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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
漂流の産声

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第2話 魂の拒絶反応

 石材の冷たさが、背中を通じて意識を現実に引き戻した。再び目を開けたとき、視界を占めていたのは、ひび割れた石と腐食した廃材が不規則に組み合わさった、低い天井だった。


「あ、……」


 声を出そうとして、喉が焼けるような倦怠感に襲われる。激しい運動後の筋肉痛などではない。自分という存在の根幹が、極限まで摩耗し、削り取られたような不快なきしみだ。


 大気に満ちる、正体不明の高密度なエネルギーの圧力。それが、日本という穏やかな世界に適応しきった俺の魂を、今も絶え間なく押し潰そうとしている。


 深海一万メートルの水圧に、生身で放り出されたらこんな気分だろうか。呼吸をするたびに、肺の肺胞一つ一つが、重たい油のような空気に犯され、悲鳴を上げている。


(最悪の目覚めだ。ここは、どこだ?)


 体を起こそうとするが、鉛のように重い。周囲を見渡せば、そこはあばら屋と呼ぶのさえためらわれる、瓦礫の集積所のような場所だった。壁の隙間からは紫色の霧が蛇のように這い込み、床には土埃が厚く積もっている。家具らしい家具もなく、ただ隅に置かれた錆びた鉄の箱や、正体不明の骨董品のようなガラクタが、ここが文明の末端であることを無言で語っていた。


 部屋の隅には、先ほど俺を拾ってくれた老人と少女が、怯えたようにこちらを見つめていた。


 老人が、穏やかな、だが意味の通じない旋律で語りかけてくる。


「……、……? ……、……」


 言葉が通じない。いや、文法構造は論理的だ。だが、音の周波数がこの世界の異常な密度に引っ張られ、俺の知覚をすり抜けていく。まるで、水中で会話を聞いているようなもどかしさ。ただ、その発音の端々に、ラテン語やギリシャ語などの「現代語の共通の祖先」を感じさせる響きがあることだけが、奇妙な既視感を与えていた。


(言語のルーツが同じ? なら、いつか解析できるはずだ)


 その思考を中断させたのは、耐え難い生理的欲求だった。喉は砂漠のように乾ききり、胃袋は空虚に収縮して内側から壁を削り取るような痛みを訴えている。脱水症状だ。思考を回すための冷却水が足りていない。


 それに気づいたのだろう。痩せ細った少女が、割れた陶器のような器を大切そうに捧げ持ち、歩み寄ってきた。器の中には、濁った水が揺れている。彼女の澄んだ瞳には、得体の知れない異物である俺に対する、純粋で痛々しい心配の色が浮かんでいた。


 この乾燥しきったスラムの住人にとって、水は血の一滴にも等しいはずだ。それを惜しみなく差し出してくれる彼女の献身。


「…………っ」


 俺は震える手でそれを受け取り、渇きに急かされるまま、一口、喉に流し込んだ。理科の実験なら、未知の液体を口にするなんて自殺行為だ。だが、今は生物としての生存本能が理性を上回った。


 だが。


「が……ッ!? ごほ、げほっ……!」


 水が食道を通過した瞬間、高圧電流を直接流し込まれたような衝撃が全身を駆け巡った。


「……は、ぁ……、っ……!」


 器を放り出し、喉を押さえて床をのたうち回る。熱い。痛い。内臓が雑巾のように絞り上げられる。少女が悲鳴に近い声を上げ、老人が狼狽しながら駆け寄ってきた。彼らの目には、清らかなはずの水を飲んで呪いを受けたように悶絶する俺の姿が、理解不能な恐怖として映っていたはずだ。


(違う、毒じゃない! 水そのものが悪いんじゃない!)


 絶望的な飢餓感の中で、俺の脳は、無意識にこの現象を解析していた。


(水の中に、あの紫色の『不純物(エネルギー)』が飽和するまで溶け込んでいるんだ。俺の魂と、エネルギーの規格が違いすぎる!)


