第23話 英雄と異端の境界
東の空が白み始め、スラムの広場に朝の光が差し込む。その光は、数分前までここで起きていた神話的な破壊の爪痕と、そこに立ち尽くす人々の表情を残酷なまでに鮮明に浮かび上がらせていた。
足元には、かつて最強と呼ばれた騎士の抜け殻――銀色の鎧の破片が、無惨な鉄屑となって散乱している。主であるヴァルガスは、恐怖に顔を引きつらせ、無様な裸体を晒して闇へと消えた。
勝ったのだ。魔法も使えず、剣も持たないただの高校生が、完全武装の騎士を、物理法則の応用だけで撤退させた。
「……はぁ、……はぁ……」
カイは、左腕の中にいるエルマの温もりと、右手に握らされた青い鞄の重みを確かめていた。エルマは泣きじゃくりながら、泥だらけのカイの制服にしがみついている。ガレオスもまた、安堵と疲労が入り混じった表情で、カイの肩に震える手を置いていた。
ここだけを見れば、感動的な大団円だ。悪は去り、人質は解放され、日常が戻ってきた。だが、カイの背中に突き刺さる視線は、決して温かいものではなかった。
「……、……」
解放された檻の中の住人たち。そして、物陰から様子を窺っていたスラムの人々。彼らは遠巻きにカイを取り囲んでいたが、その距離は一向に縮まらない。誰一人として、カイに駆け寄ろうとはしなかった。
彼らの瞳に宿っているのは、感謝の光ではない。底知れない「恐怖」と、得体の知れない「異物」を見る目だった。
「……ミラ・クルム……? イ・モ……」 「……ス・コ・ア……ネ・ガ……」 「……シ・レン・ティ・ウム……」
ささやき声が、風に乗って聞こえてくる。彼らにとって、ヴァルガスという暴君がいなくなったことは安堵すべきことだ。だが、その暴君を倒した手段が問題だった。祈りも捧げず、歌も歌わず、ただ手を触れただけで、神聖な鎧をバラバラに砕き、魔法を「なかったこと」にした少年。
この世界の常識において、それは「英雄」の所業ではない。神の定めた理を土足で踏みにじる、「冒涜者」の姿だ。
(……そうかよ。……やっぱり、そうなるか)
カイは、自嘲気味に口の端を歪めた。分かっていたことだ。俺は、この世界の「正解」を持っていない。俺が持っているのは、あちら側の世界の「理屈」だけ。そしてその理屈は、この世界にとっては猛毒のウイルスのようなものだ。
守っても、感謝されるとは限らない。直しても、喜ばれるとは限らない。異物はどこまでいっても、異物なのだ。
「……カイ。……イグ・ノ・スケ……」
ガレオスが、痛ましげに声をかけた。彼は周囲の住人たちの反応を理解し、カイに対して申し訳なさそうに頭を下げた。カイは首を横に振った。
「いいんだ。……慣れてる」
学校でもそうだった。周りに合わせて、適当に笑って、波風を立てないように生きてきた。誰とも深く関わらず、世界との間に見えない壁を作っていたのは、他ならぬ自分自身だ。ここでは、その反応が少し露骨になっただけのこと。
カイは、エルマの頭を不器用に撫で、ガレオスに向き直った。
「それより、じいさん。あいつは、また来るのか?」
カイは、ヴァルガスが逃げ去った闇の方角を顎でしゃくった。ヴァルガスは捨て台詞を残していった。『軍団を連れてくる』と。それが単なる負け惜しみなのか、それとも確実な未来なのか。
ガレオスは顔をしかめ、重々しく頷いた。
「……ヴェ・ニだろう。……レ・ギ・オ……サ・ン・ク・トゥス……カ・ヴァ・レ・ス……」
聖騎士団。ヴァルガスのような、徴税官あがりのならず者ではない。教会が誇る、正規の戦闘部隊。神の名の元に、異端を殲滅することのみを目的とした、殺戮のプロフェッショナルたち。
カイの背筋に冷たいものが走る。ヴァルガス一人相手でも、命がけだった。それ以上の「本物」が、軍隊として押し寄せてくる。今のボロボロの状態で戦えば、間違いなく死ぬ。
「……クァン・ドだ? ……明日か?」
カイの問いに、ガレオスは首を横に振った。彼は、地面に地図のようなものを描き始めた。このスラムは、教会の支配領域の最果て、辺境の地にあるらしい。そして、聖騎士団の本部は、遥か遠くの城塞都市にある。
「……ヴァルガス……フ・ガ……。……レ・ポ・ル・ト……」
ヴァルガスは、まず自分の拠点まで逃げ帰らなければならない。そこから早馬か何かで上層部に報告し、自分の失態を取り繕いながら、カイという「異端」の存在を訴えるだろう。だが、教会という巨大な組織が動くには、手続きが必要だ。
「……コン・シ・リ・ウム……。ユ・ディ・キ・ウム……。……テン・プス……かかる」
ガレオスは、指を折って数えた。一本、二本……そして、両手の指をすべて折り、さらにそれを何度も繰り返すジェスチャーをした。
「……ムル・タ……ル・ナ……」
(……数ヶ月?)
