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虚空の理 ~祈りも詠唱も必要ない。魔法が非効率すぎる世界を物理法則で解体する~  作者: 来里 綴
偽りの聖譜

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第18話 包囲網

 炎の爆ぜる音が、鼓膜ではなく、神経を直接逆なでするような不快なリズムで響いていた。


 スラムの広場に設置された、木材と錆びた鉄柵を継ぎ接ぎした急造の檻。その木枠の一角が、先ほどヴァルガスが放った火球によって赤々と燃え上がっている。檻の中に閉じ込められた住人たちは、炎の熱さと、それ以上に「燃やされる」という根源的な恐怖によって、悲鳴を上げることすら忘れ、熱を帯び始めた奥の鉄格子にしがみついて震えていた。


 その炎の照り返しの中に、カイは立っていた。背後には、逃げるべき闇がある。だが、彼は一歩も動かない。彼の視線は、檻の前で歪んだ笑みを浮かべる銀鎧の騎士、ヴァルガスに釘付けになっていた。


「……ヴェ・ニ(来た)か」


 ヴァルガスが、低く、湿った声を漏らした。彼は動かない右腕をだらりと下げたまま、左手で持った剣を大げさに振るい、燃える檻を指した。そして、手のひらを返して握り込むジェスチャーをする。瞬間、檻を舐めていた炎の勢いが、フッ……と弱まった。完全に消えたわけではない。種火のように燻り、いつでも再点火できる状態で待機している。


(脅しか。俺が戻ってきたから、処刑を一時停止したってわけか)


 カイは、脂汗の滲む額を左手で拭った。熱い。物理的な気温だけではない。この広場全体に充満する、濃密すぎるエネルギーの圧力。ヴァルガスだけではない。彼の周囲に控える四人の兵士たち。彼らの鎧からも、不快な重低音――「ブォォォォン」という、待機電力の唸りのような音が響いている。


 一対五。単純な戦力差で言えば、勝ち目など万に一つもない。相手は武装した軍隊。こちらは、満身創痍の高校生一人と、ガラクタで作った「針金」一本。


「……トゥ(貴様)……ストゥル・トゥス(愚か)だ」


 ヴァルガスが、侮蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。彼はゆっくりとカイに歩み寄ってくる。その一歩一歩が、ズシン、ズシンと地面を揺らす。数百キロはあるはずの質量。それが、魔法という名の理屈で無理やり加速され、凶器となって迫ってくる。


 カイは、右手の「導体(プローブ)」を逆手に握りしめた。掌の汗で、鉄の感触が滑る。怖い。当たり前だ。あんな鉄の塊に殴られれば、俺の体なんてトマトみたいに潰れる。帰りたい。あの退屈な教室へ。湿気った布団の中へ。だが、足は動かなかった。恐怖で麻痺しているからではない。背後にある「守るべきもの」の重さが、カイの足をこの場所に縫い付けているのだ。


(計算しろ。感情を殺せ。目の前にあるのは怪物じゃない。ただの『物理現象』だ)


 カイは、自分にそう言い聞かせ、視界のピントを合わせた。ヴァルガスの姿を、恐怖の対象としてではなく、観察すべき「構造物」として捉え直す。


 まず目につくのは、彼の右腕だ。さっきの奇襲で、カイが回路を焼き切った部位。肩の装甲板が不自然に歪み、隙間からは黒い煙が漏れている。鎧の表面を走っていた光のラインも、右半身だけは死んだように消えていた。


(……よし。右腕の機能不全は継続している。少なくとも、右からの攻撃は来ない)


 だが、問題はそれ以外だ。生きている左半身、そして胴体や脚部の輝きは、先ほどよりも増しているように見える。特に胸の中央に刻まれた紋章。そこが、ドクン、ドクンと、まるで心臓のように赤黒く脈動している。


(エネルギーの循環が狂ってる。右腕に行き場を失ったエネルギーが、他の部位に逆流して、過負荷を起こしかけてるんだ)


