第20話 焼却命令
夜明け前のスラムに、場違いな静寂が落ちていた。それは平和な静けさではない。暴風雨の直前、大気が飽和して張り詰めるような、破裂寸前の緊張感だ。
広場の中央で、ヴァルガスは呆然と空を見上げていた。彼が放った最強の魔法――広場ごと焼き尽くすはずだった太陽のごとき火球は、もうどこにもない。弾かれたのでもなく、防がれたのでもない。ただ唐突に、物理的な軌道をねじ曲げられ、夜空の彼方で無意味な花火として散ったのだ。
「……クィド……だ?」
ヴァルガスの口から、乾いた音が漏れた。兜の奥にある瞳が、焦点の合わないまま揺れている。理解できない。理解できるはずがない。彼の知る戦いとは、魔力と魔力のぶつかり合いだ。より強い信仰、より正しい詠唱、より高価な触媒を持つ者が勝つ。それが、教会が教える絶対の真理だった。
だが、目の前の少年が行ったことは何だ?祈りもせず、歌いもせず、ただ薄汚れた手を空にかざして、何かを叫んだだけだ。それだけで、神聖な炎が、まるで掃除機に吸い込まれるゴミのように消え失せた。
「……ア・リエ・ヌム……。……ミラ・クルム……? イ・モ……」
ヴァルガスは首を振った。奇跡ではない。あんな薄汚れた異邦人の小僧に、神が微笑むはずがない。だとすれば、あれは。
「……マ・レ・フィ・キ・ウム……ッ!!」
恐怖が、瞬時に激しい怒りへと変換される。未知への畏れを塗りつぶすために、ヴァルガスは感情のアクセルを底まで踏み込んだ。プライド。信仰心。そして何より、スラムのゴミごときに膝をつかされたという屈辱。それらが混ざり合い、彼の理性を焼き切る燃料となる。
「許さん……。許さんぞ、ラ・ットェェッ!!」
ヴァルガスが咆哮した。その怒号に呼応するように、彼の全身鎧が不協和音を奏でて唸りを上げる。ブゥゥゥン……! 鎧の表面に刻まれた幾何学模様が、危険信号のように赤黒く点滅を始めた。
対するカイは、膝をついたまま、その光景を冷ややかに見上げていた。体は限界だ。指先は炭のように黒ずんで感覚がなく、呼吸をするたびに肺が軋む。だが、その思考はクリアだった。
(逆ギレかよ。分かりやすいな)
カイは、ゆっくりと立ち上がろうとした。膝が笑っている。だが、ここで倒れるわけにはいかない。目の前の男は、もう騎士としての体面さえ保とうとしていない。ただの、癇癪を起こした子供だ。だが、その子供の手には、街一つを消せるだけのライターが握られている。
「総員、構えろ!!」
ヴァルガスが部下たちに怒鳴りつけた。転倒していた兵士たちが、慌てて起き上がり、剣を構え直す。だが、その足取りはおぼつかない。カイが摩擦係数をいじった地面の感覚が残っているのか、それとも指揮官の常軌を逸した様子に恐れをなしているのか。
「……ド・ミ・ヌ・ス、……カ・ルが……」
部下の一人が、恐る恐る声を上げた。ヴァルガスの周囲の空間が、陽炎のように激しく歪み始めていたからだ。熱い。物理的な温度が急上昇している。ヴァルガスの鎧から漏れ出す余剰エネルギーが、周囲の大気を無差別に加熱しているのだ。
「黙れッ!! ……オ・ム・ニ・スだ……。……オ・ム・ニ・ス、灰にしてやる……!!」
ヴァルガスは聞く耳を持たない。彼は剣を頭上に掲げ、天を仰いだ。それは、先ほどの火球とは比較にならない、最大級の「儀式」の開始合図だった。
「……イグ・ニスよ……。サ・ン・ク・トゥス、イ・ラよ……!!」
朗々とした、しかし狂気を孕んだ詠唱が始まる。広場全体が震動した。地面に打ち込まれた結界石が共鳴し、紫色の霧が渦を巻いてヴァルガスへと吸い寄せられていく。
(おい、マジかよ)
カイの顔色が変わった。ヴァルガスがやろうとしていることのスケールが読めたからだ。あいつは、自分一人で魔法を撃とうとしているんじゃない。この広場に設置した陣地の結界機能を利用して、周辺一帯のエネルギーを根こそぎ吸い上げ、爆発させるつもりだ。
