第21話 回路の切断
視界が、白熱した赤に染まる。
カイの体が、ヴァルガスの懐へと滑り込んだ瞬間、肌を焼く熱波は物理的な壁となって行く手を阻もうとした。呼吸をするだけで、肺胞が焼けつくような高温。髪の毛先がチリチリと焦げ、汗は一瞬で蒸発する。だが、カイは止まらなかった。
目の前にあるのは、最強の騎士でも、絶望的な魔法使いでもない。ただの、熱暴走を起こしかけている「欠陥だらけの機械」だ。
(……届く!)
ヴァルガスは、背後に落ちた発光石の閃光に気を取られ、致命的なコンマ数秒の隙を晒していた。振り上げられた剣。その切っ先には、スラムを地図ごと消し去るほどの高密度の火球が宿っている。あれが放たれれば終わりだ。だが、放たれるための引き金が壊れていれば、弾丸は出ない。
カイの狙いは一点。ヴァルガスの鎧の胸部と、剣を持つ左腕を繋ぐ、関節部分の留め具だ。分厚い装甲板の隙間。鎖帷子が露出している、わずかな可動域。そこには、心臓部から汲み上げられた膨大なエネルギーが、剣へと流れるための光の血管が脈動している。
カイは、泥と煤にまみれ、感覚を失った左手を突き出した。武器はない。道具もない。あるのは、この世界のあらゆる理を拒絶する、「絶縁体」としての魂だけ。
「……セ・パ・ラッ!!」
カイは、覚えたての単語を咆哮と共に叩きつけ、その指先を、赤熱する鎧の継ぎ目へとねじ込んだ。
ジュッ!!!
肉が焼ける音がした。鉄板焼きのプレートに生肉を押し付けたような、湿った音。激痛が走る……はずだった。だが、カイの脳は、その痛みを情報の奔流として処理し、後回しにした。熱い。だが、それ以上に「重い」。指先が触れたのは、物理的な鎖帷子だけではない。その奥を流れる、ドロドロとした高粘度のエネルギーの濁流だ。
ヴァルガスが集めた、住人たちの恐怖と祈り。それが巨大な川となって、鎧の中を循環している。カイの魂は、その流れに逆らう岩となって、強引に割り込んだ。
(繋ぐな。流すな。……そこで止まれ!)
カイは歯を食いしばり、指先に全神経を集中させた。イメージするのは、電気回路のスイッチ・オフ。あるいは、水道管のバルブを閉じる感覚。「A地点からB地点へ、エネルギーは流れる」 その当たり前の物理法則に対し、カイの魂は「ここには道がない」という定義を突きつける。
バチィィィィィッ!!
青白い火花が、カイの指先と鎧の接点から爆ぜた。それは静電気などではない。「流そうとする世界」と「通さない異物」が衝突した際に生じる、事象のショート音だ。
「……クィ……クィド……ッ!?」
ヴァルガスが、驚愕に顔を歪めてカイを見下ろした。彼には、何が起きたのか理解できていないはずだ。ただ、自分の懐に飛び込んできた薄汚いネズミが、鎧に触れた瞬間、体の中を流れていた全能感が「詰まった」ような不快感を覚えただけだろう。
だが、現象は劇的だった。
ブォン……、ヒュゥゥゥ……。
ヴァルガスの剣先に凝縮されていた、あのどす黒い太陽のような火球。それが唐突に、輪郭を保てなくなって揺らぎ始めたのだ。燃料供給を断たれたガスバーナーのように。あるいは、コンセントを抜かれた扇風機のように。
絶対的な破壊の光が、急速に萎んでいく。
「……な、……イグ・ニス……?」
ヴァルガスが狼狽し、剣を振ろうとする。だが、遅い。火球はすでに、維持するためのエネルギーを失い、ただの熱い風となって空中に霧散しようとしていた。
(成功だ。供給ラインは断ち切った)
カイは確信した。だが、問題はここからだ。エネルギー保存の法則。行き場を失ったエネルギーは、消えてなくなるわけではない。剣へ送られるはずだった莫大な熱量は、今、せき止められたダムの水のように、鎧の内部で行き場を求めて渦を巻いている。
出口のないエネルギーがどうなるか。答えは一つ。「逆流」だ。
「……離れろッ!!」
カイは叫び、ヴァルガスの懐から弾かれるように飛び退いた。直後。
ドォォォォォン!!