 それはチャンスであると同時に、危険な兆候でもあった。制御を失った機械は、時に性能以上の暴走を引き起こす。今のヴァルガスは、安全装置の外れた時限爆弾のようなものだ。


「……エッ・チェ(見ろ)


 ヴァルガスが立ち止まり、部下たちに顎をしゃくった。四人の兵士が、無言のまま散開する。ザッ、ザッ、ザッ。統制の取れた動き。彼らはカイを中心にして、半円を描くように展開した。逃げ道を塞ぎ、確実に獲物を狩るための「包囲網」だ。


 ヴァルガスは、カイの顔――特にその「目」と「髪」を、じっと覗き込んだ。兜の奥にある彼の瞳には、純粋な嫌悪と、生理的な拒絶反応が浮かんでいた。


「……オ・クリ()……ニ・グ・ルム()……。カ・ピ・ルス()……ニ・グ・ルム()……」


 ニ・グ・ルム。黒。ヴァルガスは、吐き捨てるように言った。


「……コ・ロル()……マ・ルス()……。ノン・カノン(聖典にない)……!!」


 言葉は分からない。だが、文脈は痛いほど伝わってきた。黒い目。黒い髪。この世界では、それは「不吉」の色なのだ。スラムの住人たちでさえ、金や茶、あるいは色素の抜けたような白銀の髪を持っていた。黒一色の色彩を持つ人間など、カイ以外には見たことがない。


 ヴァルガスにとって、カイは単なる敵ではない。教会の定める「美しさ」から外れた、汚らわしい異物。存在すること自体が罪である、エラー。


「……プ・ル・ガ(浄化)……ネ・チェ・ッセ(必要)……」


 ヴァルガスが剣を突きつけた。それは戦闘の合図というより、害虫駆除の開始宣言だった。


 カイは、小さく息を吐いた。怒りが、腹の底で冷たく固まっていくのを感じる。見た目が違うから。色が違うから。教典に載っていないから。そんなくだらない理由で、人を殺し、踏みにじるのか。


「色なんて、ただの光の反射率だろ」


 カイは日本語で呟いた。相手には通じない。だが、自分自身のために、言葉にする必要があった。


「可視光線の波長がどうとか、そんなことで人を定義するな。お前らのその『聖譜』とやらは、随分と偏ったデータベースだな」


 カイは、右手のプローブを構え直した。切っ先を、ヴァルガスではなく、その鎧の「胸」――過熱して赤く光る紋章へと向ける。


「それに、お前のその鎧。見てられないよ」


 カイの視線が、冷徹な観察者のそれに変わる。


「熱いんだろ? 中で蒸し焼きになってるんじゃないか?」


 挑発ではない。事実の指摘だ。ヴァルガスの周囲の空気が、陽炎のように揺らめいている。鎧からの放熱が追いついていない証拠だ。エネルギー効率が悪すぎる。入力された魔力の半分以上が、運動エネルギーではなく「熱」としてロスしている。


(あんな欠陥設計の機械を、ありがたがって着てるのか。笑えない冗談だ)


 だが、その「熱」こそが、今のカイにとっては最大の脅威でもあった。近づけば焼かれる。触れれば溶ける。こちらの武器は、熱に弱い「銀」の針金だ。長時間接触させれば、焼き切れるのはこちらの方だ。


(一撃だ。長くても、数秒。それ以上は、このプローブが持たない)


 ジリ、と包囲が狭まる。兵士の一人が、剣を構えて間合いを詰めてくる。ヴァルガスは動かない。部下を使って、カイを消耗させるつもりだ。


「……イ・ク(行け)


 ヴァルガスの短く冷たい命令。同時に、右側の兵士が動いた。


「ハッ!!」


 気合の声と共に、袈裟懸けの斬撃が迫る。速い。だが、今のカイには、その動きが「予備動作」の段階から見えていた。


 剣を振るう直前、兵士の「右肩」の鎧が、カッと強く発光したのだ。エネルギーが伝達され、筋肉のアシストが始まる合図。それが分かっていれば、反応できる。


(……光った。来る!)