カイは目を見開いた。すぐに軍隊が押し寄せてくるわけではないのか。考えてみれば当然だ。この世界にはスマホも無線もない。連絡手段は魔法による通信か、物理的な移動しかないだろう。しかも、ヴァルガスのような下っ端が「魔法を消す子供が現れた」などと報告しても、上層部はすぐには信じないはずだ。調査隊を派遣し、審議し、正規軍を動かす決定を下すまでには、相当なラグがある。
それは、執行猶予だった。首の皮一枚で繋がった、生き延びるための時間。
「そうか」
カイは、深く息を吐き出した。全身の力が抜け、膝が崩れそうになるのを、鞄を杖代わりにして支える。
助かった。今すぐ殺されることはない。だが、それは「解決」ではない。数ヶ月後には、ヴァルガスとは比べ物にならない、本物の「死」がやってくるということだ。
その時だった。
スラムの瓦礫の山の頂上。遥か遠くから、鋭い視線が注がれているのを、カイはわずかに感知した。敵意ではない。だが、単なる野次馬でもない。もっと分析的で、冷徹な「観察」の視線。
カイは反射的に顔を上げたが、そこには朝霧が漂うだけで、人影はすでになかった。
(……誰だ?)
気のせいかもしれない。だが、背筋を走った悪寒は、これまでの戦闘とは違う種類の緊張を孕んでいた。
スラムを見下ろす崩れかけた時計塔の上。一人の人影が、眼下の広場を見下ろしていた。灰色のフードを目深に被り、顔立ちは見えない。特徴的なのは、片目に装着された奇妙な形のモノクル――いくつものレンズが重なり合った、複雑な機械仕掛けの眼鏡だ。
その人物は、手にした石板のようなデバイスに、素早い手つきで何かを書き込んでいた。石板の表面には、文字ではなく、複雑な波形のような光のラインが走っている。
「……観測終了。誤差、修正」
フードの下から漏れたのは、感情の抑制された、事務的な声だった。レンズの奥の瞳が、広場の中心に立つ黒髪の少年を捉える。その視線は、人間を見るものではなく、希少な鉱脈や、未知の物理現象を解析する学者のそれだった。
「聖譜の否定。……論理による、事象の解体……」
人物の指先が、石板の上を滑る。記録されたデータは、教会の教義には存在しない、異質な波形を示していた。
「……適合率、計測不能。本部へ送信」
その人物は、懐から取り出した金属製の筒に、小さな紙片を封入した。筒は微かな音を立てて空中に浮き上がり、目に見えない気流に乗って、スラムの外――遥か彼方へと飛び去っていった。
「……見つけた。あれが、我々が探し求めていた『特異点』」
その人物はフードを翻し、朝霧の中へと姿を消した。その胸元には奇妙な紋章が、わずかに銀色に輝いていた。
広場には、再び重苦しい静寂が戻っていた。カイは、ガレオスに向き直った。老人の顔色は悪い。これからのことを案じているのだろう。
ガレオスは、カイの肩に手を置いた。その手は温かく、震えていた。
「……カイ。……グラ・ティ・ア……。……セ・ド……プレ・パ・ラ」
備えろ。その言葉の重みが、カイの胸に沈み込んだ。
逃げる場所はない。このスラムを出ても、教会の支配は大陸全土に及んでいる。どこへ行っても「異端」として追われる運命は変わらない。ならば、やることは一つだ。
(強くなるしかない)
この世界の言葉を覚え、理屈を理解し、自分の「解体」の力を完全にコントロールできるようになること。ただ闇雲に壊すのではなく、精密機械を修理するように、世界の歪みを正確に突く技術を身につけること。
カイは、自分の左手を見つめた。黒く汚れ、火傷でただれた手。だが、そこには確かな感触が残っていた。あの鎧の回路を断ち切った時の、世界に指を突っ込んで書き換えたような、生々しい手応え。
「……やってやるよ」
カイは日本語で呟いた。
「言葉も、魔法も、全部覚えてやる。次に奴らが来たときは、議論の余地もないくらい完璧に、解体してやる」
カイは、右手に持った鞄を背負い直した。中に入っている教科書は焦げ、スマホは壊れている。過去の日常は失われた。だが、その重みは、これから始まる過酷な日々の中で、立ち返るべき「原点」となるだろう。
朝日が、スラムを完全に照らし出した。紫色の霧はまだ晴れない。住人たちの視線も冷たいままだ。だが、カイの心の中にあった「得体の知れない恐怖」は、明確な「課題」へと変わっていた。
期限は数ヶ月。異界の修復者にとっての、長い長い「実習」が始まろうとしていた。