それは戦闘魔法というより、汚染地域の浄化に近い。対象はカイ一人ではない。背後のあばら屋も、瓦礫の山も、そして――。
「……クリ・ブ・ルム……」
ヴァルガスの視線が、一瞬だけ広場の隅へと向けられた。そこに設置された急造の檻。数十人のスラムの住人たちが、ぎゅうぎゅう詰めにされ、恐怖に震えている場所。
「……マ・ル・ム……プ・ル・ガ……!!」
ヴァルガスは叫んだ。その言葉の意味を、カイは直感的に理解した。悪を浄化する。つまり、異端者であるカイを匿ったスラムの住人ごと、証拠隠滅を図るつもりだ。
「……やめろッ!!」
カイが叫び、走り出そうとする。だが、熱波の壁がそれを阻む。ヴァルガスの周囲には、すでに物理的な壁となるほどの高密度の熱気が渦巻いていた。近づけば、肺が焼ける。
そして、最悪の連鎖が始まった。
檻の中の住人たちが、ヴァルガスの殺意を敏感に感じ取ったのだ。彼らは逃げ場のない鉄格子の中で、パニックに陥った。女が悲鳴を上げ、男が鉄格子を揺らし、子供が泣き叫ぶ。
そして、誰かが祈り始めた。
「……デ・ウス……! サル・ヴァ……!」 「……ミ・セ・レ・レ……!!」
極限の恐怖の中で、彼らが縋れるのは信仰だけだった。教会の騎士に殺されそうになっているのに、その教会が崇める神に祈る。その矛盾。その滑稽さ。だが、この世界において、その「祈り」は単なる言葉では終わらない。
ゴゴゴゴゴ……。
カイの視界が、異様な光景を捉えた。檻の中から、無数の光の粒子が立ち上ったのだ。住人たちの恐怖、絶望、そして「助かりたい」という切実な願い。それらが魂のエネルギーとなって放出され、大気中のエネルギーを励起させる。
その光はどこへ行く? 神の元へ? 違う。
シュォォォォォォ……ッ!!
光の粒子は、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、広場の中央――ヴァルガスの方へと流れていった。ヴァルガスの鎧が、そのエネルギーを貪欲に飲み込む。赤黒かった鎧の輝きが、さらにどす黒く、毒々しい紫色へと変貌していく。
「……な、……」
カイは絶句した。なんという皮肉。なんという悪趣味なシステムだ。住人たちの「助かりたい」という祈りが、彼らを焼き殺そうとしている炎の燃料になっている。
恐怖すればするほど、敵が強くなる。祈れば祈るほど、破滅が加速する。自分で自分の処刑台に油を注いでいるようなものだ。
(……マッチポンプだ。数日前にスラムで見た、あの『餓身の怪物』と同じだ。これが、この世界の『信仰』の正体かよ)
カイの胸の奥で、冷たい怒りが沸騰した。教会は、この仕組みを知っていて利用しているのか? 恐怖で民衆を支配し、その恐怖心からエネルギーを搾取して、さらに強大な力を振るう。永久機関にも似た、最悪の搾取構造。
「……マグ・ヌス……イグ・ニスよ……!!」
ヴァルガスの声が、歓喜に震えた。彼は自分が何をしているのか気づいていない。ただ、かつてないほど強大な力が体に満ちていく全能感に酔いしれている。住人たちの命を吸って、自分が膨れ上がっていることにも気づかずに。
剣の切っ先に、どす黒い太陽のような火球が凝縮されていく。直径三メートル。いや、五メートル。まだ膨らむ。あれが放たれれば、広場はクレーターになる。カイも、檻の住人も、地下に隠れたエルマたちも、骨すら残らない。
「……ひれ伏せ! これがカ・ノ・ンだ!!」
ヴァルガスが叫んだ。絶対的な暴力。反論を許さない熱量。それが彼らの「ルール」だというなら。
「ルール、か」
カイは、足元の砂利を強く踏みしめた。熱風が髪を煽る。肌がジリジリと焼ける。逃げる? どこへ。この歪んだ理屈が支配する世界で、安全な場所などどこにもない。