 カイは、兵士が剣を振り下ろすよりも早く、地面を蹴って左へ飛んだ。


ゴォッ!!


 空気を切り裂く剣圧が、カイの横を通り過ぎる。


 回避成功。だが、反撃の暇はない。すぐさま、左側の兵士が突きを放ってくる。


(……くそっ、連携かよ!)


 カイは泥にまみれながら転がり、どうにか躱す。体勢を立て直す暇もなく、三番目の兵士が迫る。息が切れる。心臓が痛い。やはり、身体能力の差は歴然だ。魔法による身体強化を受けた彼らは、疲れることを知らない機械のようだ。


 対するカイは、ただの高校生。アドレナリンで痛みをごまかしているが、体力は限界に近い。


(……このままじゃ、じり貧だ。どこかで『流れ』を切らないと)


 カイは、後ずさりしながら、広場の地形を頭に入れた。背後に瓦礫の山。右手に燃える檻。左手にヴァルガス。逃げ場はない。だが、「利用できるもの」はあるはずだ。


 その時、ヴァルガスが嘲笑うように言った。


「……サル・タ(踊れ)、……ラ・ット(ネズミ)


 彼は楽しんでいる。圧倒的な戦力差で、獲物をいたぶる狩り。その慢心。それこそが、カイが待っていた唯一の「隙」だった。


 カイは、わざと大きく体勢を崩したふりをした。右足が、瓦礫につまずく。


「……!!」


 兵士たちが、好機と見て殺到する。三方向からの同時攻撃。逃げ場はない。


 だが、カイの目は死んでいなかった。彼は倒れ込みながら、足元の「あるもの」を掴んだ。 それは、ヴァルガスたちが陣地を作るために打ち込んだ、太い鉄の杭から伸びる「ロープ」だった。


(物理法則は、誰にでも平等だ。お前らにも、俺にもな!)


 カイは、ロープを思い切り引き絞った。ピン! と張ったロープが、殺到してきた兵士たちの足元を掬う。


「なッ!?」


 兵士の一人が、前のめりにバランスを崩す。重装甲の鎧。その質量が、ここでは仇となる。一度バランスを崩した数百キロの鉄塊は、容易には止まれない。慣性の法則。


ガシャァァァン!!


 兵士同士が激突し、無様に転倒する。その一瞬の混乱。カイは、泥だらけになって起き上がった。


(……今だ!)


 狙うのは、転倒した兵士ではない。その奥で、高みの見物を決め込んでいた、ヴァルガスだ。


 カイは、地面を蹴り、低い姿勢で疾走した。予想外の行動に、ヴァルガスの目が驚愕に見開かれる。


「……トゥ(貴様)ッ!?」


 カイの体が、ヴァルガスの懐へと肉薄する。右手のプローブを、槍のように構える。狙いは一点。あの、赤黒く脈動する「胸の紋章」だ。


 あそこがエネルギーの中枢。そこを突けば、システム全体を停止させられるはずだ。


「……デ・コン・ス()トラクション()ッ!!」


 カイの叫びと共に、プローブの先端がヴァルガスの胸板へと迫る。


 だが。


ガキンッ!!


 硬質な音が響いた。カイの手ごたえは、「貫いた」ものではなかった。「弾かれた」感触。


「……!?」


 カイは目を見開いた。プローブの先端は、確かにヴァルガスの胸に当たった。だが、突き刺さっていない。鎧の表面に展開された、目に見えない「力の壁」に阻まれていたのだ。


障壁バリア!? いや、違う……これは……)


 カイの「硬い魂」が、接触点を通じて相手の情報を読み取る。それは魔法の壁ではない。あまりにも高密度に圧縮された「熱」の層だ。鎧から漏れ出した余剰エネルギーが、分厚い空気の断熱層を作っていたのだ。


 ジュッ、と音がして、プローブに巻き付けた銀線の一部が溶け落ちる。


「……イ・ム・ベ・キ・ル(無力)な……!」


 ヴァルガスが、至近距離でカイを睨みつける。その左手が、カウンターの裏拳を放つべく振り上げられた。


(しまっ、た……!)