 日本仕様の家電を、変圧器なしで海外のコンセントに繋げばショートする。それと同じだ。俺の魂は、この世界のエネルギーを受け入れられない「絶縁体」になってしまっている。そこに、高濃度のエネルギーを含んだ水を流し込めば、拒絶反応が起きるのは当然だ。


 この高密度のエネルギーを取り除き、純粋な「水」にろ過できなければ、俺は餓死する前にこの水で内側から焼き切られて死ぬ。


 やがて、部屋の影が濃くなると、老人が明かりを灯そうとした。老人は、棚の奥から取り出した淡く発光する石の欠片を、奇妙な紋様が刻まれた金属の器具にセットする。そして、短く、しかし厳格な「一節」を口にする。


「……ル・クス……フィ・ア……」


 瞬間、石から光の粒子が溢れ出し、薄暗いあばら屋の内部を照らし始めた。本来なら「魔法」として感動すべき光景だ。だが、俺はそれを見て、感動よりも先に生理的な嫌悪感を覚えた。


(なんて、非効率な)


 明かりを灯すという単純な目的のために、なぜあんな無意味な発光現象や、空間を揺らす装飾的な紋様の展開にエネルギーを浪費しているのか。周囲の空気が振動し、余計な熱が発生している。入力されたエネルギーの半分以上が、光にならずに熱として捨てられている。


(ただの抵抗過熱か、発光ダイオード(LED)のような電子の遷移だけで十分なはずだ。物理法則を無理やり『歌』でエミュレートしているから、あんなに燃費が悪いんだ)


 たった一つの豆電球を灯すために、発電所を丸ごとショートさせているような、致命的な浪費。それが、この世界の「魔法」の正体か。


 老人が、夕食の前の「祈り」を始めた。それはこの世界の理への感謝を説く、朗々とした歌の響き。その波動が俺の硬い魂に触れるたび、ノイズキャンセリングが誤作動を起こすように、俺の内側でパチパチと火花が散り、脳を刺すような激痛が走った。


(やめてくれ……その無駄の多い音を、俺の魂に響かせないでくれ……!)


 生きるために食料を口にすれば、魂がショートする。魔法という名の不協和音の中にいれば、魂が絶え間なく摩耗していく。この世界のすべてが、久澄 解という存在を「エラー」として拒絶していた。


 あばら屋の隙間から差し込む光が、空気中を舞う埃を照らし出す。その埃の一つ一つでさえ、わずかにエネルギーを帯びて明滅しているように見え、俺は自分が猛毒のスープの中に沈められているような感覚に陥った。


 俺はあえぎながら、自分の胸元を掴んだ。心臓の鼓動が、この世界の重苦しい圧力に抗うように、激しく脈動している。魂が「硬く」ならなければ、俺はとっくに押し潰されて霧散していただろう。だが、硬くなったがゆえに、俺は世界のすべてと強烈な摩擦を起こしている。


 少女がもう一度、器を差し出してきた。その指先は震えており、彼女自身の空腹も限界に近いことが見て取れた。彼女は、この理解不能な異物を見捨てようとしない。


 俺が、再び差し出された毒としての水を、震える手で握りしめたその時だった。


――ゴォォォォォォ……ッ。


 家の外から響いたその重低音は、鼓膜ではなく、脳の芯を直接殴りつけるような不快な周波数を持っていた。単なる鐘の音ではない。それは空間そのものを威圧し、塗り替えるための命令だ。


「っ、ぐ……あああぁっ!」


 俺は再び頭を抱えて蹲った。鐘の音が響くたび、俺の魂はノイズを弾き返そうとして激しい火花を散らす。


 老人の顔から一瞬にして血の気が引き、杖を持つ手が目に見えて震え始めた。少女は悲鳴さえ上げられず、俺のボロボロになった制服の裾をぎゅっと掴み、その場に身をすくませた。


「……ッ、……!!」


 老人が掠れた声で何かを叫ぶ。教会の支配を象徴する暴力――『徴税騎士』の影が、すぐそこまで迫っていた。


 俺は、痛む体を引きずりながら、壁に寄りかかった。生きるための水は毒となり、救いの祈りは痛みを呼ぶ。この窒息しそうな灰色の世界で、俺だけが、独りきりでシステムの矛盾に晒されている。


 近づいてくる足音。軍靴が瓦礫を踏み砕く、冷徹なリズム。視界の隅で、現実を定義するノイズが、危険信号のように激しく明滅し始めていた。


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