カイは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に、絶望の色はない。あるのは、配線を間違えて煙を吹いているガラクタを見据えるような、冷めきった視線だけだ。
彼は、何も持たない両手をだらりと下げたまま、熱波の壁に向かって一歩踏み出した。
「おい、騎士様」
カイは日本語で呼びかけた。轟音にかき消されそうな、小さな声。だが、その声は不思議とよく通った。
「お前らの神様は、随分とセンスが悪いな」
カイは歩く。一歩、また一歩。熱さが皮膚を焦がす。だが、歩みは止めない。
ヴァルガスが気づく。炎の向こうから、灰のような少年が、怯えることもなく近づいてくることに。
「……クィド……? ……ア・メンスか?」
ヴァルガスが嘲笑う。この圧倒的な熱量の前で、蛾のように身投げしに来たと思ったのだろう。
違う。カイの目は、燃え盛る炎を見ていなかった。彼が見ていたのは、炎の中心ではない。その炎を支えている土台。ヴァルガスが纏う鎧の、そのさらに奥にある、微細なエネルギーの血管のような繋がりだ。
(エネルギー保存の法則は絶対だ。無から有は生まれない)
あの巨大な火球を維持するためには、常にエネルギーを供給し続けなければならない。供給源は、住人たちの祈り。受信機は、ヴァルガスの鎧。そして、鎧から剣へとエネルギーを送る伝達路があるはずだ。
カイの知覚が、極限まで研ぎ澄まされる。熱い。痛い。だが、見える。ヴァルガスの右肩、肘、手首。鎧の継ぎ目にある、留め具のようなパーツ。そこが、ドクン、ドクンと、心臓のように脈打っている。
(……見つけた。あそこが『中継点』だ)
あそこを通って、エネルギーが剣に流れている。電線で言えば、被膜が破れてショート寸前の箇所。配管で言えば、水圧がかかりすぎて膨れ上がった継ぎ目。
あそこを突けば、構造全体が崩壊する。
だが、遠い。距離にして十メートル。この熱波の中を、生身で突っ切るのは不可能だ。近づく前に蒸発する。
ヴァルガスが剣を振り上げた。発射の構え。終わりの合図。
「……モ・ルスェェェッ!!」
ヴァルガスが剣を振り下ろそうとした、その刹那。
カイは、感覚を失い真っ黒に汚れた左手を無理やりズボンのポケットにねじ込み、「あるもの」を取り出した。それは武器ではない。数日前、スラムのあばら屋で拾った、磨かれた金属板の破片――古びた鏡だ。
(光は、直進する)
カイは、震える手で鏡の破片を掲げた。狙うのはヴァルガスではない。ヴァルガスの背後。天幕の支柱にぶら下がっている、予備の燃料タンク――彼らが照明用に使っている、高純度の発光石の束だ。
カイは鏡の角度を微調整する。ヴァルガスが放っている強烈な炎の光を、鏡で反射させ、一点に集束させる。小学校の理科で習った、虫眼鏡で黒い紙を焦がす原理。
ジュッ!
集められた熱線が、発光石を束ねていた麻紐を焼き切った。
ガシャァァァン!!
大量の発光石が、ヴァルガスの真後ろに落下した。砕けた石から、青白い閃光が弾ける。不意の衝撃音と閃光に、ヴァルガスがビクリと反応した。
「……な、何っ!?」
彼は反射的に振り返ってしまった。剣を振り下ろす動作が、コンマ数秒だけ遅れる。そして、その意識の隙間が、鎧の制御にわずかなゆらぎを生む。
その一瞬。鉄壁の防御に穴が開く、千載一遇の隙。
カイは駆けた。思考するよりも速く。熱波を切り裂き、物理法則を味方につけて。
「そこが、繋ぎ目だ、ヴァルガス!!」
カイの左手が、ヴァルガスの懐へと伸びる。魔法を消すんじゃない。その魔法を生み出している「回路」を、物理的に引っこ抜く。
指先が、熱に触れる。皮膚が焼ける匂いがする。だが、カイは止まらない。
(その過剰なエネルギーの繋がり、完全に断ち切ってやる!)




