力がふっと抜けた。恐怖されてもいい。異物扱いされてもいい。それでも、この場所には、守るべき生活がある。
カイは無言で頷き、井戸のポンプに手をかけた。壊れている。だが、構造を見れば直し方は分かる。
「じいさん、レンチみたいな工具、ないか? ……ああ、その金属片でいい」
カイは、魔法ではなく、物理的な修理を始めた。その背中を見つめるエルマとガレオスの目には、確かな信頼の色が宿っていた。
期限まで、あと数ヶ月。異界の修復者にとっての、長く、静かな戦いの日々は続いていく。