ヴァルガスの鎧の内部で、くぐもった爆発音が響いた。外部への攻撃ではなく、内部での破裂。鎧の隙間という隙間から、黒煙と赤黒い火花が激しく噴き出す。
「ぐ、ア、アアアアアッ!?」
ヴァルガスが絶叫した。自らの鎧が生み出した熱が、断熱結界の内側で暴走し、着用者自身を焼き始めたのだ。本来なら敵を焼くはずだった炎が、鎧という密閉空間の中で、彼自身に牙を剥く。
カラン、カラン……。
ヴァルガスの手から剣が滑り落ちた。左腕の制御系が焼き切れ、神経伝達が遮断されたのだ。数百キロの鉄塊となった左腕が、だらりと垂れ下がる。
「……はぁ、……はぁ、……ッ!」
カイは、弾かれるようにヴァルガスから距離を取った。左手を押さえてうずくまる。手のひらは真っ黒に焦げ、指先は炭のようにボロボロになっていた。激痛ですらない。感覚がない。 自分の手がついているのかどうかも分からないほどの痺れが、肩まで上がってきている。これが、「生身」で触れるということだ。魂が削れる。命の残量が、目に見える速度で減っていく。
だが、目は死んでいない。カイは、脂汗にまみれた顔を上げた。
目の前では、ヴァルガスが左肩を押さえてのたうち回っている。鎧の左半身は完全に光を失い、ただの焦げた鉄屑と化していた。だが、胴体の紋章は、まだ生きて明滅している。
「……ト、ゥ……!! マ・レ・ディ・ク・トゥス……!!」
ヴァルガスが、充血した目でカイを睨みつけた。その形相は、もはや騎士のそれではなかった。手負いの獣。いや、壊れかけた殺人機械のそれだ。
彼は動かない両腕を引きずりながら、地面に落ちた剣を口で拾おうとするかのように、獣じみた動作でにじり寄る。まだ戦う気だ。両腕を失っても、彼にはまだ「魔法」がある。詠唱さえすれば、鎧に残った機能でカイを焼き殺すことは可能だと判断したのだ。
「……イグ・ニス……! ア・ル・デ……!!」
ヴァルガスが詠唱を始める。その声に応えて、鎧の胸部の紋章が再び強く輝き始めた。腕がダメなら、胴体から直接放つつもりか。回路を迂回させて、無理やりエネルギーを出力しようとしている。
(しつこいな。まだ学習しないのか)
カイは、ふらつく足で立ち上がった。逃げない。ここで逃げれば、あいつは間違いなく檻の中の人々を焼き殺して燃料を補給し、体を治そうとするだろう。ここで完全に、機能を停止させなければならない。
カイは、自分の左手を見た。もう、精密な動作はできない。握力も残っていないかもしれない。だが、「触れる」ことくらいはできる。
ヴァルガスの鎧は、今、非常に不安定な状態にある。両腕の回路がショートしたことで、全体のエネルギーバランスが崩れている。例えるなら、出口を塞がれたまま、燃料を注ぎ込まれ続けているボイラーのようなものだ。
そんな状態で、さらに魔法を使おうとすればどうなるか。
(自壊するぞ。その鎧)
カイは、冷めた目でヴァルガスを見た。怒りに我を忘れ、システムのエラー表示を無視してアクセルを踏み込む愚か者。科学を知らない文明の、末路だ。
ヴァルガスの胸元に、再び炎が集まり始める。だが、その炎は赤黒く濁り、形を保てずに揺らめいている。制御できていない。出力が安定しないのだ。
「……オ・ム・ニ・ス……灰に……!!」
ヴァルガスが叫んだ。その瞬間、彼の鎧の背中部分から、プシュッという音と共に白い蒸気が噴き出した。冷却液か、あるいは液化した光の澱か。限界が近い。
カイは、右手をポケットに入れた。ガレオスが集めたガラクタから作った「鉄片と銀線のプローブ」の予備か、代わりになる金属片が入っていないかと期待した。だが、指先に触れたのは粉々になった砂利だけだった。頼みの綱だったあの武器は、先ほどの攻防で限界を迎えて捨ててしまったのだ。
いや、ある。カイの足元に、先ほどの鏡を使った作戦でヴァルガスが背後に落とした「何か」が転がっていた。それは、照明用の予備燃料として吊るされていた、高純度の発光石の欠片だ。
(……これだ)
カイは、ヴァルガスの視線が自分の顔と、胸元に集束しつつある炎に集中している隙に、足元の発光石を拾い上げた。小さいが、ずしりと重い。中には、濃縮されたエネルギーが詰まっている。これを、あの不安定な鎧の「吸気口」に放り込んだら?
過剰供給。エネルギーの過多による、強制的なシャットダウン。
ヴァルガスの胸元の炎が膨れ上がる。熱波が迫る。
カイは、前へ出た。炎を避けるのではない。炎の下を潜り抜けるように、低く、鋭く。
「……エッ・チェ! お望みの『燃料』だ、食らえッ!!」
カイは叫び、手にした発光石を、ヴァルガスの胸――赤く輝く紋章の、その中心にある微細な亀裂へと叩き込んだ。
そこは、先ほどカイが回路を焼き切った際に生じた、装甲の裂け目。鎧の内部機関が露出している、唯一の穴。
カアンッ!!
硬質な音が響き、石が亀裂に吸い込まれる。直後、カイは全力で横に飛んだ。
「……クィ……?」
ヴァルガスが自分の胸を見下ろす。放り込まれた高純度の発光石が、鎧内部の暴走したエネルギーと接触する。
制御されていないエネルギー同士の、無秩序な融合。それは、コップの水が溢れるように、あるいは風船が破裂するように、臨界点を突破した。
カッ――――!!
広場が、白い光に包まれた。