 金属の手甲が、カイの横っ腹を捉える。


ドゴォォォォォン!!


 重機に撥ねられたような衝撃。肋骨が軋む嫌な音と共に、カイの体は紙屑のように吹き飛ばされた。


「が、はッ……!!」


 地面を何度もバウンドし、瓦礫の山に背中から激突する。肺の中の空気が強制的に排出され、視界が明滅する。痛い。熱い。苦しい。プローブを取り落としそうになるのを、無意識の握力だけでどうにか繋ぎ止める。


「……カ、イ……!」


 遠くで、ガレオスの悲鳴が聞こえた。


 カイは、霞む視界の中で、ヴァルガスがゆっくりとこちらへ歩いてくるのを見た。彼は、カイの一撃を弾いた胸の装甲を、埃でも払うように手で軽く叩いた。


「……パ・ル・ヴァ(小さい)……。……ム・ス・カ(羽虫)……」


 羽虫。それが、カイの全力を尽くした一撃への評価だった。


 ヴァルガスは、左手の剣を高く掲げた。刀身に、どす黒い炎が纏わりつく。先ほどの火球とは違う。もっと濃密で、粘り気のある、殺意の塊。


「……フィ・ニ(終わり)だ。……ラ・ット(ネズミ)


 カイは、震える手で地面を掴み、どうにか上半身を起こした。口の中に、鉄の味が広がる。身体強化なしで、鎧の一撃を受けたのだ。内臓が無事かどうか怪しい。


(硬い。熱い。重い……)


 これが、本職の騎士か。さっきの不意打ちとはわけが違う。正面からぶつかれば、物理的な性能差で圧殺される。小手先の「物理の応用」だけじゃ、この圧倒的な質量差は覆せないのか?


 いや。カイは、血の滲む唇を歪めて笑った。


(……面白いじゃないか。実験データが増えた)


 あいつの鎧は、熱の膜で守られている。つまり、外部からの干渉を拒絶するほど、エネルギーが飽和しているということだ。それは防御壁であると同時に、内部の回路が「限界ギリギリ」であることの証明でもある。


(外から突いてダメなら、内側から壊せばいい)


 カイは、痛む体を叱咤して立ち上がった。足が震える。視界が歪む。それでも、その瞳の光だけは消えていない。


 ヴァルガスが剣を振り下ろそうとする。その瞬間。


 カイは、右手のプローブを捨てた。


 カラン。乾いた音が響く。ヴァルガスの動きが、一瞬だけ止まる。命乞いか? 諦めたか? そう思ったのだろう。


 違う。カイは、左手を前に突き出した。ボロボロの、何も持たない左手を。


「道具に頼るのも、ここまでだ」


 カイは日本語で呟いた。あの銀線のプローブは、あくまで「絶縁」のための安全装置。だが、あの熱の壁を貫くには、安全装置越しでは出力が足りない。


(再現するんだ。数日前、あの怪物の核を、この手で握りつぶした時の『熱』を)


 生身の魂で、直接触れる。自分も焼けるかもしれない。回路がショートして、廃人になるかもしれない。だが、あの鎧というシステムを確実に停止させるには、それしかない。


「……ヴェ・ニ(来い)


 カイは、血まみれの左手で手招きした。ヴァルガスの顔が、憤怒に歪む。武器を捨てたゴミごときに挑発された屈辱。


「……モ・ルス(死ね)ェェッ!!」


 ヴァルガスが、炎を纏った剣を振り下ろして突っ込んでくる。その背後で、燃える檻の火が一層激しく燃え上がった。住人たちの悲鳴が、BGMのように響く。


 カイは動かない。じっと、迫りくる炎の軌道を見据える。


(軌道、速度、エネルギー密度……計算終了)


 ここからが、本当の勝負だ。物理法則を舐めたその剣を、俺の素手で受け止めてやる。


 カイの左手に、青白い微かな光――彼自身の魂の輝きが集束していく。それは、周囲の赤い炎とは対照的な、冷たく、静謐な「拒絶」の光だった。





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